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『あいつのおかげで』ーーー7 [自作原稿抜粋]

 今泉さんの声はステレオ装置の出力に繋がったマイクからのように遠い。

「何で、自殺」

〈それはおれには全く判らん。……佐伯、明日通夜のあさって本葬やけど、お前はバイト始めた

とこやからバイトに行け。次の会合の日程はまた連絡する。わかったな〉

 今泉さんがそこまで喋ったところで回線はプツリと切れた。

 おれに考える間を与えない為にわざと切ったのだろうか。

 トゥー、トゥーと受話音がしばらくつづき、三十秒ほどでそれも途絶え、ケイタイのインジケータ

ーの灯りも消えた。

 再び電源ボタンを押し、カレンダーを確認する。九月六日。それは奇しくも嘗て本條が大事故

に遭った日だった。

 部屋に戻ると本條の原稿を確認した。

 ストーリーは進んでいなかった。だが、原稿の末尾から先に何も書かれていない普通紙の枚

数が増えていた。この小説は別の作品の原稿のつづきの頁に書き出されている。完成している

作品のタイトルは『僕が田舎に戻る理由』で、次につづけて書き始められているのは、『あいつ

のおかげで』となっている。

 紙が増えているというのは物理的に不可思議な現象だが、おれは何度も妙な現象を体験して

いる。例えば昔納っていたヤマハのエレキベースのカタログを何年ぶりかで開いたとき、プロの

プレーヤーたちの演奏している写真がどれもこれも髪を振り乱した悪魔のような容貌に変わっ

ていたことがあった。

 物質はただ結果を表しているに過ぎないと、おれは思っている。大切なのは人間の動機であ

り人間のエネルギーなのだと。

 白紙分は二十枚増えていたが、長い物語もいずれ終わってしまうのだろうか。物語の終わり

は主人公の生の終わりなのだろうか。

 おれはビールを飲みながら本條の『僕が田舎に戻る理由』を手繰り寄せ、読みはじめた。

 古川が死んだことは、おれにとってそう大きなことではなかった。

 家族同士の殺人事件が頻繁に起こっている。それに比せば自殺には罪が少ない。

 本條のことそのままだろうと推察してしまう内容だった。

 主人公の僕は、プロドラマーを夢見て半ば家出同然に田舎を出て東京に辿りつく。

 渋谷での新しい友たちとの邂逅。高円寺での新聞配達。埼玉の圧延所の仕事。寮生活。友と

池袋で飲み、女性とも知り合い。しかし、いつまで経っても音楽の仕事に就けない。ドラムの練

習すらままならない働くだけの生活。旧知の宗教の埼玉支部を頼って入寮し、気楽なアルバイ

トを捜して音楽活動を始めようとする僕に、宗教の世話人たちは「夢は諦めてきちんとした就職

をしろ」と迫る。

 アテが外れて身動きのとれなくなった僕は田舎に逃げ戻ってくる。夢を追えないのに東京に居

る意味はない。

 僕が田舎に戻る訳、それは家が有るから。東京は殺伐としていて生き馬の目をくり抜くところ

だった。けれども夢が有ったから東京は僕にとって恐いところではなかった。でももう夢を追いか

ける生活が出来ないなら、僕は田舎に帰ろう。東京に居ても意味はない。僕は不眠症で睡眠薬

を飲まないと眠れない不完全な身体。だからがんじがらめにされたとき、もの凄く気分が落ちこ

んだ。東京駅の空が悲しい色になっていた。

 おれは、本條が本心では未だ夢を諦めきれていなかったんだなァ、と思った。健康なおれが

本條の立場だったらその寮を逃げ出すだろう。その日泊まる所に困ってもおれの場合は何とか

なる。住み込みの仕事が決まるまで野宿だってできる。二十代の頃のおれなら。

 本條は新興宗教に通っていた。

 おれは、漠然と神の存在は信じるが、神に願おうとは思わない。自分が生き、悪い事をしたら

裁かれる。それだけだ。

 この宗教は、本條の人生の設計にまで差し込んでいる。

