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『あいつのおかげで』ーーー16(最終章) [自作原稿抜粋]

 『あいつのおかげで』トップは、→ こちら


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 山雨乃兎 近著


 『あいつのおかげで』16
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 調書作成が終わって家につくと十一時半だった。


 飯を食ったが、食った気がしなかった。


 ハツ子さんと向きあって食べていると彼女は、


「今日、何かあったの」


 と何度も訊いてくる。


 おれは、「一寸な」と返して風呂にはいった。


 身体を洗う気力がなかった。ただ湯舟に浸かりつづけた。


 本條ノートはおれの手元にある。一週間ほど前に今泉さんから返してもらった。このノー


トを表に出さない限り、津野田義男と今泉さんの繋がりも決して漏れることはないだろう。


 


 ーーー屋台の店主、刺されるーーー


 おれは朝刊の社会面に書かれた、その文字を目にした。


 被害者、今泉勇二さん(49)と容疑者、津野田義男(45)との接点は何なのか。犯行の


動機も含め、その部分の解明が待たれる。と、記事はそんな内容だった。


 そして困ったことには、記事には屋台のラーメン店、『ジョウちゃんラーメン』と、屋号が


出ていた。


 二人でベーコン・エッグと食パンを食べていたが、ハツ子さんも既に記事を目にしたらし


く、息づまる食卓となった。何か有ったのかは一目瞭然だ。それだからなのか、ハツ子さ


んは一言も口を開かない。


 ミンミン蝉が喧しかった。


 おれのケイタイが鳴った。


 久米島さんからで、彼は山下を乗せておれの家に行くと言った。


 十時におれの部屋で三人で会った。


 久米島さんが朝刊を四紙もってきていた。読売、朝日、毎日、神戸の四紙すべてに、今


泉さんが殺された事件は載っていた。


「佐伯、もう屋台は無理やな。それどころか、街を歩いただけで俺ら後ろ指さされると思う」


 久米島さんが弱音を吐くのも無理はない。


 山下は地蔵のように動かない。頭痛で瞼の下がった目で空中を観ている。


「今、中江市中心部に行ったら視線に耐えられへん状態になるやろ。尾上市はもっと都会


やから余計アカン。せやで、お前とこへ来たんや。佐伯、今泉のことで知っとることが有っ


たら言うてくれ」


「前に聞いたレベルまでです。それ以上には知りません」


「それやったら、アイツ、津野田いうのんにも安い金で立ち退かせやったいう事か」


「多分そうでしょう」


 久米島さんは震える右手で頭を抱える。


「多分、警察が聞きまわってくるやろけど、どないする」


「僕らは何も知らんことにしましょう。本條ノートの事を知っとるゆうても、ただそれだけで


す。立ち退かせ、やったんは今泉さんやし、その事には実際、僕らは何も関与してへん訳


ですから」


「そうやな」


 ハツ子さんはコンビニのバイトに出ている。


 自室の窓からは山の緑が見える。蝉の声だけが染みこんでくる。静謐なおれの自室。


隣家のない田畑だらけの郊外。


 久米島さんがおもむろに煙草に火をつけ、喫った。大きな灰皿が座卓の真ん中にあり、


静かな時が流れる。おれは胃液が突きあげてきて消化中のパンが口腔に戻ってきたの


で、慌てて洗面所まで走っていって吐いた。


 同じ二階の元の部屋に戻った。


 誰も動かない。


 会話しようとしない。


 おれは、客をもてなすお茶やコーヒーを出すことすら忘れていたのに今気づいた。


 気がはけそうだ。


 昨日まで苦楽を共にした中心人物の今泉さんが今はもうこの世に居ないのだ。


「済みません。お茶を出すのも忘れてました。今、入れますからーーー」


「否、俺はいい」


「ワイも、今、コーヒー飲む気も起きひんからエエわ」


 山下君も煙草を喫った。


 電池式の柱時計のコイルが何度も反転する秒針の音がおれたちの上に積もる。


「久米島さん。車はどうしましょうか」


 久米島さんは、震える右手で煙草の灰を切りながら、


「放っといたらエエと思う。とり敢えず、放っとくしかしゃあないがい佐伯。奥さんは俺らの


顔も見たいないヨッてねやから、今とりに行っても相手の気を昂ぶらせるだけや」


「そうかも知れませんね」


 おれは、日本茶と沢庵を出した。


 灰皿をとりかえる。旧い灰皿は吸い殻の山になっている。


「山下んとこは、立ち退き料ようけ出んのか」


 久米島さんがそう山下にふった。


「いや、ワイとこは計画対象外やから」


 山下の家は中江市の東の端の郊外にある。


 二人はおれの目を見る。


「ああ、ここも北の端やから……それに借地の上の中古物件ですし」


 おれはそう答える。


 通夜や葬儀には出るのがこれだけの関係となった今泉さんに対する礼儀なのだろう


が、おれたちは出られなかった。せめて、御香典だけでも人にことづければ好いのだが、


ことづける仲介者もいない。


「サエキ商会を畳むなら、資本金をお返ししなきゅいけないですね」


「佐伯、それはエエ。どうせ資本金に喰い込んだままの操業やろ。二年もマトモに給料も


もうとるし、俺は充分や。それで。……佐伯がまた何かする時の足しにしてくれ」


「いや、実は、資本金の一部はーーー」


「佐伯、ええから」


 久米島さんは細い目の奥で笑った。


「これで解散ですか。寂しいですね」


「いや、あいつのおかげでエエ夢みさせてもろた」


「あいつって、今泉さんですか。それともーー」


「本條……」


 おれのなかに或る旋律が浮かんだ。


 おれはその旋律を鼻で歌いだした。


 向かいに座る久米島さんも同じ旋律が浮かんでいたらしく、すぐおれのメロディーにか


ぶさってきた。座卓の左辺に座っていた山下君も後から同じ旋律をかぶせてきた。


♪幸せは、ゴールじゃなくて、積み重ね育むものー、だーかーら、二度とない、この日々を


大切に生きてゆこう。


「『微笑みのひと』か」


 と、おれが言った。


「布袋の曲やのー。ロックばりばりやのに、こんな曲も書くなぁ、あの人」


 と、久米島さんが言った。


 この二年の間に色んなことが有った。


 それでも人は生きてゆくしかないのだ。


「山下君は、これからどうする」


「ワイは、また、就職さがすわ。ワイにとっては元に戻っただけやから」


「久米島さんは」


「俺も、何とかやっていくわ。障害者年金も少ないけど出つづけるし、生保と損保の賠償


金の蓄えもある。まあ、何とかなるモンやて」


 たまには連絡をとり合おうと言いあっておれは二人を玄関まで送っていった。


「それにしても佐伯、エエとこやのー、ここは。静かやし、家も広いし。どうや、新婚生活


は」


「あっは」おれは照れ隠しに笑った。「新婚いうほどでもないですよ。もう二年ちかいんです


から」


「はよう子供つくれよ」


「子供は創らんつもりです。それに、ハツ子さんもう四十七だし」


「そうか」久米島さんは靴の踵を入れながら、「セックスは気持ちエエねやろ」


「何言うてんですか。直球ですね」


 と、おれは言って笑った。


「悪い悪い。妬けるがいのー、山下が」


「ふん。そりゃしゃあない」


 山下君がにんまり顔で応える。


「そうや。今度合コンしよ。山下の為に、俺らも混ざって」


「くめじまさん」


 


 さらに二年が過ぎた。


 中江市は大きく様変わりした。


 スコラホテルの向かいに大学と付属病院が建ち、製薬会社の工場が市の中心部に二


つと東部に一つできた。学生寮、官舎、マンションが至るところに建ち、昔からある一軒家


が減った。道路は縦横に直角に走り、大型スーパーや家電店やドラッグストアも進出して


きた。学生や講師、教授、医師らが歩く風景が見られ、老人が多かった人口割合も一転


し、二、三十代の若者がぐっと増えた。その人たちの需要から、中心部の専門店街が息


を吹きかえし、大型店とも競合するようになった。


 おれは、あれから再びドクダミラーメンを訪れ、雇ってもらった。


 本條の原稿を手直しした稿が自費系出版社で出版され、二万部を超えるヒットとなっ


た。


 出版社は、今泉邸へ連絡をとり、おれの存在を突きとめ、次回作を求めてきた。おれ


は、筆名だけで媒体には出ないことを条件に、二作目三作目を送った。


 様々な秘密をかかえることで、おれの心は多重構造となった。


 ハツ子さんのなかに居るときだけ、おれはつかの間の安寧に浸ることができた。


「本條の抱えてたものって何なんでしょう」


「佐伯、死んでもたモンの心は永遠に分からない。そら、しゃあないわ」


「今泉さん。そういうアンタだって生き急いだんじゃないですか。今どこに居られるんです


か」


「それは、多分、お前に説明しても分からへんと思うわ。俺も言葉で表しにくい。来たらえ


えわ。二十年後か三十年後に。それでも街は変わったやろ。……佐伯なぁ、俺はなぁ、営


業ばっかりして生きてきたけど、ホンマは何かの研究とかがしたかったんや。自分では出


来ぇへんかったけど、……」


「せやけど、街は研究者や医者で溢れかえってますよ。こんな風になるとは思いませんで


した。そういう意味では、この変化も今泉さんの計画やったんですか」


「阿呆、俺一人にそんな力あるかいな。……せやけど面ろかったわ佐伯、あの二年間は。


エエ夢みさしてもろたわ。それもこれも本條との縁からはじまったんやなぁ」


 本條が生きていれば四十八歳の誕生日を迎えようとしていた。


 六月の長雨の季節だった。


 昼すぎてから一時的に雨雲のあいだに陽が差しこんだ。


 おれは自室から東の空を見た。


 市の中心部の大学の学舎と付属病院棟の真上に弧をえがく太い虹がかかっていた。


                                 


                                             (了)


【引用歌詞、作詞 作曲:布袋寅泰『微笑みの人』】



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『あいつのおかげで』ーーー15 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』15
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 街に東洋人の出稼ぎの人が増えた。隣の市の工業団地のベッドタウンとして中江市は

もう十年ほど前からマンションなどが使われている。英語ではなく現地語で仲間同士で自

転車に乗ってスーパーマーケットなどに行き、かたまって喋っている姿は、おれたち地元

の人間には一種恐怖に感じられた。特に筋骨たくましい腕を見せ半ば叫ぶような勢いで

喋っている男たちは街には違和感があった。そして、ぽつぽつと浮浪者の姿も見かける

ようになった。市のあちこちで一戸建て住宅のとり壊しもはじまった。あまりに多くの地点

同時にとり壊し作業が行われているので昼間でも土埃がたち、そのすぐ上の空は赤く、

さらに上へ目を移すところで狭いグラデーションの帯となり、中空は深い紺色の青空とい

う変わった風景となった。

 そんな八月の或る日、おれと久米島さんと今泉さんと山下は、昨日の鉢を洗いそれぞ

れのワゴン車を洗った後、鶏ガラスープを創る為、車中のガス火をつけて一旦、リビン

グに戻りミーティングをしていた。

 夏場は屋台のラーメンは剰り売れない。冷えたジュースやビールを出すことによってお

れたちは自宅から出てくる客を集めた。

 冷房をまわさないとやってられないほど八月にはいってからは暑かった。

 おれたちは今泉邸のリビングの大型の冷房の風にあたりながらこれから先にラーメン

の他に何をやるかについて話しあっていた。

 玄関のチャイムが鳴ったので今泉さんが席をはずした。

 何やら来客とやりとりしてるらしい声がした後、すぐに彼はリビングに戻ってきた。

「何でもない。つづけよか」

 今泉さんがそう言った後、おれたちは彼の後ろの窓に化け物を見た。

 三人の息がとまる。

 山下は口を開けたままになっている。

「どうした?」

 と言って、今泉さんは振り返る。

 白髪の老婆が窓に貼りつき、どんどん、とガラスを叩く。

 老婆の顔は皺だらけでその弛みで目は半分も開かない。涎を窓につけながら何か呻い

ている。

 今泉さんは小型金庫から千円札を数枚出し、窓を開けて老婆にわたす。

「せいかつが出来まへんのやぁ。何ぞ恵んでください」

「お婆さん、その金で好きなモン買うたらエエがな」

「ワシは犀川いいまんねんや」

 おれと今泉さんは目を合わして背中を凍らせた。

「立ち退きさせられましてな。立ち退き料では家賃も払えんなってまいまして。娘は、どこ

ぞへ行てもてしまいましたわ。ウチには働けるモンが居らへんでェ。……不動産屋が来ま

してなぁ。二束三文やったさかい。たしか、今泉いう人でしたなぁ。お宅は何ていうお名前

ですねん」

 久米島さんが二人を呆然と見る。山下君はテーブルの上のサンドイッチを摘んでうつむ

いて食べはじめた。ややこしい問題に係わらない方がいいと判断したのだろう。

「ともかく、それ持ってどこなと行き」

 今泉さんはそう言うと窓を閉め、カーテンを引いた。

 それでも老婆は窓をたたく。

 今泉さんはステレオコンポーネントの電源を入れ、クラシックのCDをかけた。

「今泉、どういう事どい。立ち退かせか何ぞ、やったんこ」

 久米島さんが首を捻って今泉さんの顔を見詰めて訊く。

「いやー、大したことやない。心配せんとって」

「大したことやないことないやろ。あの婆さん、お前の名前ヨッたがい」

「ええやろ。ラーメンの仕事とは関係ないねんから」

 老婆のたたく窓の音がおれたちに切迫する。

「お前、人に恨まれることしょったら、こっちの仕事も出来ェんなるぞ」

「久米島、どっちが経営者や思てんねん」

「社長は佐伯やろが」

「わかった。説明するわ」

 そう言って今泉さんは目でおれに諒解をもとめた。

 今泉さんが上から『本條ノート』を持ってきて、事の顛末を語った。

 窓を叩く音は、いつしか止んでいた。

「今泉。これ、復讐したるほどのことやないと思うわ。俺は」

 久米島さんがまず言った。

「僕も、本條の方が弱いと思う。罰は神が与えるんやないか。それこそ本條やないけど信

仰的に考えても」

 と、おれが付け加えた。

「ワイ、本條の恨みの気持ちはよう分かるわ。せやけど、そんなことあげつらいよったら、

ワイなんかもっと一杯ある」

 山下も持論を言った。

「誰かが仇とったるいうのが、そないアカンか」

「今泉、俺はそんな倫理観がどうのいう問題より、もっと俯瞰して観なアカンよんね

や。……お前が仇とって、その後はどうなる? やられたらやり返す。その時に前以上の

事をやる。それをやられた相手が又、立ち直ってそれ以上の事をやり返す。やられんよう

にすんには、先に相手を殺してまわなアカンいう事にならへんか」

 おれは、久米島さんの話しはユダヤ教の『目には目を』の教えと同じことを言っていると

感じた。復讐は、受けた傷と同程度に思い留まる必要がある、という教えだ。

「何や、悪いことが起こりそうな気がすんなぁ」

 山下君の呟いたその一言はおれの思いと重なっていた。

「今泉、ともかく、やってもたもんはしゃあないけど、……今さら相手に大金やれとまでは

俺は言わへんけど、今やろうとしとる同なじ様な例があるんやったら、もうそれ止めとけ」

「今泉さん。生き遺った僕らが幸せになることが一番いいじゃないですか」

 おれたちはその後、昼の一時からそれぞれのワゴンで営業にでた。

 暑いのであまり出ないのでおれと久米島さんは、飲みものだけの客も受けいれた。

 三時をまわった頃、おれたちは市の北部の温泉施設のまえで今泉チームと偶然会っ

た。たまにはこんな事もある。

 二つのチームは一時間ほど温泉施設の向かいのコンビニの駐車場で店長に許可をとり

車を二台ならべて営業することにした。

 コンビニの隣には大きな更地ができていた。そこでは土方などが基礎工事のためパワ

ーショベルや掘削機で穴を掘っていた。どうやらマンションが建つようだ。土埃がこちらに

まで少しとどいていた。

 クラブ活動で道を走る学生。市営のプールから帰る自転車の児童。中江市の路は新し

く建つマンションなどに水道を供給する為、いたる処で掘りかえされていた。片面通行と

なった路には警備員がたち車を通す。悪路をものともしない自転車の児童や生徒たち。

 少ない客を捌いていると遠くから、県道を大きな群れが歩いてきた。

 彼らは時代遅れの服は着ていなかった。サマースーツや薄いブレザーを着た者も居た。

ポロシャツにコットンパンツ。Tシャツにジーンズ。だが、その衣類は少し草臥れかけてい

た。彼らは浮浪者になってまだ日が浅いのだった。

 おれは浮浪者に一杯ずつ奢ってやってはどうかと他の三人に持ちかけた。

「まあ、ずっとやなかったらエエけど」と、今泉さん。

「ワイも賛成」と、山下君。

「俺も。……まあ人救けや」と、久米島さん。

 彼らはこちらが招くまでもなく椅子に座った。

「ラーメンでいいですか」

 と、おれが訊く。

 彼らは声を出さずに頷いた。

 五人が食べている処にさらに六人の浮浪者が来た。

 金を出そうとする初めの客に、「今日はキャンペーンだから只でいいです」とおれは言っ

た。

 さらに六人が来て、彼らにもラーメンを出した。

 一般客も含めて一旦波が退いた。

「ホナ、そろそろ河岸変えて。分散しましょか」

 おれは道路に向かって左側の今泉さんの軽ワゴンの方を向いて言った。

 ストレッチャー式テーブルの鉢を片づけていた今泉さんの顔が少し曇った。

「うう…」

 その場に沈みこむ今泉さん。

「どうかしました?」

「おお!」

「佐伯! 救急車! 山下! 警察!」

 久米島さんが大声を挙げた。

 久米島さんは色の黒い中背の目つきの暗い男を羽交い締めにしている。久米島さんは

巨漢だが左半身に力が足りないので心許ない。男の手には刃わたり六〇センチはある

包丁が握られている。

 おれは、落ちつけ落ちつけ、と自分に言いながら市外局番に続けて119と押した。

「山下! 奴を抑えろ!」

 おれは電話がつながる前に山下に大声で指示する。

 山下は男と向き合う形で近づいてゆくが躊躇している。

 久米島さんが羽交い締めにした格好のまま奴の拳を健常な左手で渾身の力で叩く。

 おれはまわり込んで、今泉さんの姿を探す。

 遅かった。

 パイプ椅子の脇に倒れた今泉さんの周りには直径二メートルほどの厚い血溜まりが出

来ている。

「こらー!!」

 おれがそう叫んで肚に蹴りを入れるのと、山下が奴の両脚を抱きかかえるのがほぼ同

時だった。

 男の手から包丁が飛び、ストレッチャー式テーブルの上に滑るように落ちた。

「山下! 警察!」おれはそう言ってから男に向きなおって叫ぶ。「お前の名前は!?」

「オイ! しっかり喋らんかい!?」

 今度は背後の久米島さんが恫喝する。

 久米島さんの喉締めにあえぎながら男が名を言った。

「ツ・ノ・ダ…ヨシオ……」

 今泉さんは救急車で運ばれた。

 手錠をかけられた津野田義男とおれたちは警察の長い現場検証に立ちあった。

 人だかりができている。県道を走る車もヘッドライトを点けたままのろのろ運転をする。

容疑者津野田と今泉はどういう関係なのだ。君たちと津野田にも関係はないのか、と、刑

事はしつこくおれたちに尋ねた。おれは面識もないし、さっぱり判らない、とシラを切った。

 おれたち三人は車を置きに今泉邸へ戻った。

 玄関を開けて小学生の息子が出てきたが何を話す訳にもいかなかった。

 おれたちは久米島さんの車に同乗し、中江市市民病院へ向かった。

 今泉さんの奥さんと娘、それに親戚らしい人が救急処置室の廊下に集まっていた。

 目を赤く腫らせた奥さんがおれに近づいてきておれの胸を拳で叩いた。

「佐伯さん。アンタに会うてなければ主人は死ぬようなことはなかったんや。主人を返し

て! なぁ! 主人を返して!」

 今泉さんは救からなかった。

「アンタらには葬式には出ていらん! もう二度と、私のまえに来んといて!」

 親戚らしい男が奥さんの身体を戻した。

 おれたちはその場に居た今泉さんの親戚三人に夜間通用口を出たところへ誘導され

た。

 長い追及をうけた。

 犯人の事をアンタらは知らんのか。どういう状況で事件は起きたんだ。

 おれたちは帰途についた。皆、動転している。これからの事もこれからの事以外にも三

人で話す必要があった。

 しかし、おれは調書作成の為、警察署に呼びつけられていた。

「久米島さん、山下君、僕、まだ警察に行かなアカンから、今日は散会しよ。明日でも一

遍ゆっくり話そう。連絡するから」

 おれは今泉邸のまえで降ろしてもらった。

 カワサキLTD400に乗りかえた。

 深い霧のなかに点滅信号の赤がうっすらと明滅していた。時計を見ると十時をまわって

いた。

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『あいつのおかげで』ーーー14 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』14
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 おれはハツ子さんを見送った後、部屋で本條の小説を打ち直しはじめた。

 肋骨と歯が疼くが仕方ないことだった。

 翌々日、買った家にとりあえずの荷物を入れた。ハツ子さんも少しだけ鏡台などの荷物

を入れ、おれたちの結婚生活が実質上はじまった。

 おれは、ハツ子さんに『ジョウちゃんラーメン』の仕事のことは伏せたままにした。

 少しずつ荷物を入れた。

 実際にあばらが未だ痛いし、医者が仕事をするなと言うのだから、おれは二週間待た

ねばならなかった。屋台は上手くいっているだろうか、とときどき思いながら、おれは本條

の原稿を打ち直した。プロバイダ契約をして家に光ファイバーを導き、久米島さんの金で

株の電子取引もはじめた。ハツ子さんはドクダミラーメンに相変わらず午前十時から出勤

した。ときどき須藤さんの元気な様子も漏れ伝わってくる。最近はスコラホテルでの会合

の為に集まった背広姿の中年の客が多いらしい。ハツ子さんはときどき尾上市の実家に

帰って母親やお手伝いに会ってくる。当座の生活資金は今のところハツ子さんの亡き父

君の貯金から流れてくる。彼女は夕食だけは必ず自炊した。彼女のつくる料理は和食が

多く旨かった。炊いた魚や煮た野菜の料理が上手だった。

 おれたちが住んだ中江市西部の中古物件は、夫婦二人には些か広すぎた。前栽もあっ

たが、とりあえずは手入れをするのは先のばしにしていた。中江市の西部の峠の脇道を

はいった所にあった。山の東向きの斜面の中腹だったので日の入りは暦よりも少し早か

ったが、午後の残り日の時刻は陽光がはいって、特に二階の角部屋はぽかぽかと暖か

かった。

 おれは一日中家に居るのでリキッドガスを頼んでいる業者や実家から転送されてくる手

紙を運んでくる郵便局の職員とは言葉を交わすようになった。おれは印鑑を扱う中江市

の店に行って自分の表札をつくり、引き戸の玄関の上に掲げた。

 おれたち夫婦は異性同士として愛し合っているとは言えないのかも知れない。お互いを

求めあって結婚したという訳でもなかった。性の捌け口としてすぐ隣に居てくれることが便

利だという理由かも知れない。四十代になっているおれたちの性交は時間をかける濃厚

なものだった。お互いにそこまでは訊かないが今までの相手によって性技が鍛えられた

のだろう。他の面では、おれとハツ子さんは友だちか幼なじみのような言葉のやりとりだ

った。

 この家からでは今泉さんの家まで通うのが遠いのでおれは、金は必ずあとで返すから、

と言ってハツ子さんに金を出してもらい、中型の単車を買った。中古のLTD400という。

 歯医者に通って継ぎ歯を入れた。

 十一月になって殴られてから二週間たって肋骨の痛みもなくなったので、医者の診断は

受けずにおれは久しぶりに今泉邸へ出勤した。

 おれが居ない間、三人で軽ワゴンの方で営業したと皆が言った。

 三人でどうやってあの車に乗車したのだろうとおれは疑問に思ったので口にした。

 荷台のスライドドア附近の僅かな空間に三人の内の一人が交替で丸まったらしい。

「大分、客が定着してきた」

 と、今泉さんが言った。

 今泉さんの後ろで久米島さんがおれだけに見えるようにウインクした。

 鶏ガラと豚の背脂を仕入れて、午前中に日毎に交替でスープを創っているらしい。

 おれは、それぞれのチームが仕入れは独自ですることになりかけていたのを思いだし

た。

 今泉さんがおれの表情を見ておれの考えを察したのか、

「ええよ、佐伯。原材料の仕入れは、これからも俺がやる」

 と言った。

 十一時になって今泉・山下チームが出発した。

 おれは久米島さんに促され、大型のワゴン車の鍋で、久米島さんと一緒に鶏ガラスー

プ創りをした。今泉チームより二時間遅れとなってしまうが、急に出勤したのだから仕方

ない。

「佐伯、今泉は商売人風な動作が、板についとるわ。それで人気が出るんやろう。アイ

ツ、車停めてエプロンつけたら昔からやっとるラーメン屋の親父に見えるもんな」

 久米島さんは鶏ガラのはいった大鍋に震える両手で水を入れながらそう言った。

 おれも久米島さんの横からポリタンクにはいった水を大鍋に入れた。

 鍋が沸騰してから弱火にして蓋を閉め、おれたちはリビングルームに戻った。

 奥さんは今日は居られなかった。他人の家で勝手にくつろいでいるのは妙な気分だ。

 ソファに対面で座った。

 久米島さんはガラスのテーブルに読売新聞を展げて置き、黙読している。

 おれはテレビの横のラックからゴルフ雑誌をとり捲りながら写真を目で追う。

 四十を過ぎた者だとゴルフをやる奴はどっぷりと浸かっている年代だ。おれは打ちっ放

しで打つことはあるが、コースに出たことはない。自分のクラブも一つも持っていない。ア

イアンのキャビティーバックとフラットバックの特性の違いが分かる程度だ。反撥性が高く

てよく跳ぶが重心が高くスウィートスポットが狭いフラットバック。最近では反撥性も高くな

ったが元来、反撥性が低く、しかし重心が低くてスウィートスポットが広いキャビティーバッ

ク。おれはややスライス気味にドライバーで百六十ヤード飛ばす程度だ。パターは打ちの

強弱で距離を丁度に合わせることが苦手で、ラインの読みが当たったときにだけ気分よく

カップに収まる。久米島さんなら、事故に遭うまえはゴルフに嵌っていたタイプではない

か、等とおれは考えながら雑誌を捲る。優勝カップを手にして喜色満面の男子プロが顔

面から汗をしたたらせている。

「何か、他の商売も始めななぁ」

 紙面に目を落としたまま久米島さんが言う。

「えっ」

 おれは一瞬、何のことをどうと言われたのか分からなくて一言を返した。

「ラーメンは確かに順調やけど、男四人の給料がはじきだせるモンではない。これから、

もっと売れたとしても無理やな」

「そうですか」

 おれは、この話しの流れでは「資本金の備蓄を運用すべきだ」という主旨の言葉が久米

島さんから出そうで、他愛ない世間話の話題も浮かばなくなって黙した。それが不自然に

見られるとまずいと思うので余計、雑誌を注視する。

「俺が今泉に渡した二百はまだ残っとるんやろ」

「ええ」

「事業が思い浮かばんねやったら、株に投資してみんのも手ェかも知れへんなぁ」

「そうですね。今泉さんに、その辺のこと言うてみますわ」

 おれは心のなかで胸を撫でおろした。おれのとった行動が、久米島さんから測て悪でな

かったことが救いだった。ただ、隠れて先に行動を起こしたことは責められるべきだが。

黙す。黙す。ただただ、株への投資が吉と出てくれることを願うばかりだ。

 煙草を喫ったり、おたがい交替して新聞を読んだりした。おれはテレビはあまり見ないの

でスイッチを入れなかった。久米島さんもリモコンのスイッチを押さなかった。

 窓越しにトンビが旋回する姿が見え、遠いボイスタワーから、童謡ふる里の旋律が聞こ

えた。

 一時になって自分たちの分のラーメンを創って食べた。

 自分たちのスープをとった後、鍋に水を足し、さらに一度沸騰させる為に強火にする。

 本格派の味になっていた。

 辛さと適当な脂が大人の脳に心地よい。

 車を出して河岸を決めてチャルメラのメロディーを流すと客が詰めかけた。何という落差

だろう。行く所、行く所客の波だった。左足と右手に力のはいらない久米島さんは左手で

テーブルに鉢を出していった。おれもてんてこ舞いしながらラーメンを創り、鉢を運ぶのも

手伝った。客はそれぞれ帰る段になったらさりげなくワゴンの側面に書かれた『ジョウちゃ

んラーメン』という文字を憶えていった。

「何で『ジョウちゃんラーメン』って言うの」

 と、今日一日で三回尋ねられた。

「僕の同級生の名前からとったんです」

 その度におれは本條の自殺のことにまでは触れずに、客にそう答えた。

 百玉が夕方七時にはなくなった。

 大体、百出た処で上がりにしたらいいと、毎日今泉さんが言っていたらしい。それを久米

島さんから聞かされた。第一、もうスープが空っぽだ。

 おれは帰りの車を運転しながら鼻唄をうたった。

 本條がおれたちにツキを繰れた。本條という男が居なかったら、おれたちが出会うこと

もなかっただろう。

(あいつのおかげで)

「本條に礼を言わんといかんなぁ」

 助手席で久米島さんも鼻唄をうたっていた。

 ーーー淋しさに消え入りそうな月の灯りの下、

 ーーー俺たちの報われない愛が有った。

 何故だか二人とも同じ旋律をうたっていた。久米島さんやおれたちの青春時代の羨望

の男、甲斐よしひろの曲だった。

 七時半に今泉さんの家に帰りつくと、今泉チームも帰っていた。

 おれと久米島さんは車の外側を簡単に洗車してからリビングにはいった。

 奥さんも帰られていて子供もはしゃいで走りまわっていた。奥さんが創られたサンドイッ

チをいただく。

 今泉さんから給料をもらった。本来なら会計も含めておれが取り仕切らなきゃならないの

だとおれは心中で思った。

 その場でおれは金を確認した。

 三万はいっていた。

「今泉さん、おれ先月、そんなに売上あげてないで」

「まあ、気にするな。先月は半端やったからそれ位で、まあ、勘弁してくれ。給料は誰も生

活がかかっとんねんから、来月からはマトモな額だせる」

 山下がおれの向かいで微笑む。久米島さんは今泉さんの息子の相手をしている。皆そ

れぞれの表情が明るい。

(やっと、目鼻がついてきたか)