 本條はキリストのところへ行っているだろうか。しっかりと宗教に染まっている訳ではなかった

のではないか。それならば、好きなように生きればよかったのだ。まだ、この地上にゆらゆらと

浮遊しているのかも知れない。

 古川も自殺した。自殺したら天国に行けない等と宗教者はよく言う。

 天国などはない。有るのはエネルギーとしての個だけだ、とおれは思っている。

 目覚めると午前十時すぎだった。

 おれは喪服を探した。それしかない冬用の喪服は暑苦しかったが我慢した。母を起こさない

ように音を殺して電話台にあったミニバイクの鍵をとり靴は運動靴のまま母の原付のスターター

を蹴った。

 古川の家までミニバイクで十五分だった。古川家と黒い縁線のなかに矢印つきの貼り紙があ

った。古川の家のまえは黒と白のストライプの幕がかかっていて庭には受付テントが拵えられ

五、六十人ほどの人だかりが出来ていた。

「この度は、ご愁傷さまです」

 受付に香典を託してから会場である二つ目の八畳に行き、お兄さんと思しき人に挨拶した。

 親より早く死んだ子の通夜や葬式にはその親は表だっては出ることは出来ないのが通例だ。

 北枕に横たわっている古川の死に顔を拝見した。穏やかな表情で目を瞑っていた。

 焼香を済ました後、今泉さんと久米島さんと目が合ったので目で合図しおれは二人と外に出

た。

「まさか死ぬとは…」

 久米島さんが溜め息のように呟く。

 中で親族に、何で亡くなられたのですか、と訊くのは不作法だ。

「ちょっと暗いなァ、という印象はあったけど…」

 と、今泉さん。

「暗いけど、自分から死ねるタイプではない、と思たんですけど。それに、そこまで思い詰める

理由が有ったんでしょうか…」

 おれは、自殺という言葉を使わずに話した。

「人間、奥の奥では何を悩んどるか判らへん」

 と今泉さん。

「そうや、お前も家族持ったら、もっともっと色んな悩みが有んのが分かるわ。悩んどって相談す

るタイプも居るけど、古川みたいな奴は誰にも相談せえへん」と、久米島さん。

「そこまで見抜けましたか」

「ああ、見えとったな」

「おれも」と、今泉さん。

 おれには見抜けなかった。三年や四年歳上というだけでそうも審善眼に差が生まれるのだろ

うか。それとも、父親になる、家の看板になるということがそれだけ大人にさせるのだろうか。

【こんな事になるなら、鉄工所辞めるんじゃなかった。近所の人たちの俺を見る目は、明らかに

侮辱を含んでいる『ああ、お早うございます古川さん』『今日は大分涼しいですね』〈いい若いモ

ンが仕事も行かずに親に食わしてもらって、古川の次男は出来損ないだなァ。あんなに大きい

図体して何で仕事をしないんだろう。お父さんは警察署長まで務めあげた人なのに、どこの家

でも一人はあんなん居るのう〉近所の人は多分腹のなかでそう言って笑っているだろう。俺だっ

て働きたい。でも今更何をやれって言うんだ。めぼしい処は面接に行っても落ちる。いい仕事は

大体、三十五歳までしか面接もしてくれない。派遣の工場の仕事なんて二度としたくない。あん

な、人の限界のような息つく暇もない仕事など。本條は家出したとき新聞配達をしたと云って

た。でも専業は睡眠時間が少なくてかなりキツイらしい。この歳では専業でしか雇ってくれない。

俺に勤まるだろうか。今泉や久米島がラーメン屋をやると言ってるが、そんなもの上手くいくだ

ろうか。十五年前に俺は一人で屋台を始めた。でも、来る日も来る日も違う組のヤクザが来て

みかじめ寄こせって釣り銭用の金をとられた。地元の組に先に挨拶に行ってるのに、毎日毎日

違う奴が来て金を持っていかれた。十人客が有った日は釣り銭も売り上げも全部巻き上げられ

た。あー、それなのに、奴らはラーメン屋をやると言ってる。屋台をやると言ってる。俺は何でこ

うついていないんだろう。本條なんかよりおれの方が女に積極的で何人も女友達が居るのに、