「今度から、夜泣きラーメンしたかったら自由にスタート時間、変えよう。それぞれのチー

ムで」

 今泉さんが久米島さんの手につながれた長男の頭を撫でながら提案した。

「ホンマ、こんな早う完売してもたら夜泣きラーメンにならへんね」

 久米島さんがそう返すと、皆がどっと笑った。

 一時間ほどの歓談のあと、解散した。

 おれがエンジンをかけると、同じタイミングで帰る久米島さんが赤い車から顔を出した。

「佐伯、バイク買うたんこ」

「ええ、まあ」

 フォーストローク四気筒の地響きで会話の声がとおりにくい。

「事故んなよ!」

「事故りますかいな!」

「明日、三時のーーー」

「はい」

 久米島さんのはじけた笑顔がLTD400のヘッドライトに浮かびあがった。

 おれはクラッチを繋ぎスロットルを引いて帰途についた。

 その晩、ハツ子さんがドクダミラーメンから帰ってきたのは十時半だった。

 おれはハツ子さんに仕事を辞めてくれないか、と話した。

「すぐに今の仕事が軌道に乗るわけやないけど、アンタには家に居てほしいんや」

「そう。佐伯君がそう言うなら辞めてもいいけど。別に、お金に困ることもないしね。だけ

ど、すぐには無理よ。ドクダミ、須藤さん一人になっちゃうし」

 翌日、早く目覚めたおれは、十時になって今泉さんのケイタイにかけた。日曜だった。

「僕です。佐伯です」

〈ああ、佐伯〉

「今いいですか。周りに人は居ませんか」

〈おお、俺一人やけど何?〉

「本條の原稿、一つ終わりまでやっつけましたけど」

〈おう、そうか。ホナ悪いけど書き留めでこっちに送ってくれっか。せやないと、誰ーれも居

らんタイミングいうのがないから〉

「分かりました。それと、本條のパソコンのハードディスクの問題はどうなってます?」

〈ああ、それ、こないだ原稿の一部を返しに行って、部屋、上げてもろて、USBメモリー接

続してウイルス仕掛けてきた。今のとこ誰も気づいてないと思う。世の中に出回ってない

ウイルスやから、完全や。何回か起動さしたら、そいで終わりや〉

「ひどい話しですねェ」

〈まあ、佐伯は深う考えんこっちゃ〉

 今日は、おれたちのチームは三時に出勤すると告げて、おれは電話を切った。

 『円環の果てに』というタイトルだった。

 主人公の祈りによって彼の妻を含む大勢の人々が復活し、殆どが息絶え、妻の生を確

保し、安寧を得た主人公が最終的には蘇りの不完全だった女のゾンビに殺されるという

話しだった。

 おれは本編に随所に改訂を加えた。一文一文、言いまわしを変えた。内容は全く変わっ

ていない。

 コンビニまで単車で行き、エックスパックを買い、今泉勇二と宛て名を書き住所を書き、

互いのケイタイ番号を記し、原稿とデータのフロッピーを一緒に入れて封をして局員に渡

した。

 朝起きたときからハツ子さんの姿は見かけなかった。どこかへ車で出掛けたらしい。お

れたちは多分、ダブルインカム・ノーキッズと呼ばれる生活スタイルを選ぶだろう。おれは

ハツ子さんに仕事をしてほしくないとまでは思っていない。ただ、夕方以降は家に居てほ

しい。おれの仕事が今後遷りかわっていったとしても、二人で働いてその収入で子供の為

の経済的負担なしで一生やっていくだろう。ハツ子さんの実家のお金に頼ることも出来る

が、ずっとその状態では人生つまらない。

 高度な専門職でなければ、おれは何でもできる。それに、本條のような実現不可能かも

知れない夢への幻想は持たない。社会に韜晦する個であればそれでいいのだ。死後の

世界とか神にすがるとか永遠の生命などといったものは、本條は信じていたようだが、お

れは端から否定する。第一、そんなものを信じていた本條自身が自殺というキリスト教で

は絶対に天国へ行けないとされる行動を起こしている。自らにより頼み、自らが優れない

ときは流れに任せていればいいだけなのに、何故、そこまで深く考える、追究する。有

るのか無いのか解らないものに。固執して自滅する。何故だ。本條。

 ラーメンは好調に売れつづけた。

 十一月の半ばになった或る日、おれと今泉さんは二台の屋台ともを休むことに決めた。

 昼頃、おれは個別に今泉邸に招かれた。

「実は、内々に話しがあってな」

 用件から先に話す今泉さんのこういうところがおれは好きだ。

 水曜の昼なので誰もいない。奥さんは多分パートに出ているのだろう。二階の彼の書斎

のような部屋に柔らかな冬の陽が溜まる。

「本條のノートがらみねんけどな」

「ああ、あれですか」

「俺は、アイツの無念、晴らしたろうと思う」

「どういう事ですか」

「アイツを侮蔑した奴らに復讐してやろうと思う」

 おれはセブンスターに火をつけ、ひと息すいこんだ。

「今泉さん。復讐するほどのことでもないですよ。本條が受けた侮蔑なんか、世の中にい

っぱい有りますよ。

本條が弱いんですよ」

「そう思うか。たとえアイツが弱かったんやとしても、自殺しとる。おそらく、そういう侮蔑の

言葉が重なって」

「それでも、アイツが、そういう奴とかかわらんかったら、それで済んどった話しかも知れま

せんし。死んだ奴のことなんか、どうでもええやないですか」

「佐伯は、アイツが死ぬ寸前はまったく付きあいがなかったんやろ。せやから、アイツの辛

さが分からへんねやと思う」

 そう言われれば返す言葉がない。確かに、おれの知っていた本條はスタンドマンでドラ

マーで快活な本條。小説を書く本條はおれはしらない。

「それで、具体的に何をどうされるんです?」

 今泉さんも煙草に火をつけた。

「これは誰にも言うてもうたら困る話しねんけどーーー」

「大丈夫です。僕は余分なことは口にしない男です」

 今泉さんはケントの煙を大きく吸いこんで長く息を吐いた。

「中江市に大学病院の誘致話しがある。オマエも知っとると思うけど東部のゴルフ場の近

くに何かが建とうとしとるやろ」

「そういえば、かなり広い、土地の造成してますね」

「あれが第一弾、製薬会社の工場や。五年がかりで中江市は大改造される。大学と医療

の街になる」

 今泉さんは何が言いたいのだろう。

「それで」と、おれは先を促す。

「スコラホテルの向かいに大学が建つ。製薬会社の工場も合計二社分の三軒が建つ。市

の中央にも。官舎や寮も建つ」

「ええ、そんなにようけ建ついうことは、大学なんか敷地とるし、……つまり、大幅な立ち

退きがある、いうことですか」

「そうや」

「ホイでも、充分な立ち退き料はらうんでしょ」

「そこや。……本條ノートに在った奴らを、二束三文で立ち退かす」

「………」

 何故、この人はここまでこだわるのだろう。本條。死ぬまえの本條が粘着質になってい

たと同様、この人も固執している。

「お前には何をしろ、とは言わへん。唯、知っといて欲しかっただけや」

「なんで僕に話されたのか、それでも僕には分かりません」

「そういうことで、この話しは終わりや」

 今泉さんはそう言ってから立って窓を二方向あけ、冷たい空気を入れた。

 或る日の晩、ハツ子さんに尋ねられた。屋台で働くおれを見たと言う。もう隠しておけな

くなったのでおれは今泉さんとの起業から今までのいきさつをざっと話した。

「そうなんだ。でも、須藤さんに義理わるいねェ」

 まったくその通りだが、須藤さんにいちいち言っていくのも余計わるいだろう。

 師走になってハツ子さんは新人に引き継ぎしてドクダミラーメンを辞めた。

 東部の製薬会社の工場は棟上げも終わり外壁も出来、二メートルくらいの塀も張りめぐ

らされてそれらしい形になってきた。

 中江市のあちらこちらにちらほらとマンションらしいものが建つ気配があった。マンション

用地と書いた看板が点在してきた。

 次の年になって早々、市長の選挙があった。

 三週間の選挙合戦のあと、現職の市長が再選された。

 ジョウちゃんラーメンは順調だった。

 三月になって市長が市民会館で演説し、その夜ケーブルテレビで市長が中江市改造計

画を市民に話した。

 医療の街になる。否、それよりも段階的な大幅な立ち退きがあるということが殆どの市

民にとって寝耳に水だった。

 翌日、市役所に市長に反対する人々が押しかけた。だがその日は大規模な暴動にまで

はならなかった。押しかけたのは定年退職者や主婦だったので力がない。

 そのうちに市長リコール運動が起こった。

 しかし、市長擁護派の団体も自然と形成された。リコール運動の代表は六人だったが

全て女性だった。昼間勤めに行くノルマのない人間が大体こういう運動のまとめ役にな

る。目立ちたい、つまり売名の動機もあるようで、彼女たちは週刊誌のインタビューなど

へどんどん露出していった。

 おれは家では久米島さんの金で相変わらず株の電子取引をしたが、一年目の今は元

金の三分の二まで減らせてしまった。今泉さんとはたまにケイタイで話すが彼も久米島さ

んが資本金にと渡してくれた金を株の取引に使っているらしい。彼は三倍に増やしたと言

っていた。

 ジョウちゃんラーメンは相変わらず繁盛している。ときどき今泉邸へ会計処理を手伝い

にいくが順調に売り上げは出ている。しかし、四人のひと月の月給として捻出できるの

は、一人12万程度だ。けれども皆、納得しているし、給料だけで生活しなくてはならない

者は一人も居ないので救われている。久米島さんには二級身体障害者の年金も有るし、

相手の任意保険から出た賠償金も有る。今泉さんはおれの知らない処で土地の転売な

どをやっているようだし、細君も働いている。山下君はイザとなれば両親の一億の貯金が

るし、実家に生活費も入れていない以上、自分の小遣いだけでいい訳だ。おれも何割

かはハツ子さんの実家の金に頼っている。

 市長が改造計画を公言してから二年目の三月に大学病院と大学用地の地区の広範囲

の立ち退き交渉がはじまった。これが実質、計画の第二段階ということになる。

 土地の現在の利便性、つまりその土地に居ることによって現在までどのような快適さを

得ていたか、と、それぞれの家の査定によって立ち退き額は異なった。だから立ち退く方

も幾らの額を受けたかを公にしようとはしない。

 立ち退かせには丸山不動産と他数社が当たった。

 こういう秘匿性を利用しておそらく今泉さんは例の行動に出るのだろう。

 ハツ子さんはコンビニにアルバイトに行きはじめた。おれたちは三ヶ月に一度くらい、神

戸に行き、博物館や美術館を観てまわってシティーホテルに泊まり洋酒を飲んだりした。

ハツ子さんは家でも油彩画をはじめた。市の絵画教室の仲間が家に来ることもあった。

 結婚して数ヶ月たつとおれは今泉さんや久米島さんにからかわれるようになった。籍を

入れたことはジョウちゃんラーメンのメンバーにはいつまでも黙っていたが、結局は二人

でスーパーで買い物をしているところを今泉さんに見られ、皆に知れた。最近では、二人

に「子を創るべきだ」と言われるので、おれは少し圧迫を感じている。

 ハツ子さんはよく、おれをスケッチした。おれの肖像画を油彩でも描きはじめている。お

れなどを描かなくても、片平川とかスコラホテルとか、いくらでも好い題材があるのにとお

れは思う。

*【引用歌詞、甲斐バンド、『汽笛の響き』】

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『あいつのおかげで』ーーー13 [自作原稿抜粋]

────────────────
 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』13
────────────────