誰も俺を恋愛対象には測てくれない。三十なってからやっと風俗で童貞だけは棄てた。もう四十

四なのに未だ一回も結婚できていない。小学生が嗤う。俺の顔見て嗤う。あー、もう死にたい。

死んで終わりにしたい。……】

 その日もドクダミラーメンに行った。

 昨日と打って変わって、店は暇だった。

 結局、閉店の十一時までに客は五人しか来なかった。

「いっつも、こんなもん。これが現実」

 十時頃テーブルを拭いていたおれに、ハツ子さんはそう言った。

「ラーメン食べに行こうか」

 お互いにエプロンを外してタイムカードを打っているときにハツ子さんはそう言った。

「ラーメンて?」

 ここがラーメン屋なのに可笑しなことを言うな。

「敵状視察」

「それじゃあ、三人で行きましょうよ」

「店長は行けないの。面が割れてるのに行ける訳ないでしょ。店長なんだから」

 おれたちは須藤さんに挨拶して店を出た。須藤さんは最後の細々とした片づけと明日の分の

スープを作っていた。アルバイトのおれやハツ子さんに指示して自分が先に上がっても良さそう

なものなのに、須藤さんはいつもおれたちを定時で帰した。こだわりがあるのだろう。

 ハツ子さんの車に乗った。

 ハツ子さんは狭い路地を縦横に走る。こんな中江市の狭い路地にドクダミラーメンも有るのだ

から、軽四かミニバイクで通勤した方が楽だろう。そもそも、ハツ子さんは何処から通勤してい

るのだろう。独身なんだろうか。バツイチなんだろうか。子供はいるのだろうか。おれより歳上な

んだろうか。セルシオの助手席からではハツ子さんの横顔までが遠かった。時々擦れちがう車

のヘッドライトにハツ子さんの細い柔和そうな垂れ目の下の頬骨が白く光った。

「ドッドクーー」

「着いたわよ」

 独身なんですか、と訊こうとしたら彼女の声に止められてしまった。

 福ちゃんラーメンという店だった。おれもよく知っている、この店は。スナックなどで遅くまで飲

んだ人たちが最後に寄る店で豚骨スープの白湯スープで濃くしつこい味だった。酒を飲むとくど

い味のものを食べたくなる。客の心理を上手く突いた商売だ。確か、ニンニクの摺り卸したやつ

がテーブルに置いてあって、いくらでもそいつをぶち込むことが出来る。

 横向きに引くガラス戸を開けてなかにはいると、何と、三人しか客が居なかった。

「道交法(道路交通法)がきつくなったでしょ。今じゃ閑古鳥。代行頼んでその途中でわざわざこ

こへ寄る人なんか居ませんわな。佐伯君、店は相変わらず夜型やけど、ウチと一時間ちがいの

十二時にはここも閉店」

 ハツ子さんはカウンター席につきながら店員に聞こえてしまうというのに普通の声で言う。

「そういう事ですか……」

 テーブル席で食べてる三人。中年の男二人と中年の女。背広でもワイシャツでもないのでサ

ラリーマンではないのだろう。ブルーカラーの仕事帰りというのでもなさそうだ。お定まりの上司

の悪口や仕事の辛さを嘆く愚痴も発していない。ただ坦々とそれぞれにラーメンを食い餃子を

食い、男の片方はビールまで飲んでいる。家が近いのだろうか。三人とも何とも覇気がない。店

は鉄筋内蔵だが店内は薄い茶の木目のベニヤ板で囲まれている。この猥雑さが混んできたと

きに活気を脚色するのだが。

 何にします、と店長が訊く。

「俺、ラーメンと餃子とビール」

「私は、ラーメンだけ」

 店長しか居ないので余計淋しい。昔は頭巾を被った中年の女性が居た。恰幅のいいその女

が忙しく立ちまわっていたのだ。

 こんな現状で果たしておれたちが始めたとき、屋台の方は客が来るのだろうか。酒気帯びで

車を運転してアルコールが呼気から検出されれば罰金か禁固刑になる。少しでも警察官に反

抗的だと最高百万円の罰金を科せられるらしい。だから田舎の連中は買い込んで家で一人で