【ブログ上では、表現の限界があるので、一部を伏せ字にしました。ご了承ください。】
【作品中の登場人物名は、すべて架空名称です。】 

 車はおれが運転するしかなかった。久米島さんは左足でクラッチを踏めない。

 今泉邸に戻ったが今泉チームは帰ってなかった。

 奥さんと子供たちに出くわした。どうされたんですかと奥さんと子供が呻くような小声で

言った。

 ともかく病院に行くべきだと、久米島さんに諭されて、久米島さんの赤い車で中江市市

民病院に向かった。車中から久米島さんがおれのケイタイで今泉さんに連絡を入れた。

「今日は早めに拠点に戻ってくるやて。おれらも診察が済んだら一遍、今泉の家に戻ろ

う。アイツに話し聞いてもらわな」

 通話のあと、久米島さんが言った。

 病院に着いて救急窓口から久米島さんが診察を頼んだ。

 傷口の手当てをした後、医者は、明日必ず外科を受診してレントゲンを撮って下さい、と

言った。

 診察室を出ると警察官と刑事に行く手をはばまれた。

「佐伯さん、これは傷害事件ですからね。親告罪じゃないですから。しかも、一方的に殴ら

れた訳だし」

 おれは調書をつくるからと言われてパトカーに乗せられ、警察署に連れていかれた。パ

トカーに乗せられるのは何とも気分が滅入った。

 警察では、相手はどんな男たちだった、としつこく訊かれた。

 工藤組と名乗っていた、とおれが告げると五十人くらいの男の写真を次々に見せられ

た。

 そのなかに、革ジャンパーの男の顔があった。

 葛城という工藤組の構成員らしい。

「それで、お宅ら、みかじめ料払ってるの」

「ええ、一緒にやってる今泉さんがヤクザに払ってる筈です。工藤組かどうか、僕は知らな

いんですが」

 刑事は煙草に火をつけて長いひと息目を吐いた。

「佐伯さん。暴対法(暴力団対策法)が出来てからは、そんなの払わなくてもいいんです

よ。先に警察に相談してくれたらよかったのに」

 十時頃、パトカーで今泉邸まで送ってもらった。

 鑑識係がおれたちのワゴンの写真を撮ったり指紋を採取したりしているのを尻目に、お

れは玄関をくぐった。

「佐伯、災難やったな」

 全員が居間で待っていてくれた。

 奥さんに温かい牛乳を勧められたが、おれは牛乳が苦手なので丁重に断ってコーヒー

を頼んだ。

「工藤組には、みかじめ払とんのにのぉ」

 今泉さんが重たい息で言う。つづけて、「幹部に言うといたから、今回のような事はもう

ないわ。安心せえ」

 それから全員でミーティングとなり、明日、明後日と二日休みと決まった。身体を休める

ことと、それぞれのチームで仕入れをすることが宿題となった。

 山下は今泉さんに、おれは久米島さんにそれぞれ自宅まで送ってもらった。

 久米島さんはケイタイが毀れてしまったので、自宅の番号を書いたメモを呉れた。

 傷が多いので風呂にはいるのは止めた。

 ベッドに横たわると左の肋骨の下の二本が疼いた。

 ハツ子さんからケイタイにかかってきた。明日の昼から婚姻届を出しにいくことにした。

 翌日、病院へ診察を受けにいった。

 窓口で昨日の事情を話すと待ち時間なしに外科の診察室へ通された。

 レントゲンを撮り、フィルムを持ってふたたび診察室に戻った。

 医者は肋骨にひびがはいっていると言った。

 治るまで仕事はしてはいけない、と言う。胴に巻くギプスはないので酷かったら入院して

ベッドの上で絶対安静だが、そこまでではない。とりあえず身体を剰り動かすな、と言う。

診断書を書くので警察に提出してください、と言われ、診察室のまえで待った。

 警察から要請があって、それですぐに診てくれたという訳だ。

 今日は、母の原付を拝借してきていた。

 診断書には、全治二週間と書かれていた。それを持って警察署まで走った。

 事情聴取のときの刑事に会った。

「葛城は逮捕したから」

 診断書をわたすと書類作成費用を返してくれた。

 もう一人の男は前島と呼ばれていたのを思いだしたが、今さら進言する気にもなれず、

おれは警察署を後にした。

 家に原付を戻して徒歩で出た。

 待ち合わせの喫茶店へ向かった。途中、ドクダミラーメンのまえを通った。暖簾がかかっ

ていて、数人の客が出這入りしていた。ハツ子さんは今日は休んだんだろう。須藤さん独

りで今日は大変だろうなぁ、とおれは自省した。

 喫茶店につくと、十二時にはまだなってなかったが日替わり定食を註文した。定食のロ

ースカツは手ごわかった。おれはポテトサラダと味噌汁と漬け物で飯を食い、サンドイッ

チを註文した。

 ボイスタワーの童謡ふる里が店内にも微かに聞こえた。

 会社員らしき客がばたばたと数人はいってきた。

「早かったのねェ、佐伯君」

 下田ハツ子が、いつの間にかおれのまえに座っていた。

「ああ、用事があったから、ついでで動いたんだ」

「どうしたの、その歯」

 奇妙な笑みまじりに驚きを顕す。

「ああ、一寸、仕事のトラブルでな」

「トラブルで何よ。ヤクザに殴られたの?」

「その通りや」

 ウェイトレスが註文を聞きににきて、ハツ子さんはコーヒーを頼む。昼食は摂ってきたよ

うだ。

「仕事でヤクザに殴られるって、それ、どんな仕事なの」

 おれもコーヒーを頼んだ。

「それはまた、おいおい話すから」

「まあ、いいけど……っふっ」

 ハツ子さんは何が可笑しいのか噴きだし、声をあげて笑いだした。

「何が、可笑しいの」

「だって、アンタの顔、まるで間抜け」

 おれは昨日から舌で数えるのを何度かやっているが、上の前歯が四本、歯ぐきのすぐ

傍から折れている。

「トンカツが切れへんねや」

「そら、そうでしょ。その歯では……前歯が千切る為の歯なんだから」

 一時に市役所に行って婚姻届をその場で書いて出した。おれの方は二度目の結婚な

ので書類を書くのは馴れている。新婚生活の住所はとり敢えずおれの実家とした。

 ハツ子さんのセルシオで中江市の西部の郊外の中古物件を見にいった。

 その後、すぐ不動産屋に行って契約した。

 色々逡巡しても意味がない。住んでみて環境に問題があればすぐ売ればいいのだ。

 ハツ子さんに金を出してもらったが、自分が不甲斐ないとは思わなかった。唸るほど金

を持っているのだから、頼れるところはたよろう。

 ハツ子さんが、おれの住んでる家を見たいと言うので、おれは仕方なく実家へ道案内し

た。

 玄関で母と出会してしまった。

「初めまして、私し、下田ハツ子と申します。佐伯さんとはお仕事で知り合いまして、どう

ぞ、宜しくお願いします」

 母は一瞬、唖然としたが、すぐに態勢を立てなおした。

「ウチの圭吾は常識も鈍いようなボンクラやけど、どうぞ仲ようしたってな」

「いえいえ、とんでもない事でございます。私しの方が不躾な方で、こちらこそ宜しくお願い

します。お邪魔いたします」

 流石は大きな家で育った女だ。こういう時の挨拶をわきまえている。

 おれたちは、おれの自室へと階段を上がった。

 へーえ、こういう所に居るんだ、と、ハツ子さんはしばし感慨にふけっていた。

 お互いにベッドに腰かけたまま、おれはそうしたくなったので彼女に抱きついてキスをし

た。

「佐伯くん。血の味がするで。それ、早いこと歯医者いかなアカンのんちゃう」

 口のなかの出血は止まりにくい。確かにハツ子さんの言うとおりだった。

「あの、私、さっきお母さんに挨拶したけど、あれだけでエエねやろか。結婚のこと

は……」

「構へん構へん。おれもバツ一やし、お互い、こんな歳なんやから、それに、母親と一緒に

住む訳ちゃうし」

 それからハツ子さんはそれを初めて見た珍しさからかしばらくエレキベースを弄くってい

た。

 母が階段を上がってきて湯のみと緑茶のはいった急須を置いていった。

 おれは、ケイタイから今泉さんのケイタイと久米島さんの自宅にかけて、肋骨に罅がは

いっているので二週間は仕事が出来ないと伝えた。

 久米島さんは「おれ一人やったら屋台出せんから今泉と三人で一台でやるのか今泉に

訊いてみるわ」と言った。

 今泉さんは「そら災難やな。ホナらも一つの例の仕事の方、進めといて」と言った。

 例の仕事とは、本條の原稿の件である。

 おれは二件の電話を終えると、木机の椅子に座って原稿の一束をとり机上に置いた。

 何、それ、とハツ子さんが近づいてくる。

 本條という自殺した同級生が書いた小説だとおれは説明した。

 こんなにあるのか、という意味のことを言ってハツ子さんは驚き、ダンボール箱のなかを

吟味する。

「それで佐伯くん、この小説どうかすんの」

「いや別に。気晴らしに読むだけやけど」

 ハツ子さんにもこの件は言えない。夫婦は何もかも分かちあうというけれど、おれは、い

くつかの秘密をかかえたまま、生きてゆくのかも知れない。腹に何かをかかえて生きるの

が大人なのかもしれない。

   *   *

 ーーー**たい奴

 犀川理津子

 おれが母親の代わりにコインランドリーへ洗濯物を乾かしに行った時、五、六年振りで

元、山中製缶時代の同僚だった、当時パート勤務の犀川理津子に出会った。

 その時、犀川はこう言った。

「アンタ、未だ、お母ちゃんと一緒に住んどっての」

 おれが、いつまで経っても経済的に自立していないとでも言いたいのだろう。又、おれが

マザコンであるとでも言いたいのだろう。

 おれは実家から離れた事は、ほんの僅かしかないが、仕事をしてる時は家に毎月四万

から六万はずっと入れてきた。そういう事も知らないで理津子は、現状だけを見て侮蔑す

る。四十も過ぎた男が結婚もしていない事を情けないとでも言いたいのだろう。

 理津子よ! 自分の娘はどうなのだ。

 仕事はつづいているが四十を過ぎて未だに独身ではないか。

 人の心に刺さる事を平気で言う小母さんだ。それも、顔も美しくもなく性格も可愛い処が

ない。自分にコンプレックスが有るから平気で他人を傷つけるのだろう。何か欠点の有る

人間を誹謗しないと、すっきりしないのだろう。憐れな奴だ。

 おれは、お前の知らない時期に一度は結婚をしているのだ。その妻は自殺してしまった

けど、お前の娘のように一度も結婚できていないよりは、おれは益しだ。

 法律がなかったら、絶対、お前を**!

 津野田義男

 こいつは、おれが小学校五年の時に、毎日毎日耳たぶを引っぱっておれを苛めてくれ

た。おれが発表すると、いちいち茶化した。あの当時のクラスの五、六人の男は、クラス

全体を陰湿な雰囲気にしやがった。

 お前に苛められてなければ、おれは四年生の時の学年トップの成績を維持して大学も

出て、今頃、博士か教授になっていただろう。

 津野田義男、法律がなかったら、おれはお前を**!

 板倉二郎

 お前は、おれが町内の草むしりに出た時、掃除が終わって歓談している時に、「寝るの

が仕事やがいの」

と言いやがった。

 おれが統合失調症だから、この三年ほど仕事に就いていない、という事情を知らない

で、まるでおれが怠けているかのような一言を言いやがった。

 考想伝播のある状態で仕事をする事が、どれだけ辛いのかお前は判っているのか!

 それに、おれは、夜中に毎日、小説を書いているんだ。仕事にする為に、賞に投稿し続

けているんだ。何もしてない訳じゃない。

 板倉二郎!

 法律がなかったら、絶対、お前を**!

 宮本秀一! 淀川絹子! 五味賢治!

 お前らも、同様に、おれが無職である事を鼻で嗤いやがった。

 法律がなかったら、絶対、お前らも**!

   *   *

 日曜日、おれは朝七時に起きた。ハツ子さんと何度か睦みあったので深い睡眠はとれ

なかった。

 肋骨が痛み、歯が疼いた。しかし、日曜では歯医者も開いていない。

   *   *

 今泉は材料の調達を山下と久米島にことづけ、久米島の車を見送った後、自らのランド

クルーザーで出掛けた。

 大きな門構えの田舎の邸宅だった。

「柴田さん、頼みたい事が有るんですが…」

 七十を超えた老紳士だった。

 彼は着物の襟合わせを帯のちかくの身頃を引き、直しながら少し身を乗りだした。

「というと何だね、今泉くん」

「中江市に大規模な都市改造、或いは、多数の事業誘致の計画はないでしょうか」

 複数の所有者が居る山林なども、いつの間にか広範囲で買いとられ、大手メーカーの

群立する工業団地や新興住宅地に変わってゆく、という事が世間ではままある。

 国家の差し金で大まかな土地の用途の変更がそれぞれの地方都市の裏のボスに打診

され、個人の思いなどを超えたところで開発は進むものらしい。

 今泉にも詳しいことは分からなかったが、中江市の場合、その中央からの打診を真っ先

に受けるのが、資産家で元不動産屋のこの柴田篤治郎らしいのだ。

 柴田は、ひとくちブランデーを飲み、葉巻に火をつけ大きく喉からの煙を吐いてから、

「有るにはあるが、まだ、どうなるかは分からない段階だ。公民党の杉崎が中江市を大改

造しようという目論みで動いている。大協製薬、佐宇田製薬、それに医学部付属病院を

持つ新設大学の誘致だ。……しかし中江市総合病院の理事長が強硬に反対している。

この話しは理事長留まりだ。中江市では推進派の現市長と総合病院の理事長、それに

私しかこの話しは知らないんで、そこは辨えてくれよ。今泉くん」

「ええ、それは勿論」

 今泉はケントの煙を吐きながらつづけた。「で、早ければいつから動きだすんです。その

計画」

「すると決まれば、年内から動く」

「大幅な立ち退き、有るんでしょう?」

「ああ、勿論。中江市の殆どの住人が一旦、現住所からは立ち退いてもらう事になる」

「(反対)運動になりませんか」

 柴田は白い口髭の終点を左手人差し指でなぞった。

「今泉くん、五年計画だよ。段階的に立ち退かせる。最初の二年、つまり、この計画の一

期二期では誰も気づかない。佐宇田製薬の第二工場が今は山林の市の東部に建ち、清

涼飲料の工場が市の中心部、スコラホテルの東に建つ。表向きは清涼飲料の工場だ

が、実は大協製薬の医療備品廃棄工場だ。大協はスポックG(清涼飲料)でも有名だ。そ

こで将来の大学病院から出る医療廃棄物を百パーセント処理することになる。……それ

から大学の寮だ。これも初めはマンションとして客も入戸させる。このマンション十棟と(医

備品)廃棄工場建設の段階でかなりの立ち退き者を出すことになる。が、しかし、マン

ションへの転居が可能でそれなりの立ち退き料も当たるということになればそんなに大き

な反対にはならないだろう。清涼飲料の工場が出来るから雇用の機会が増える、と喜ぶ

住人も居るだろう」

 柴田は新しいブランデーの封を切ってグラスに注いだ。そして続ける。

「さて、問題は(計画の)三期からだ。

 いよいよ、大学と大学病院、それに大協と佐宇田のメインの工場を持ってくることにな

る。これは中江市の殆どの住民に立ち退いてもらうことになる。勿論、新興住宅地は創る

し、その青写真を市民に提示する。そして、市長に演説をぶってもらって、市民に納得して

もらう事も必要になる。だから、計画が潜行している段階の来年の市長選には、現市長に

勝ってもらわねばならない。それと併行して、総合病院の主要メンバーのヘッドハンティン

グ。逆に大学病院の医師も何人かハイポストで総合病院へ出向かせ、中江市総合病院

を骨抜きにして完全に大学側と癒着させる」

「まったくの新設大学ですか」

「否、教授などは西都大から引っぱる。言わば西都大の内陸拠点といったものになるだろ

う」

「学生、集まりますか」

「今泉くん、そのままじゃ集まる訳がないだろう」

「えっ?」

「別の大学を一つ潰す。……岡山のY大だ。世の中、面白いもんだ。大学をつぶしたい奴

が居て、一方では或る大学を膨らますのに金を惜しまない奴が居る。地方都市に活性を

求める者が居て、地方に事業所を増やしたい会社がある。こういう事で世の中まわって

いくんだよ」

 弱い雨が降ってきた。

 中庭の池が粒模様をえがく。

 今泉はそれを見ていた眼をあげ、柴田に目を合わせる。

「実は」

 今泉は灰皿で火種をもみ消してから、

「砂を噛ましてやりたい奴が居りまして、」

「ほう、それで」

 柴田はグラスを持ったまま今泉の次の言葉を待つ。

「深い事情は訊かないで下さい。ただ、数人の困らせたい奴らの家に、立ち退きを話しに

僕に行かせて下さい。立ち退き料の設定も、其奴らのは、僕に決めさせて下さい。お願い

出来ますか」

「それは構わんが、実質動くのは丸山不動産の丸山だ。彼だけじゃないが、一番の動き

手は丸山になるだ ろう。アイツと話して上手くやればいい。……それにしても、お前が人

を困らせたいとは…」

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『あいつのおかげで』ーーー12 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』12
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 今泉さんの家に帰った。

 軽のワゴンは既に停まっていた。

 リビングルームの卓状コタツを囲んだ。

 今泉さんも山下君も涼しい顔をしている。

 おれたち二人は、奥さんの拵えたサンドイッチをつまんだ。

 今泉、山下組は五時には完売したらしい。

 おれは売れのこったことを正直に話して、何か秘訣があるのかを訊いた。

「秘訣なんか有らへん」

 商売はそういうものだ、と今泉さんは言った。

 会社が軌道に乗るまでは当分、出来高制のバイト給しか捻出できないから、お前らのチ

ームも頑張れよ、と彼はさらに言った。

 おれと久米島さんは今泉さんに喰いさがった。

 なぜ、今泉さんチームが完売でおれたちが売れのこったのか分からない。値段を下げ

なかったか、主にどういうお客さんだったのか、と、おれたちは質問した。

 値段は下げていないらしい。客筋に関しては、言えない、という答えが返ってきた。

 仕方ない。山下を、彼が独りのときにつついてみよう、と、おれは思った。

 外気に当たったせいで少し赤くなった頬に笑い皺をつくり、目を細めてリンゴの欠片を口

に含んで頸を傾けている。今泉さんの顔を見ながら至福にひたっている山下。

 夜遅いので散会となった。

 明日は食器洗浄や仕入れをするので十一時に集合と決まった。

 今泉さんが山下を送っていった。

 おれは久米島さんの赤い車に乗せてもらった。

「何か秘策があるようですね。向こう」

 車中でおれが切りだす。

「わからんけどな。客を集めやすい場所に行っきょるか。それか…、やっぱり味かな」

 二人とも、それ以降黙った。

 いやしくも、元、料理のプロの久米島さんと、ラーメン屋就労経験者のおれ。

 負ける訳にはいかない。

 何とかしなくては。

 久米島さんはおれを降ろして尾上市へと帰っていった。

 後遺症の残る身体で一番遠い距離から車で通勤。辛いと言えば、久米島さんが一番つ

らいのかもしれない。

 玄関をはいり、自室に向かう階段の途中でケイタイが鳴った。

 ハツ子さんからだった。おれは当分、籍を入れに市役所にいくのさえ出来そうにないと

いう旨の内容を伝えた。

「佐伯くん。新しい仕事って何なのよ。何曜日が休みなの」

 まだ今泉さんとも、休日については決めあっていなかった。それどころではない。休みが

欲しいなどと、今は言っている場合ではない。

 軌道に乗ったら、何の仕事なのかは言う。今は、未だ仕事が不安定なんだ、と言ってお

れはケイタイを切った。

 シャワーを浴びると、身体が重たくなり、ベッドに来たと同時に寝入ってしまった。

 四時に目が開いた。

 酒を飲んだわけでもないのに、なぜ短くしか眠れなかったのだろう。

『クレセント』という名のウィスキーを背のたかいコップに三分の二ほど注ぎ、嘗めながら

柿の種をつまみ、セブンスターを喫う。

 机にある本條の原稿を手にとり、『あいつのおかげで』の最終部分を見る。

(また、進んでいる)

 おれたちがワゴン車を改造に出してそれを引きとってペイントを施しなどと、詳細な場面

描写がつづく。おれとハツ子さんが結婚を決めることも書いてある。そして屋台営業二日

目の昼に、一方のワゴン車のチームが玄人に因縁をつけられぼこぼこに一人が殴られ

る。そのチームはほうほうのていで拠点に引きあげてくる。

 またしても、誰が被害に遭うのかは特定できない本條の書きかただった。

(おーい、本條……)

 こんな時間から酒を飲んでいいのか、とおれのなかのおれは訊く。なーに、酒など四時

間で分解されてしまうさ、とおれのなかのもう一人のおれが言う。

 空が白みはじめた。

 おれは、なぜそうするのか判らないが、本條の原稿のはいったダンボールをまさぐっ

た。

 ダンボール一杯の原稿。一枚千二百文字でプリントされた明朝体の活字の海。綴り紐

ごとの作品を数十作絨毯のうえに置きなおすと原稿とは違うものが出てきた。

 B六サイズのノートだった。原稿より小さいのでまぎれ込んで今泉さんも梱包のとき気づ

かなかったのだろう。

 絨毯に胡座を掻いて頁をめくる。

 ーーーこれを読んでいる読者よ。ここに書いたことはフィクションではありません。

 一頁目には、規則性が一貫してないのでお世辞にも綺麗とは云えない本條のペンによ

る肉筆で、それだけが書かれていた。

 おれは頁をめくった。

 そこでおれは右手に持っていたウィスキーのはいったコップを瞬間、意識しなくなり、絨

毯の上に落としてしまった。

 おれはノートにざっと目を通したあと、それを閉じ、絨毯の上に転がったコップをとり、新

しいウィスキーを注ぎ、ストレートでぐいと呷ると、ふたたびベッドに横たわった。

 胃を掴まれてぐねぐねともてあそばれているような気分から悪夢のなかへ落ちていっ

た。

 十時に目が開いて身支度をしてバスに乗った。今泉邸まで歩く気がしなかった。

 がらんどうのバスを降りて今泉さんに会うと、おれは昨日のノートを渡した。

「これ、どう思います。本條のノートらしいんですが」

 他の者はまだ着いていなかった。

 今泉さんは数頁めくる。彼の眉間に一瞬皺が寄った。

「よし、分かった。ちょっとコレ、俺に預からしといてくれ」

 今泉さんはそう言うと、ノートを置きに階段を駆けあがってゆき、十秒ほどでその階段か

ら再びゆっくりと降りてきた。

「さあ、今日も仕事。正念場やぞ。上がれや、佐伯」

 リビングルームに上がった。

 しばらくしてエンジン音がして久米島さんが来て、その後、山下君も自転車でやってき

た。

 今泉さんが豆を挽いて四人分コーヒーを入れてくれた。

「今日までは、おれが用意したけど、これからは仕入れはそれぞれの班ですることにしよ

うな」

 今泉さんがそう言った。

 おれは、今泉チームの昨日の好調についてなぜ完売したのか今泉さんに訊いたが、相

変わらず今泉さんははぐらかすばかりで答えなかった。

 十分ほどの歓談のあと、庭で蛇口からホースをつないだ水道の水で食器を洗い、今泉

さんが用意したポリタンクの水を車の飲料水タンクに補給した。麺茹で用の鍋にも水を補

給し、ガスで沸かせる。昨日のスープを今泉さんが用意した布で濾過して下水溝に棄て、

鍋を洗って新しいスープを創る。出汁はとらずに沸騰した水に鶏ガラスープの素を溶かし

ていく。何度か、味見をする。

 今日は夜もやろう、と今泉さんが言う。

 帰ってくんのは夜の十一時、と今泉さんが言う。

「歩合でやるから。ノルマはないけど。佐伯ら、今日、何玉もっていく?」

 と、今泉さん。

 おれは一瞬、久米島さんと目を合わせた。久米島さんは、沢山売るとも消極的にしてお

こうともそのどちらの答えも持っていない曖昧な表情を浮かべていた。

「六十で」

 と、おれは言った。

 百を売る自信さえなかった。

 仕込みが終わると居間に戻って全員でサンドイッチをつまんだ。今泉さんの奥さんが朝

つくりおいたものらしい。

「佐伯チーム、焼き豚だけは、これからもおれに頼んでな。特別な仕入れ先から入れよる

から」

 と、今泉さんは言った。

 山下は黙々とサンドイッチを食べていた。

 山下の顔には仕事をする喜びと、安心が顕れていた。

 おれと久米島さんの顔には不安が浮かんでいた。

 久米島さんは震える両手でコーヒーをすすった。

 おれのカップを持つ右手も少し震えていた。

 リビングルームにはテレビがついている。食後は四人で何を話すということもなく、その

テレビに映ったバラエティー番組を見ていた。今泉さんは一時に出発と腹で決めているの

だろう。おれにはテレビのなかでタレントが何をしているのかが鮮明にはならなかった。正

午にボイスタワーから童謡ふる里がながれた筈だったが、それにも気づかなかった。十

畳ほどのリビングルームには今泉さんと山下君の笑い声だけが木霊した。あの事を話し

忘れている、とおれは気づいた。しかし、善からぬ危惧を持たせるだけになるので、おれ

は誰にも話さないことにした。一時になって出発になった。

 車に乗り込む直前に今泉さんがおれに頭を近づけて小声で囁くように言った。

「佐伯、あんまり深刻に考えるな。ラーメンが駄目でも他のことも考えとる。実験やくらいの

気でな」

 おれと久米島さんは、昨日と同じ中江市の東部の田舎に行った。

 昨日と同じく、畦道では十数人の客がついた。昨日も来ていた主婦が今日も来てくれた

という福音もあった。

 四時頃、河岸を変えようと車を出した。少し走ると雷が鳴り一気に空が暗くなった。

 おれたちは仕方なく片平川ぞいの喫茶店にはいった。

 ーーー久米島さんは、この仕事なんとか成ると思てですか。

 ーーー何や、佐伯、不安なんこ?

 ーーーはい。僕には、これでマトモな収入は無理なんやないかと思います。

 ーーーそら、のう、佐伯。アカンかも分かれへん。それは俺も思うとる。せやけど、エエ

がいや。こうやって本條の連れやいうだけで集まって、人の出来んこと、やってみょんねん

から。佐伯、人は皆、自立しとるようで自立してないもんなんや。一生、病気もせんと誰の

厄介にもならんと生きれるモンなんか居らへん。もっと言うたら、自立しとっても稼ぎよん

のは金や。自給自足をしとる訳ではない。牛や馬飼うて、牛の乳しぼって鶏に卵うまし

て、畑と田んぼやって自分で家たてて、電気も自家発電してテレビも鉱山から金属ほって

きて精製して部品つくって組みたてて嫁はんの子を自分でとりあげたら、そこまでやったら

ホンマに自立しとる言えるけどな。

 ーーーそれは無理ですね。

 ーーーそうやろ。せやから怠けてなかったらそれで善しとして、自分を赦したったらええ

んとちゃうか。本條みたいに自殺なんかせんと。まあ、佐伯はそうではないとしても、精神

的に追いつめられる人は、自分に厳しすぎんねや。自分を責めるから、気の力が内側に

ばっかり向く。せやから、自分の気が内臓とか神経とかを苛めてしまうねや。病気いうた

らそんなもんやと俺は思とる。

 ーーーそうですか。そういう風には考えた事なかったですわ。

 ーーー犯罪やなかってさえ、もっと他人に凭れてもええんとちゃうか。人間のつながり合

った社会いうのも一つの大きな人間と考えてええんちゃうかなぁ。そない考えると、社会の

落伍者も身体の一部ねんから、手がしびれるから、とか、足が痛いからいうて、手や足、

自分ですぐ斬る人は居らん訳やし。

 ーーーなるほどねェ。その考え方オモロイですね。

 ーーーまあ、それはそうと、今すぐにでも食うに困るんやったら今泉に言うて降りんか。

それやったら話しは別や。

 まだ大丈夫です、とおれは言った。

 雨が止んだのでおれたちは移動した。

 市の中心部にまで戻って中学校のちかくの大通りに面してスナックが群立する国道の

ひとつ奥にはいった書店の駐車場にワゴンを停めた。

 営業させてもらっていいか、久米島さんが書店に伺いにいった。

 この辺りのスナックも廃屋になっているところが多い。市の西部の校区の高校生たちが

自転車で北へ帰る。中心部の中学から徒歩や自転車で帰途についている学生は南に向

かっている。近くに、この中江市では一番規模の大きい染工場があり、煙突からはグレー

の煙がもこもこと立ちのぼっている。染料の、黴と灰土が混ざったような吐き気をもよおす

香りが風に載ってはこばれてきてときどき鼻を刺す。

「長い時間やのうて、端のほうでやる分にはええねんて」

 左右の歩幅のちがうぎこちない歩き方で久米島さんが帰ってきた。

 おれたちはワゴンを書店から斜にいちばん遠い位置まで移動し、支度をはじめた。

 チャルメラのメロディーをながそうかやめようか迷った。結局、いつもの半分のボリュー

ムに絞ってながした。

 学生の客がついた。詰め襟を着た二人組だった。それから二人、また二人と高校生の

客がついた。クリーム色のブレザー、紺色のブレザー、詰め襟。服装のちがいは学校の

ちがいだった。女子学生もはいってきた。セーラー服を着た中学生も来た。

 校区がちがうと、同じ七百円でも高いと感じないのだろうか。これは善い河岸を見つけ

た、と、おれは内心おもった。

 若者の笑顔につられて久米島さんも微笑む。ラーメンを運ぶのが久米島さんで、彼の身

体の具合からすると少しきつい労働だが、今、彼は愉しんでいる。

 客の波が干いた。五時をまわったところだった。

 空の色が一段うすくなった。おれたちはまた河岸を変えようとワゴンを出した。

 市の南部の丘の新興住宅街の路地に駐車し、支度をはじめた。ここは今泉邸に近い。

残りは十玉だ。

 チャルメラをながすまでもなく客が来た。

 おれたちは黙して作業に徹した。

 布製のジャンパーを着た男と革ジャンパーを着た男の二人づれだった。二人とも眼が疲

労しているのか白目が黄色味を帯びていてぎろっと睨む目つきが鋭かった。不動産屋の

仕事でもしているのか、それとも教師か。否、今どきの教師は気の弱いサラリーマンみた

いな人が相場だし、等と、おれは手を動かしつつも考えた。

 彼らがビールもあるのか、と訊いてきたので、缶ビールだったら有ります、とおれはクー

ラーボックスから三百五十ミリ缶を出してコップに注いだ。ビールは幾らか、と訊かれてお

れは今泉さんにビールの値段の確認をとってなかったと思い、久米島さんの顔を見た

が、彼も価格を知る訳はなかったので、四百円です、と、その場で思いついた値段を言っ

た。

 ラーメンを出すと、二人の客は、旨いがい、旨いなぁ、と口々に言って貪るように麺を啜

り、汁を飲んだ。

 幾ら、と訊かれたので二千二百円ですと応えた。

 ホナ、これで、と布のジャンパーの男がテーブルに百円を置いた。

 お客さん、ご冗談を、とおれが言った辺りから客の態度が変わった。

「旨いがいや! 佐伯さん!」

 客はなぜ、おれの名を知っているのだろうか。

 皮ジャンパーの男がスツールを二脚けたおし、ラーメン鉢を路にたたきつけた。

「お前ら! 誰に断って商売しとるんじゃい!」

 おれは、小さな声で久米島さんに今泉さんに連絡して、と伝えた。

「玄人さんには既に許可をもろてます。僕では分からんので、今確認とってます」

 革ジャンパーの男が久米島さんの左手をはたいてケイタイを払いおとした。さらに男

は、ケイタイを足で踏みつけた。

「そ、その人には手ェ出さんといて下さい。身体障害者なんです!」

「ほーう、威勢がエエのう、佐伯さん」

 布ジャンパーの男が、おれの胸ぐらを掴む。

「アンタは健常者な訳やな」

 男がおれの身体を押す。

 ワゴンのなかの食器がかたかたと揺れる。

 住宅地の野次馬が窓を開けてこちらを窺っている。しかし、誰もワゴンの傍には寄ってこ

ない。

 男に急に引かれて肩から地面にたたきつけられた。

「インネンつけんな! このチンピラ!」

 おれはそう言いながら布ジャンパーの腹を思いっきり蹴った。

「オウオウ! 元気ええのう佐伯はん。ワシらチンピラや思とんのかい。教えたるわ。ワシ

ら工藤組のモンや」

 革ジャンパーの方がそう言った。

「オイ! 前島! やられとったらアカンがい。いてもたれや」

 革ジャンパーが蹲っていた布ジャンパーにそう声をかける。

 それからは全くおれはやられっぱなしだった。久米島さんが何度か割ってはいろうとした

が、男らは、「ワシら、身体障害者はよう殴らんねや」と言って撥ねのけた。

 頬に二発、腹に三発、顎に一発と背中に回し蹴り一発を喰らった。

「ちゃんと、みかじめ払いに来い。それから商売せえ」

 革ジャンパーがそう吐き棄てて、布ジャンパーが倒れているおれに唾を沫ばして去って

いった。

 おれは動けなかった。

 精神が強くても身体を傷めつけられると力が出ない。

 歯が折れているのだろう。口のなかに鉄の味がした。

  おれは倒れたまま東の空の月をみた。


 『あいつのおかげで』ーーー13

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『あいつのおかげで』ーーー11 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』11
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 月曜日、火曜日と、ドクダミラーメンは暇なまま時間が過ぎていった。

 水曜日も暇だった。

 店が終わると、テーブル席に促されて、おれとハツ子さんは須藤さんにビールを奢って

もらった。

 上に二間あるから泊まって帰ればいい、と須藤さんは言った。

「式は挙げへんのか」

「止して下さいよ。もう四十代半ばの二人なんですから」

 と、おれは照れながら応えた。

「そいでも、佐伯は再婚か知れんけど、ハツ子さんは初婚やろ。一生に一遍くらい文金高

島田が着たいんちゃうか。ああ、ウェディングドレスか。今は」

 須藤さんはどんな場面でもハツ子さんをさん付けで呼ぶ。

「別に、こだわってませんから」

 と、ハツ子さんは言った。

「佐伯、本人さん、こない言うとるけど、わかったれよ。女心いうのを」

 店長はそう冗談めかして言いながら、おれのコップにビールを注いだ。

 二階で寝つく頃、中型のバイクの中江市の国道を走りまわる音がうるさかった。

 おれはその音を、我慢しながら目を瞑った。

 雀の啼く声が聞こえていた。

 隣の部屋に須藤さんの姿はなかった。下で土間を重いものを引きずる音がして、壜から

何かを注いでい

る音がした。多分、一升瓶だろう。

 ハツ子さんも起きだしてきた。

 おれのケイタイが鳴った。

〈今泉やけど〉

「はい」

〈今日、十一時に集合な。前にも言うたけど〉

 腕時計を見る。八時二十分。

「はい。分かりました」

〈佐伯? 何かまずいのか、今? 出先?〉

「はい。大丈夫です」

〈可笑しな奴っちゃのう。ともかく頼むぞ〉

 はい、分かってます、と云って、おれは通話停止ボタンを押した。

「誰? 知り合い」

 ハツ子さんが髪を梳かしながら訊く。

「ああ、一寸な」

 階下に降りると陶器の甕のなかに醤油を調合している須藤さんと会った。

「お早う。これだけは企業秘密。お前にも教えられん」

 と、須藤さんは相好をくずす。

「真面目に働いてくれたの。これ給料の」

 と言って須藤さんは両手で封筒を差しだした。

「ありがとうございます。正直、僕で間に合ったのかどうか…」

「充分、充分。佐伯、真面目やし、これから何やっても大丈夫や。お前やったら」

 そう言われて、おれはこそばゆく感じたが同時に有り難く思った。

 ハツ子さんと一緒に従業員用の勝手口に向かう。

 振りかえるとそこは、幼い時分からの懐かしい空間のように感じた。

「それでは失礼します。須藤店長、お元気で」

「あいよ。……お前ら、これからデートか」

 笑いの息をこらえてオープン・ガレージまで歩く。

「おれ、歩いて帰るわ。今日、次の仕事の件で一寸、予定があんねん。また電話するか

ら」

 と、おれは言って、寂しそうな表情になりかけたハツ子さんの唇に自分の唇を合わせ

た。

 軽いキスだけのつもりだったのだが、唇がふれあいハツ子さんの息が頬にあたるとぎゅ

っと抱きついてしまった。それに誘発されたかのように彼女も、おれの腰に手をまわして

力を込める。

「すまん。仕事の件やから」

 おれはそう言って組みをほどいた。

「分かってる。じゃあ、また」

 ハツ子さんは、そう言ってセルシオのドアを解錠して運転席に乗った。

 おれは、情欲を抑えて背を向けて歩いた。

 一夜を同じところで過ごしながら、交情を交わさなかったのは初めてだった。

 今泉さんと久米島さんと山下君とおれは、今泉さんの家に集まった。

 久米島さんは赤い車で、山下君は自転車で、おれは歩いて集った。

 ワゴン車のペインティングはできていた。中華そばのマークも綺麗に修復されていた。

 おれたちは、今泉さんの奥さんの手料理を食べた。

「今日は、それぞれに五十玉、用意しとる。初日いうことで、その五十玉完売したら家に

戻ってくると」

 今泉さんが全員にそう言った。

 ビールは缶ビールを用意したらしい。

 ビールは客から訊かれるまで、用意していることを話さない方がいい、と今泉さんが言

った。

 それぞれの定価をいくらにしよう、とおれは今泉さんに訊いた。

「七百円」

 と今泉さんが言った。

「ええ? それは高すぎませんか」と、おれ。

「固定の店でも大体六百円やで」と山下君。

「客から苦情がでんのやないか」と、久米島さん。

 今泉さんは食後の煙草をふかしながら、

「屋台やから、それでええねん。祭りのテキ屋でも食いもんの値段は高いやろ。固定の店

より大量のロットが用意できんし、ガソリン代も車の維持費もかかって、その上、一台に二

人もついとんねんから、定価をそれ位にせな採算は合わへん。久米島さん。時間給一

人、七百五十円として一時間に何杯売ったら元とれる?」

 久米島さんは震える手でウィンストンライトを喫いながら、

「んー、ざっと三杯で千四百円やけど、コストのこと考えたら、その倍と診て四杯か…」

「おしいな。コストはガス代も含めて、一杯、三百円かかるんよ。利益、一杯あたり四百円

で四杯でかつかつやけど、消耗品の備品の買い換えやら、元々かかった車の改造費の

償却を考えると、絶対に一時間に五杯は売ってもらわなアカン。それが最低ラインや」

 おれは、奥さんが入れてくれたコーヒーをひと口飲んでそれを置いてから、

「今泉さん。旨いラーメンつくる自信はあんの」

 今泉さんは煙草を灰皿に押しつけながらおれを直視して目をまるめた。

「大丈夫。おれも大分練習した」

 今泉さんが用意したエプロンをつけて鐔の小さい野球帽のような帽子を全員がつけた。

胸許には、ジョウちゃん、と横書きのロゴが紫色でプリントされている。

 とりあえずは、おれと久米島さんの組が普通車のワゴンを使うことになった。

「ゆっくゆくは、夜泣きラーメンとして、夜もやる。今日は、五十玉完売したら帰ってきてく

れ。……夕方までに帰れるかな。佐伯」

 今泉さんは皮肉を混ぜて笑った。

 今泉さんから釣り銭用の小銭のはいった袋を預かった。

 午後一時二十分。ジョウちゃんラーメンの二台の車はスタートした。

 おれは助手席に久米島さんを乗せてギアをローに入れ、アクセルを踏んだ。

 おれは中江市の明石までつづくバイパス道路の北の終点から奥のただの国道となった

道を北東に向けて車を走らせた。

 今泉さんの車とは中江市の西側の国道の途中で分かれた。彼らはそのまま西畑町の

方へ向かったようだ。

 おれは国道から左にそれ、部落の田舎道にはいった。

 ーーーご家庭でご不要になったテレビ、パソコン、洗濯機などはございませんか。ひと

言、お声をかけてくだされば、こちらからとりに伺います。

 リサイクル回収業者の車の拡声器の声が遠くから聞こえる。

 おれたちも拡声器から、チャルメラのメロディーを流す。

 田舎道からそれぞれに少し距離をとった位置に一軒家が点在している。

 二階のアルミサッシの窓が開く音がして、主婦らしき人がこちらを覗きはじめる。

 車の往き違いのために少し道幅が広くなった道路の左に寄せて、おれは車を停めた。

 バックゲートを開き、ストレッチャー方式のテーブルをセッティングする。

 側面を包むように保温のための電気装置が鍋をつかんでいて、スープも茹で水も既に

八十五度で保温されている。

 久米島さんが底にセットされたガスコンロ二基に火を入れた。

 客はまだ一人も来ない。

「一個、試しづくりしましょうか」

 おれはそう言って久米島さんと目を合わせあった。

 茹で鍋の温度が上がってきた。

 蓋をとって煮たったのを確認するとトレーに用意された麺を一玉、ほぐしながら入れる。

細いストレート麺だ。手にかん水のぬるつきが移る。

 スープが沸騰したので火を弱火にする。

 インスタントの鶏ガラの溶液だが、匂いの湯気がたちのぼる。

 久米島さんが、鉢をテーブルに置く。手ががたつくので両手で鉢を置くのが精一杯だ。

 計量カップ型のお玉で、おれは醤油を入れ、ラードを入れる。

 鉢をテーブルに置いたまま、柄杓でスープを注ぐ。

 完全なラーメンの香りがただよいはじめた。

 おれは腕時計で、五分たったことを確認すると平笊で麺を掬った。

 焼き豚を切るのを忘れていた。

 今泉さんが用意してくれていたタッパーを開けると、本格的な焼き豚が二塊はいってい

た。

 まな板スペースがかなり高い位置にあるので焼き豚は切りにくかった。

 久米島さんがシナチクともやしとスライスされた卵と海苔を載せる。

 四十代の主婦と見える女が小学校高学年くらいの女の子を連れてやってきた。

「あの…、一杯、おいくらですの」

「七百円です」

「七百円……」

 主婦は少し逡巡したが、

「じゃあ、二つください」

 と言った。

「はい、二人前!」

 と、おれは言って、自分に景気をつける。

 久米島さんが丸いパイプ椅子を用意して主婦にテーブルを勧める。

 久米島さんが紙コップに給水器から水を汲んで左手で出す。

 大人しい女の子だ。

 小学校高学年ともなると女子が男子の身長を抜くころだな、とおれはふとそんなことを

考えた。かなり身長が高い。六十年代の主婦の身長といってもいい。

 四十代の主婦の方が、娘より少しだけ高いだけだ。

「佐伯、このラーメン、おれが食べていいか。今」

 何でそんなことを言いだすのだろう、と、おれは思ったが、

「いいですよ」

 と、久米島さんに勧めた。

 テーブルの親子からは遠い端におれは鉢を置く。

 久米島さんは立ったまま、おれの向かいでウインクした。

(男が男にウインクなんて、気持ちの悪い…)

 おれは一瞬そう感じたが、すぐにその意味を脳内で探しだした。

 車を挟んでおれの向かいに居た久米島さんは、左のスライドドアを開けエプロンを押し

込む。

 赤いフリースを着た百八十センチ、百十キロの巨漢だ。

 胡椒をふると、冷めて延びた麺を吸いこむ。

 震える右手で麺をはこぶ。

 すぼぼぼぼぼ。

「お母さん、美味しそうだねぇ」

「そうね、美味しそうね」

「もうすぐ出来ますからね。お客さん」

 杖をついた老人や学校をサボッたらしい若者や三、四十代の主婦たちが群がりはじめ

た。

「ああ旨かったわ。佐伯、おれの分払とくわな」

 スープまで飲みきった久米島さんは鉢の下に千円札を敷いた。

「ヘイ、お待ち」

 おれは親子づれのまえに鉢をならべる。

「ジョウちゃんラーメンか……一杯、いくら?」

「七百円です」

「じゃあ、おれ一つ」

「私も一つ」

「私も」

「おれらは二つ」

「はい、有り難うございます。はい、ラーメン五丁!」

 おれが景気をつける。

 久米島さんがエプロンをつけて戻る。椅子をならべ、水を出す。

 ワゴンは改造されてマフラーの排気口が車体の横にある。

「久米島さん。一旦エンジンかけて!」

 電圧が少し下がってきた。

 給水器の水の勢いが弱い。

「はい、了解!」

「久米島さん。それと、チャーシュー切って! 車のなかでは切りにくいから」

「あいよ」

「マスター、何でジョウちゃんラーメンいう名前なん」

 学校をサボッたかにみえる男子学生の二人組の一人が、おれの顔を見上げる。

 おれは麺の束を五つ、ほぐしながら鍋に落とす。

「ジョウちゃんのジョウというのがね、小父さんの友だちの名前の一字をとったものなんだ

よ」

 久米島さんの眼に寂しさの膜がかかる。

 おれはつづける。

「本條悟って言ってね。骨のある男だった。いつも何かの目標を定めてね。それに向かっ

て努力する男だった。ーー」

「だったって?」

「ん、そうか。小父さんの話しは過去形だね。……死んじゃったんだよ。本條君」

 午後の曇天に鳶が西園寺の山から舞う。田んぼの稲刈りはすみ、乾燥がすすんだ田の

稲の切り株が薄茶色く、遠くの山の松や杉のあいだに紅葉した楓や枯れた松の赤とは対

照的だ。片平川の上で低空で滑空している鳶が、斜め後方の下から羽根をばたつかせ

て自在に飛べる鴉に、胴体をつつかれて悲鳴をあげている。

「スーパーマンみたいな男だったよ」

 久米島さんが鉢をならべながら学生に言う。「ドラムが上手くて、ガソリンスタンドのサー

ビスマンで。トロンボーンもトランペットも上手くて、セールスの仕事もできる奴だった。作

曲もするし、死ぬまえは小説も書いていた」

「ふーん。そんな凄い人も居るんやなぁ。中江市の人?」

「そう、中江市の人だよ」と、久米島さん。

 おれは鉢にスープを入れる。

 醤油に油の混ざった芳ばしい湯気があらたにたち昇る。

「その人、病気で亡くなったの?」

 おれの柄杓が止まる。久米島さんの紙コップに冷水を足す給水器のレバーを抑えてい

る手が止まる。久米島さんの紙コップを持つ正常なはずの左手が小刻みに震える。紙コ

ップから水が溢れだし、我に却った久米島さんはようやく水を捨て、紙コップを新しいもの

に取りかえる。

「ああ、肝臓の病気でね。本條君、お酒が好きだったから…」

 おれは咄嗟に嘘をつくった。

 四時ごろまでは盛況だった。

 実に三十五玉はでた。

 四時をすぎると、ぱたっと客脚が途絶えた。

 少し暗くなりはじめていた。

 西の山の端のうえの曇天の光が、地面ちかくに到る太陽の輻射が弱まった。

 主婦たちは自宅の厨房に向かい、第一次の通勤がえりの車のラッシュが国道にできて

いた。隣接する地方都市の工業団地はそれぞれに変則シフトをとっている。北から南から

車が吐きだされる。児童や生徒の自転車での帰宅の塊が、国道にも、おれたちの停車し

ている細道にも通る。しかし彼らが寄っていくことはなかった。未成年には夕方のラーメン

は興味の対象ではないのかもしれない。七百円の出費は彼らには自ら裁定することがで

きないのかもしれない。

 おれたちは一旦、移動することにした。

 椅子とテーブルを収納し、市の東よりに在る天文科学館まえの駐車場へ向かった。

 車中でおれたちは会話をしなかった。

 おれは疲れていた。移動式の店というのは体の動きとして不自然な動きを要求される。

まな板の位置が高いこともある。ラーメン鉢も陶器のものに拘る必要はないのではない

か。椅子を毎回ならべたり収ったりするのも、移動中、車の振動にさらされるのも固定の

店より余計な労働だ。まして、左足に力のはいらない久米島さん、右手では殆どものをつ

かめない久米島さんには、もっと辛いだろう。

 両方の窓を半開きにして、おれたちは煙草を喫う。

 おれは小用を我慢していた。

 国道に合流し、一番目の信号を右に曲がって橋をわたりかけたとき、おれは、チャルメ

ラのMDの再生レバーを上にあげた。チャルメラのメロディーが流れかけてすぐ、久米島

さんが身を捩って左手でレバーを戻した。

「佐伯、鳴らすな。ちょっと休憩して態勢たて直そ」

 旧知の仲のおれたちの間では、仕事に潔癖な義務感を持って言い合いになるというこ

とはない。

 客に押しよせられると不充分な態勢のまま仕事をつづけることになる。

「そうですね。じっくりいきましょう」

 駐車場に着いてみると車はまばらだった。

 対して歩いている人は多かった。

 ドアを開けて地面に降りると、

「ラーメン?」

「何、ラーメン?」

「ジョウちゃんラーメン?」

「お母さん、ラーメンだよ、ラーメン食べたい」

 人が急速に群がりはじめる。

「久米島さん、僕、トイレ先いきます。註文だけメモっといて下さい。その方が…」

「わかった、佐伯、先に行ってき」

 トイレから帰ると、さっきまでの情景が嘘のようだった。客は一人も居ない。

「七百円では高すぎるねんて。……悪いおれ、大便に行ってくる」

 と言って、久米島さんは身障者用のトイレに向かった。

 二百台くらいが駐められる、平地の市の管理する無料駐車場だった。中江市が経緯度

から日本の真ん中であることを主張し、村山内閣の村おこし事業の助成金で天文科学館

は建てられた。この位置からだと二分ほど歩いた山の斜面にある。市民には不評だっ

た。普段の暮らしのなかで天文・天体を意識しては人間は生きていない。口径一メートル

の反射望遠鏡が売りだが、昼に観測できる星は少ない。観測会が月に何度か夜に催さ

れているが、興味津々に向かうのは小・中学生が主といったところだ。隣の平野市は村

こしの金で有線放送の全戸への導入を行い、独自の放送局まで創った。平野市では全

家庭でアンテナを用いずともBS放送が見られる。この駐車場から天文館とは反対向きに

階段を下っていくと、谷崎俊三記念美術館がある。こちらは氏が高名であるために全国

各地から観覧者が訪れる。しかしこの建物も絵画に興味のない者にとってはただの箱で

しかない。市民が一番求めているのは地場産業である織物業の活況。大企業の製造工

場の誘致。小売り商店がならぶ旧商店街の復活などだ。そんな中、唯一市民が活気づく

が、中江工業高等学校の全国高校駅伝大会での毎年の優勝の瞬間であった。

 薄暗くなりはじめた。

 おれたちはテーブルを引き出し、椅子をならべ、チャルメラのメロディーを流した。

「一つ食いますけど、久米島さん、どうします」

「ああ、おれはええわ。三時ごろ一杯食うたし」

 出来上がったラーメンを、テーブルについて食べる。

「値段さげて、自腹切りましょか」

 おれは麺をもちあげたまま言う。

「それは、やめとこ。後々、お客さんにホンマの値段打ち出されへんなってまうから」

 確かにその通りだ。

 五時のチャイムが遠いボイスタワーから弱く聞こえた。

 提灯を吊して、ときどきチャルメラのメロディーを流す。

 一人二人とめずらしそうにして寄ってくるのだが、その度に値段を訊かれ、「七百円で

す」と言うと、去ってゆくのだ。

「七百円です」の後に、「その代わり、ウチは旨いです」と云えば、押しになるのだろうが、

それを言えるほどの自負が、おれにはなかった。

 今泉さんのチームは売れているのだろうか。

 ケイタイに連絡がはいることはなかった。

 こちらから掛けて様子を窺うというのも、こちらが完売していないだけに億劫だった。

 赤色の回転灯が近づいてきた。

 警官が寄ってきて、屋台の認可証を見せろ、と迫った。

 その辺のことがどうなっているのか把握不足だったおれは焦ったが、コンソールをまさぐ

ると車検証の下にあったので提示した。

 警官二人は態度を軟化させた。

 彼らは無線機のスイッチを切り、ラーメンをすすった。

「うーん、もう一寸、勉強せなアカンなぁ」

 警官の内の一人が金を置いて帰りがけにそう言った。

 よく聞くセリフだ。

 一家言をいう人は決まってこの科白を出す。かと云って、何がどう善くないのかさえ当人

は説明できない。

 だが、それでも科白は的を射ている。決して満点といえる味ではない。

 警官以外、誰一人、客は来なかった。

 夜九時のボイスタワーからの『新世界より』のメロディーが鳴り終わったころ、おれたち

は撤収することにした。

  惨敗だ。

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『あいつのおかげで』ーーー10 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』10
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 正午まえになっておれと山下はダイニングルームに招かれ、奥さんの手料理をごちそう

になった。

 南京と大根を炊いて鮪(まぐろ)の缶詰めを後半に一緒にして炊いたもの。じゃが芋の

はいった味噌汁。鱈の切り身のソテーと、若鶏の骨つきのから揚げだ。

 山下が膳に箸をつけるまえに両手を合わせて「戴きます」と言った。

 ご飯を先に手わたされていたおれは、既に食べかけていた。

 奥さんは山下の顔を見てくすくす笑った。

「笑うとこちゃうで、ホンマは山下君のそれでええねやがな。日本人は善い習慣を忘れて

もとる」

 と、今泉さんが自身も少し笑ってしまった顔を真顔に戻しながら言った。

「すいません、僕、誰よりも先に食べはじめたりして、僕こそマナー違反ですわ」

 とおれは、茶碗を降ろした。

「構へんねんで、ウチかて雄大にもそういう教育ができてない。お恥ずかしい限りや」

「ワイが子供みたいなもんかも知れへんなァ。ウチ、親父がそういうとこ厳しいてな」

 と、山下が魚の白身をほぐしながら言う。

「子供の教育のために、そういうこと言う場合が多いなァ。せやから、子供の居る家と大

人だけの家では、その辺の行動がちゃうと思うわ」

 とおれが口を挟んだ。

 子供には理想的な所作を教えて、大人同士では理想をそのまま行動には出さない。し

かし、大人は大人で社会的立場を持った者同士が肩書きが有効な場面で言葉をやりとり

する時は、ルールを外すことを一切ゆるされない。

 お得意さまと店主。師から面授をたまわる場面など。相手より先に杯に手をかけること

すら間違いである。

「あの、鶏は手でつまんで食べていただいていいですよ」

 と、奥さんが言ったので皆が笑って座がなごんだ。

 ボイスタワーから、童謡ふる里の旋律が弱く聞こえてきた。

 雨は小康なまま降りつづいていた。

 奥さんはパートに出ていった。

 リビングルーム。

 雄大くんはおれたちから離れた窓際のソファーで大江健三郎全集のⅡ巻を読んでい

る。

「ホンマは、換気扇の下だけやねんけどな」

 おれたちは一つのソファーの周りにかたまって、それぞれの煙草をふかした。

「今泉さん。正直なとこ、客くるだろうか」

 と、おれは今泉さんの鼻づらに自身の頭を近づけて言った。

 今泉さん、おれ、山下、の順で灰皿の上で煙草の灰を切る。

「それは分からん。ホンマ、蓋を開けてみな分からへん」

「これだけ酒に厳しいなってもて、皆、外食せえへんなってもとるし…」

「屋台やからな。お客さんの居る方へ近づいてもいける」

 山下君は、接客が務まるかどうか不安だと言った。

「昔は営業もしょったけど、店員いうのは初めてや。それにワイ、神経症で一日じゅう薬き

いとるし」

「そない難しい考えんでも他人がしてることや」

 今泉さんは柱のようにびくともしない。それがいつも、全員に安心感を与える。

 窓からワゴン車二台が見えた。

 中華そばのマークの書きかけの朱は、雨に負けてだらっと垂れていた。

 今日は帰ると言ったおれに今泉さんは傘を貸してくれた。ゴルフで使う幅の広い傘だっ

た。

 おれは往きと同様、片道四十分を歩いた。

 家に帰り、ズボンと靴下を穿きかえると、自室に行き、抽斗から例の百万を出した。

 二十一枚を数えて抜きだした。

 タクシーを呼び、電気店まで頼んだ。

 店員を呼び、ノートパソコンに、新型のOSと最近の一太郎アプリケーションとプリンター

を付けて二十万にできないかと交渉した。

 新型のウィンドウズ・ビスタは、それ自体が嵩がたかく今までのハードに搭載すると動き

が極端に遅くなるので、最新の機種はCPUがデュアル(二重について容量が倍)になっ

ている。その機種でそれら全て込みの値段は無理だ、と店員は言う。

 いくらほどオーバーするのか訊くと、会員になってポイントを使っても三万は足が出ると

いう意味のことを言った。

 思案しているおれに、店員は、

「お客さま、基本ソフトがマッキントッシュでよろしければ、充分その額で収まりますよ。CP

Uも従来の性能で充分ですし」

「マックなんて、おれ、使ったことない。難しくないのか?」

「いえいえ、ウィンドウズよりも簡単ですよ」

 おれは、しばし考えた。

 マッキントッシュが顧客シェア率では大分低いのはそれなりの理由がある筈だ。将来、

インターネットにも繋ぐとなった場合、不便が生ずるかも知れない。大体、ビスタ自体も、

最近出たばかりで、プロバイダのサービスが追いついていない等の話しはよく聞く。

「すみません。金とりに帰ってきますわ。あと三万で全部揃うんやね。二十三万で」

 店員は大きく頷いた。

 おれはケイタイでタクシーを呼んだ。

 金の節約のために雨のなかを歩くなどは莫迦らしく思えた。

 ノート型を買って、またタクシーを呼び、途中で書店に寄って『ネットで始める株』という本

を買って部屋に戻った。

 机上にパソコンを置いてベッドで横になると、うとうとと眠ってしまった。

 気がつくと四時半をまわっていたので、おれは慌てて身支度をして外に出た。

 雨は止んでいた。

 その日のドクダミラーメンは忙しかった。

 老若男女、次々にはいってきた。

 麺を茹でる。鉢に醤油とラードを入れる。スープを注ぐ。麺を入れる。麺をほぐす。各鉢

の麺の量を割り箸でとり、入れ、調整する。シナチクを載せる。焼豚を載せる。ナルトをの

せる。もやしを入れる。海苔を載せる。ハツ子さんを呼ぶ。ビールの栓をぬく。ハツ子さん

を呼ぶ。

 大鍋のスープが減ってきて、だんだん柄杓で掬う角度が深くなってきた。

 二百人は捌いただろうか。

「おい、佐伯、今日はもう仕舞おう」

 須藤さんが隣で言う。

 スープを追い焚きでつくるのにも時間がかかる。スープ鍋の底の鶏のガラ骨が見えてい

る。柄杓ですくうにもガラ骨がひっかかって掬えなくなった。

「済みません。お客さん。今日はもう、品切れです。申し訳ありません」

 おれは通る声で入り口付近の客に向けて言った。

「申し訳ございません。お陰さまで、本日分、完売しました。申し訳ございません」

 ハツ子さんが店のなかの待ち客と外で待つ客らにそう言って頭を下げていった。

 ハツ子さんは表の札を準備中に返して玄関の戸を閉め、おれに目くばせして大きく息を

つく。

「今日、何か催しでも有ったんでしょうか」

 おれは隣で大鍋を洗っている須藤さんに訊く。

「ああ、スコラホテルのホールでジャズのコンサートが有ったとは聞いとるが…」と、須藤さ

ん。

「高校駅伝の壮行会やったらしい、と私は思とってんけど」と、ハツ子さん。

「僕らは、谷崎俊三との同窓会」

 と、カウンターに居た老年の紳士の二人組の内の一人が言った。

「谷崎俊三って、あの中江市出身の画家の?」

 と、おれは応じる。

「ああ」と紳士は言ってから水をひと口飲んで、「おれらからしたら、もう雲の上の人になっ

てもたもん。小学校の同級生やいうだけで……。二次会や三次会いっても、もう話しも合

わんしな」

 駅伝の壮行会とジャズのコンサートと有名画家との同窓会が一遍に有った訳か。

「明日も混むで。大体の学校、体育祭やから」

 と、須藤さんが大鍋にポリタンクの水を注ぎながら言った。

「こんなんやったら、佐伯が辞めた後、誰か入れなアカンなぁ」

 と、須藤さんはさらに言った。

 客が帰った後、須藤さんが二階から例の頸のない鶏を持ってきて、おれは前回と同じ作

業をやった。

 擲りで砕いた鶏ガラを須藤さんが或る程度の大きさに切って大鍋に入れた処で、おれ

は解放された。

 店を出て少し歩いたとき、セルシオが静かに寄ってきた。

 おれたちは中江市の和風のモーテルにはいった。

 お互いに絶頂を迎えたあと、

「アパートどこにしようかしら」

 と、ハツ子さん。

「中江市でいいと思うんだ。別に他人に隠すような関係じゃないんだし。……それと、アパ

ートじゃなくて出来れば中古の一軒家を借りよう。アパートなんて周りに気を遣って全然落

ちつかへんから」

「そうよね」

「アンタの方で探しておいてくれへんか。僕、不動産とか疎いし…」と、おれはそこまで言

ってから「平日の昼間、二、三時間空けといてくれないか。二人で役所に籍を入れに行こ

う。それまでにアンタは尾上市の役所で戸籍謄本をもらってきとくこと。当日は、ハンコも

忘れないようにね」

 ハツ子さんは、ぎゅっとおれにしがみついた。

 本條の例の小説は、その後加筆されなかった。

 日曜日、おれは十一時に起き、漬け物で飯を食ってから自室に戻り、ケイタイの電源を

切った。ノート型をコンセントに繋ぎ、ウィンドウズ・ビスタの画面を色々と触ってみた。どこ

までもほのぼのとしたブラウザの画面デザインに変わっていくものだ。95やMeの方がブ

ラウザのデザインや色調がシャープに感じる。

 ワードの画面を起ちあげたり、エクセルの画面を起ちあげたりする。おれには、ワードと

エクセルはちんぷんかんぷんだ。今までのパソコンでも正規の自分用のアプリケーション

をインストールして使ったことがない。昔、この家で一太郎8を使っていたのと、大阪に出

てからはインターネット・カフェでしかパソコンに触れていない。ワードとエクセルが使いこ

なせるかどうかが、今の時代就職には大きな差になる、とよく新聞などで採りあげられて

いる。

 今泉さんは、金勘定をどうするのだろうか。やっぱり、エクセルを使ってやるつもりなのだ

ろうか。

 本條の原稿を一太郎で打ち込んでみる。我ながらキーを打つのは速い。高校時代に旧

式のタイプライターで練習した時期があったからだ。

 しかし、それも三枚(四〇〇字換算で九枚)も打つと流石にしんどくなってきた。

 おれは、一旦文書を保存し、新規画面に切りかえて遊び打ちをした。

 ーーー今泉の阿呆! 今泉の阿呆!

 ーーー佐伯圭吾は、下田ハツ子さんが大好きです! ハツ子ちゃーん。

 文字フォントを42にして、全文をドラッグして大きくした後、Hと名前をつけて、パスワー

ドを設定して保存した。

(まるで、便所の落書きだ)

 おれは内心で自身を嗤った。

 その日の店も忙しかった。

 行ってすぐ、大鍋の載せかえをやった。

「混むんやないか思て、あらかじめ二つ鍋つくっとったんや」

 と、須藤さんは顔の汗を手ぬぐいで拭きながら言った。

 ハツ子さんも須藤さんも、昼十一時から一時までと、三時から今の五時まで既に働いて

いる。今日は既に百五十杯は出たらしい。

「お前ら、よかったの。結婚するんやて」

 おれもなるべく早く須藤さんには言っておかなくては、と思っていたところだった。

「結婚して、佐伯は、仕事はどないすんの」

「いえ、それはそれで、一寸、当てがありまして…」

「そうこ。よかったの。頑張れよ佐伯」

 体育祭がえりの先生と生徒の集団や、親子づれがどんどん入ってきた。それ以外の客

も多かった。また何か、スコラホテルででも催しがあったのだろうか。

 八時ごろ、客同士が大声を挙げて喧嘩をはじめた。

 毎日のように夕方六時ごろから八時ごろまでビールを飲んで長居する、汚れたジャージ

を着た五十代後半と思しき仕事もしていないのではないかと見える顔のどす黒い背の低

い男が、盛んに、出張でこちらまで足をのばした営業のサラリーマンに見える黒の背広の

二十代後半の男に喰ってかかっている。

 おれが間にはいる。

 五十代の男の身を制し、肩を叩く。

 どないしたったんですか、とおれ。

「こいつが、おれの顔見て嗤いやがったんや。人を馬鹿にしたようにな。お前になんか嗤

われる筋合いはないわい! ええ加減にせえよ」

 おれは、サラリーマンの方に首を向ける。

「別に、おれ、嗤ってないですよ。この人が勝手に思い込んでるんですよ」

「何やと!?」

 ジャージ男の気は鎮まらない。

「お客さん、それ食べたら出てください。お代はいいですから」

 おれは、サラリーマンにそう言った。

「ああ、そうしますわ! 何や、おれが悪モンにされたみたいやけど」

 営業風の男は汁を吸ってから六百円を置き、そそくさと出ていった。

 お代はいいとおれが言ったが、否、払う、と言ってテーブルに硬貨を置いていった。

 ジャージの中年の男は、毎回、ビールを四、五本開けるが酒癖が悪いという訳ではな

い。いつも少し陽気になる程度だ。

 都市に職場を持つ営業マンは他人を小馬鹿にしたような、鼻で嗤ってすぐ視線を外すと

いうようなことをやる奴が実際に多く居る。彼がそうなのか定かではないが、郷に入って

は郷に従えだ。

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『あいつのおかげで』ーーー9 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』9
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 十月になった次の木曜、おれたち四人は今泉さんの家に集まった。

 おれは山下君に軽四自動車で送ってもらった。

 外壁が小さなレンガを思わせる横向きの長方形の凹凸を持つデザインで緑と青の間の

グレーがかった暗い新緑色で洗練された都会風モデルハウスだった。二階建ての棟が門

をはいって左右に隣り合って立ち、二階のガラス窓の大きい廊下で二棟が繋がっている。

左が両親用で右が若夫婦と子供用の二世帯住宅だ。

 奥さんは出ておられるようで、子供たちはそれぞれ学校なのか今泉さん以外には出会

わなかった。

 紅茶をごちそうになった後、四人で改造が済んだ車をとりに行くことになった。

 おれので行こう、と言う久米島さんの赤い車に乗って尾上市まで走った。

 木下モータースという自動車工場だった。

 木下と名乗った普段着を着た三十代の男と今泉さんが数分、二人だけで話し込んでい

た。

 木下は修理工場の家族とは全然関係ない人物で古川の友人らしい。たまたま苗字が

同じだということらしい。

 車は二台とも運転席と助手席のすぐ後ろの窓ガラスが鋼板で目張りされ、車体と同一

のクリーム色に塗られていた。

 木下に黙礼して、おれと山下君が軽ワゴン、今泉さんが普通車のワゴンに乗って久米

島さんの赤い車に尾いて元きた道を走った。

 中江市にはいってから三台はケイタイで伝言し合って全員で業務スーパーへ立ち寄っ

た。

 隣の山下君が目で示すところを見ると、ケイタイのハンズフリー使用の為のホルダーが

付いていた。おれは、運転席のフロントガラスの隅の右のバーのそのホルダーにケイタ

イを当ててみた。がちっとケイタイは嵌った。サンバイザーに沿って収まっている曲げ伸

ばし自在のマイクを自分の顔の方へ曲げてみた。

 ホホ、と笑って山下君の方を見た。

 山下君も嬉々として目尻を下げてこちらを見て笑った。

 正午を過ぎた頃、今泉さんの家に戻った。

 奥さんと会ったが、愛想がなかった。

 今泉さんの家の庭は三分の一が芝生で残りが砂利を敷いた大きなものだった。おれた

ちは駐車場にもなっている庭の砂利にワゴンを二台入れた。

 バックゲートを開けると救急車の寝台のように可動式のテーブルを出し、二つのテーブ

ルの短い方の上に調理器具を並べた。ワゴンの荷台の後方の中央にはプロパンガスの

ボンベが横倒しで金属部品で車体床に組みつけられ固定されている。ボンベは横倒しの

状態では使えない筈だが、特別に用意されたボンベなのかボンベ自体も改造されている

のかも知れない。ホースを繋ぎ、地面にコンロをセットすると上に胴の長い鍋を置いて水

を張った。二台の車とも同じことをした。

 スープ用の水だけは先に鍋に入れとかなきゃならない、と今泉さんが言った。

 ワゴン内の上部にステンレスのユニットがあり、エンジンをかけるとバッテリーの力で冷

水をつくることもできるらしい。冷蔵のスイッチと赤いランプがこちらに向かって付いてい

る。今泉さんは外の水道のホースの先を持って後部の屋根の右側に拵えられた蓋を開け

て給水をはじめた。丁度、ガソリンの給油口のような感じで蓋は開く。二台とも給油口が

左にあるのでわざと反対側に吸水口を創ったのだそうだ。

 湯が沸騰した処で、前回と同じ要領で麺を入れ、ラーメンを創った。

「ラーメン屋に行ってみたけど、僕らの作り方と、そない大差ないです。鶏ガラを本式につ

くるのが違うくらいです。僕らが今日でもやる場合は、ガラスープの素を使います。結局、

そこが違うんやと思います」

 おれはそう皆に言った。

 今日は出汁はとらずにスーパーで仕入れた電子イオン水を沸かした。電子イオン水と

は強力な永久磁石で挟んだ鉄管に水を通すことで水の分子をイオン化しているものだ。

中江市の水道水の場合、塩素がかなり入っているがその塩素も塩素イオンにしてしまう

ので害性がなくなる。

 出汁をたらない替わりに鉢に醤油を入れた上に業務用スーパーで買ったガラスープの

素を先日の倍いれた。

「旨い旨い、これでええね」

 と、試食しながら今泉さん。

「ほう、こら、これ位味がはっきりしとる方が、やっぱエエのう」

 と、久米島さん。

「旨いがい佐伯」

 と山下君。

「要は味の濃さやと思いますわ。高級かどうかは出汁の素材に高いモン使うかどうかで

すけど、旨み言うたら結局、『味の素』でも出せますわ。塩入れすぎたな思たら反対に砂

糖を入れて調整しても味は濃いけど食べられる料理になるでしょ。前のは旨みが弱かっ

た。鰹で出汁とろう思たら前の五倍は鰹節入れなあかなんだんでしょうね」

「佐伯、この辺りのラーメンは汁が甘いらしいね。俺、尾上市やから、あんまり食べたこと

はないけどよ」

 と、久米島さん。

「何や出汁に砂糖がはいっとるて聞いたことあるわ。確かにあの甘さが癖になるなァ。甘

いモンいうのは脳に中毒症状、起こすらしいなァ。そいでリピーターがつくんやろけどの

う。『ドクダミラーメン』は甘いか」

 と、今泉さんがおれに訊く。

「いえ、甘いないです」

「今度一遍、偵察に行くわ」

 と、さらに返す。そして続けて、

「佐伯、そいでどないしょ。まだスパイ活動つづけた方がええこ。それとも、もう屋台はじめ

よか」

「ドクダミラーメンに居りつづけることはもうないと思います。が、屋台はじめんのに鶏ガラ

にこだわるんやったら、どっか仕入れルート、付けなしゃあないでしょう」

 今泉さんは暫く目を瞑って腕を組む。

「佐伯、この業務スーパーの材料だけのんでも結構いけるぞ」と、久米島さん。

「よし」と言って今泉さんは一回手を打って、「ホナ、出だしはこのスタイルで行こう。鶏の

仕入れはゆくゆくということで。……そいで、チーム分けやの?」と言った。

「おれと今泉さん、佐伯と山下君でエエんやないか。歳が近いし」

 と、久米島さんが言った。

「否、それは、むしろ反対やな。独身組と子持ちとを混ぜた方がええ。その方が仕事の時

メリハリが出る」

 と、今泉さん。

「僕と久米島さん。今泉さんと山下君ですか」

 と、おれが今泉さんに訊く。

「そうしかないわなァ」

 と、今泉さんは言っておれの目を見る。久米島さんも遠い席からおれの目を見る。

 手の不自由な久米島さんと、山下君という組み合わせだけは有ってはならない、と妻帯

者たちとおれの三人は思っているのだ。しかし、それを言葉にするのは憚られた。山下当

人は自身を一人前の働き手だと内心思っているだろうから。

 山下君は財布から薬を出して飲んでいた。包装を破って口に含み、サーバーから水をコ

ップに汲むという動作をしていたのでおれたちの目の合図と話しの真意には気づかなか

った。

「宜しく頼みますわ」

 と、おどけた調子で久米島さんがおれに言った。

 二十年ぶりに久米島さんとは同じ職場で共に汗を流すことになる。

「いや、こちらこそ」

 それからおれが主体になって全員にラーメンの作り方を教えるというひと時を持った。

 山下君は昨日、正式に縫製工場を辞めたらしい。試用期間なので即日退社ということ

になった。

「来週木曜から試験的に営業を始める。中江市全域にみかじめの問題は手配した。従っ

て、営業は市内全域。佐伯も、それまでに辞めてこいよ。ドクダミラーメン」

 やれやれ、やっぱり実質的には社長は今泉さんだ。

 二台の屋台の拠点(駐車しておく所)は、今泉さんの家の庭ということになった。従って、

ここから出てここに帰ってくるのだ。

 翌日、仕事に出た。

 客が干いたタイミングでおれは須藤さんに、辞める、と切り出した。

「あ、そう。引きとめはせんけど、何か有った?」

「いえ、別に何も。ホンマ、一身上の都合です」

「小説は書いとんの」

「ええ、まあ」

「金は大丈夫なんやな、佐伯」

「ええ、まあ、何とか」

「ホナ、そいでエエ。……それで、いつまで居れる」

「来週の水曜日まで、で、お願いします」

「よし、分かった」

 須藤さんに初めて名前を呼ばれた。それが呼び捨てだった。だが、その呼び方におれ

は父性を感じた。何だかここを去るのは惜しいと思った。須藤さんともハツ子さんとも昔か

らの知己だったような気がする。

 テーブルを拭いているとハツ子さんが寄ってきて、私との事でか、と耳許で囁いた。否、

それはホンマ何の関係もない、とおれは言った。

 引き戸を開けて客がはいってきた。

「いらっしゃいませ」

 と、三人同時に声が出た。

「えらい寒うなったな」

 と言って背広の肩を震わせた男は今泉さんだった。ジャンパー姿の山下君を連れてい

た。テレビの見やすい奥のテーブルに対面で座る。

「ホンマにねェ」

 と、カウンターの奥から須藤さんが愛想笑いを浮かべる。

 ハツ子さんが彼らのまえに水を置く。

「特盛り二つとビール」

「はい、特盛り二丁!」

 ハツ子さんが厨房に向けて声を飛ばす。

 おれは麺を三束、鍋に入れ、「一寸、知り合いなんで、ビール持ってっても…」と左横の

須藤さんに言った。「おお」とだけ須藤さんは焼き豚を切りながら顔を動かさずに言った。

 ハツ子さんから彼女が今栓を抜いたばかりのサッポロ黒ラベルの大壜を受けとり、ステ

ンレスの盆の上にコップを二つ載せて左手に持ち、ビールは右手に首を持って提げてテ

ーブル席に行った。

「おう、佐伯、久しぶり」

「いらっしゃいませ、どうぞ」

 とおれはビールをテーブルに置き、冷えたコップをそれぞれの前に静に置く。

「久しぶり言うて、昨日会うたばっかりやないですか。今泉さん」

「そうやったかいの」と今泉さんは一旦とぼけて、ビールを山下君のコップに注ぎながら、

「今日は山下の悩み聞いたりよったんや。カウンセリングや」

「ワイ、靴こうてもろてのー、佐伯君。他人からプレゼントもらうのは何年ぶりかのー」

 と、山下君は学童に戻ったような喜色でコップを持ちながらおれの顔を見上げる。

「そら良かったなァ」とおれ。

「スロットで勝った金や、実は」

 今泉さんが照れながら言う。

 山下の足には裏革生地で深い茶色の紐靴、カジュアルにも或る程度のパブリックな空

間にも遜色ないと見える靴があった。

 仕事の備品を買い与えてやるより普段履く靴を贈るというのが心憎いとおれは思った。

相手の懐にはいるというのはこういう事だろう。

「じゃあ、僕、戻ります。ゆっくりしていって下さい」

 おれがそう言って去るのと入れ替わりにハツ子さんが枝豆をテーブルに運んだ。

 その夜、送ってやるというハツ子さんの車に乗った。

 ハツ子さんはそのまま尾上市の自宅まで行った。自宅は前栽のある敷地二百坪ほどの

日本家屋だった。

上がってゆっくりしなさいとおれはハツ子さんに促された。四十代と七十代と思しき女の

人に玄関で挨拶された。七十代と見える人は多分、お母さんなんだろう。

 時刻十二時を少しまわっていた。こんな時間に独身女性のお宅に上がっていいものだ

ろうかと思いながらも、促されるままにおれは二階の彼女の部屋までついて行った。

 コーヒーをごちそうになる。

 ハツ子さんが話すには、お父さまは既に亡くなられていて、お母さまとお手伝いさんの

三人暮らしだそうだ。お父さまが資産を沢山遺されたので実のところ仕事をしなくても生

活はできるらしい。お父さまが生前どういうお仕事をされていたのかは教えてくれなかっ

た。

「佐伯君、二人でアパート借りようか」

「ええ? ハツ子さん、こんな大きな家があるんだから、いいじゃないですか」

「そういう意味じゃなくて」

「ええ? それ、同棲するってことですか」

「別に同棲が厭なら結婚してもいいのよ」

 求婚されてるということか。

 おれは色々な未来を脳裏にめぐらせた。

「あ、先に、お風呂にはいってくるわね」

 ハツ子さんはそう言うと、部屋を出ていった。

 晩飯は、既にドクダミラーメンの特盛りを腹に入れていた。

 一つ上くらいなら、それもいいかも知れない。今のおれに若い娘を惹きつける財力もな

い。子供は望まないとして楽しく人生を過ごすには彼女くらいが丁度いいのかもだ。

 周りは田畑ばかりの静かな土地だった。鈴虫の声が網戸からはいってくる。横の窓ガラ

スからは下弦の月が覗いていた。

 戻ってきたハツ子さんに案内してもらって風呂にはいった。

 風呂から戻るとおれはハツ子さんに言った。

「ハツ子さん、もうお互い大人だし、誰に気兼ねすることもないでしょう。籍を入れましょう」

 おれたちは身体を重ねた。ハツ子さんは喜悦の声を何度も挙げた。

 次の日の朝、地元には顔が刺すと思ったおれは、ハツ子さんに尾上市のJRの駅まで

送ってもらい、中江市まで電車で帰った。

 電車は妙な感じだった。

 二輌編成で車掌なしのワンマンカーだった。

 レールの継ぎ目を車輪が過ぎるたびごとんごとん言うのだが、車内は静かだった。考え

てみればおれは、ディーゼル車輌だった時分にしか乗ったことがない。エンジンのあのぐ

おーっと唸る音がないのだ。だから静かなのだ。モーターの音がしていた。そういう車内

に重なる音は、山陽本線の電車に乗っているような錯覚を与えた。

 先頭車輌は座席数が少なく、進行方向を向いて左が一席ずつの椅子で、右が二席ず

つの椅子の配置になっていた。まるで路線バスのようだ。

 二輌目は、左右とも内側を向いた横長椅子になっていた。

 おれは最初、先頭の右の座席にすわっていたが、一駅を過ぎてから左の前から二番目

の席に座りなおした。座席が少なく、車内の空間が広いので他人の視線を意識してしまっ

て落ちつかないのだ。

 老人や主婦らしき人ばかりだった。

 そういえば、今日は学校が休みなのだ。

 山の麓の等高線をなぞるように走る。石を敷いた電車道と車輌に覆いかぶさるように

張りだす木々の枝葉。広葉樹の葉も窓を掠めてくるのだが、その葉はまだ青いままだ。

 季節の変わる時期が後ろへ後ろへと摺れている。

 ケイタイへ連絡して今泉さんの家に行った。

 山下君も来ていて、今泉さんと二人、ワゴンに塗装をしていた。

 缶のスプレーを噴きつけて、両サイドと後部の上方に、ジョウちゃんラーメン、と赤くペイ

ントしてゆく。

 天井につけられたキャリアに固定してあるフォグランプで名前を照らしてみる。

「佐伯、これで、何かラーメン屋らしい絵をかけや、ここに」

 と今泉さんは言ってオレンジのペンキの缶と細い刷毛をおれに渡す。今泉さんは、バッ

クゲートの白ペンキで既に目隠しされた窓を顎をしゃくって示す。

 おれはしばらく考えて、中華そばの鉢の縁によくある迷路のような記号を描きだした。

 描きだして五分ほど経つとぽつりぽつりと来だした。

「雨や雨や、いったん撤収」

 今泉さんの声とは無関係に、おれと山下はガレージの屋根の下にはいった。

 今泉さんの奥さんに促されて、おれと山下は家に上げてもらった。

 奥さんは、白いが肌理の粗い肌だった。子供を二人も産んで育てるのだから生活臭さ

のある肌や髪や表情になるのは仕方のないことだろう。それでも時折つくる笑顔には艶っ

ぽい女らしさがあった。胸郭の張りだした嵩のたかい骨格は頼もしい母親像をつくってい

た。

「まあ、急に降りだしましたね。タオルを使ってください」

 居間では今泉さんの息子がテレビゲームに興じていたが、おれたちが入ると画面の電

源を切り、こちらに向いて立ち、ぺこりと頭をさげた。

「こんにちは」

「ああ、こんにちは。偉いねェ、ちゃんと挨拶できるんだね」

 と、おれは返した。

「いつも父がお世話になっております」

「いえいえ、こちらの方がお父さんにはお世話になってるよ」

 雄大という名で小学校四年生だと今泉さんから聞く。勉強もスポーツも優秀で、このまま

行けば父親のおれなんか将来頭が上がらなくなりそうだ、と今泉さんは言った。

 高校生の娘の方はバスケット部の集中トレーニングに学校へ行っているらしい。

「バスケットですか。ハードなスポーツですね」

 おれは座をもたせようと、今泉さんに話しを振った。

「そうよ、娘もよう続いとると思うわ。今二年やけど」

「今泉さんは、学生時代は?」

「おれ、陸上。部長までしてんでな中三、とき。信じられへんやろ。今のこの身体からは」

 彼はそう言って腹の肉を摘んでみせた。

 山下は、雄大君とテレビゲームをしている。

 山下の口惜しがる声と、雄大君の、おしっ、という満足の声がときどき聞こえる。

「おれは中・高と六年間卓球部ですわ」

「卓球もハードやろ」

「否、卓球は試合はそれ程でもありません。基礎練(習)はきついけど。……ハードいうた

ら、そら、バスケかサッカーですわ。有酸素運動の、ずっとやから息が上がってまいます

よ。……そういえば、本條、バスケ部でしたね。高校。それに、古川も」

「本條…か、そないいうと二人とも、背ェ高かったな」

「本條も古川も百八十超えてますよ」

「二人とも死んでもたの」

 今泉さんは思いだしながら目を伏せた。

「でかい奴ほど気が細かいんですよ」

 とおれは言ってから両手で球をつくり、「今泉さん、手の、こうして大きい人は、これ位の

ものを持つとき、包むように持つでしょ。……今、これ煙草ですが、もう一寸大きな物、た

とえば、そのインスタントコーヒーの容器ぐらいのもの持つとき、大人だったら、こう掴むけ

ど、子供だったら小学生以下ぐらいの手の平の小ささだったら、べたんと、こう持つでし

ょ。こう持つと大ざっぱな気性になりがちで、逆に、手の大きな人は繊細になる。こう、包

むようにものに対する人は、その物に対してあらゆる方向から内側に向かって作業がで

る。例えば細かい精密機械のネジをドライバーで締めるなんてことは、手の大きい人に

向いた作業なんですよ。大人の場合はそんなに手の小さい人も稀なので、オーバーな話

しですが、総じてそうです」

「そうか、気は優しくて力持ち、いうことやな。そう考えると、よう出来とるな。体の大きいモ

ンが凶暴やったら 世のなか危のうてしゃあないもんな」

 『あいつのおかげで』ーーー10

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