飲む。代替バスを増やせばどうかなどという意見もあるが、田舎の人間は殆どマイカー通勤

だ。帰りを運転代行に頼むのも阿呆らしいだろう。酒を飲むのに高くつき過ぎる。だから皆、夜

飲みになど出ない。酒があっての食事だろう。わざわざラーメン一杯だけの為にだれが夜中に

車を出すだろう。

 ビールが来たので手酌で飲みはじめる。ハツ子さんは煙草を喫っている。壁を見ている。壁に

は長方形の白地のお品書きが斜めに貼ってある。妙な感覚だ。なぜ妙なのかを考えている内、

おれは理由に思いあたった。こうして必然の間ができてしまったとき、現代人はケイタイを弄く

る。メールを打つ相手が居なくともゲームなり着信履歴のチェックだったりと目を落としてやる人

ばかりだ。だが今、この店ではケイタイを触っている人が一人も居ない。そう言えば、ハツ子さ

んがケイタイを使っている姿をおれは一度も見たことがない。

「結婚されてるんですか」

 おれはさして問題ではない質問をした。

「そっちはどうなの」

「バツイチです。五年前に。子なしです」

「アタシはずっと独身。この歳まで。理由は訊かないでね。色々事情があるのよ」

 先輩を差し置いて自分だけビールを飲むのは気がひけた。

「佐伯君ねぇ、何で私なんかがセルシオに乗れてるんだろうって思ってるでしょ」

 おれは他人がどう贅沢しようが一向に興味はない。しかし、そう返してしまうのも相手のプライ

ドを傷つけるか等と瞬時に思ったので返答に窮して黙った。

「佐伯君、それは追い追い教えてあげるからね」

 運ばれてきたラーメンを食う。

 白いスープのラーメン。鉢の大きいラーメン。

「どう?」

 食指を動かしながらハツ子さんが訊いてくる。

「旨いです」

 嘘だった。これをどう感じれば旨い等と言えるのだろうか。スープが薄い。麺はちぢれ麺なの

だが茹できれていない。出来そこないのインスタントラーメンの麺みたいだ。スープが少しぬる

い。焼き豚は家庭用の焼き豚を切っただけのように冷たい。もやしはパリッとしていない。ゆで

卵と海苔とシナチクと焼き豚のトッピングもただがさがさに詰め込んだだけのような並べ方だ。

こんな物を売っているなんて。金返せ、の世界だ。

 おれは立腹で食欲がなくなった。

 おれは箸を置いた。

「どうした、食欲ない? 佐伯君」

「そういう訳ではないんですが……」

「全く、アタシも多分アンタと同感」

 ハツ子さんも箸を置いた。彼女のラーメンも半分以上残っている。ハツ子さんは立って給水器

まで行きその場で一杯水を飲んでもう一杯入れてカウンターに戻ってそれを飲んだ。

「店長!」

 おいおい、それだけは止めといてくれ、とのおれの内心とは無関係にハツ子さんはつづける。

「あのね、この人、ラーメンが不味くて全部は食べられないって言ってるの。もう一杯、美味しい

ラーメンを創ってくれる? アタシにも」

「お客さん、ウチのラーメンが不味いって言うんですか」

 土管のような身体の店長が気色ばる。

「そうよ。こんなラーメンで客から金取ろうって言うの。昔はいい味出してたのに、もうやる気が

ないの?」

 店長の目に一色加わったかに見えた。

「ああ、お宅ら、確かドクダミラーメンの人やなー。分かった。お金はいいから帰ってくれ」

「お金は払うわよ」

 おれは慌てて自分の財布から二千円を出した。

 ハツ子さんはおれの金を受けとり六百円を足してカウンターに置く。

「お金、置いとくからね」

「ああ、二度と来るなよ」

 店長も意地を張る。

「佐伯君、行こ。心配しないでも誰も来なくなるわ、この味じゃ」

「何やと!」

 怒鳴ってカウンターの外へ出かけた店長に追いつかれないようにおれは戸を閉めた。

 車に乗り、エンジンをスタートスイッチでかけた処で助手席のおれをドア一枚隔てて睨む福ち

ゃんラーメンの店長。

 店長がノブに手をかけるのに一瞬早くハツ子さんが全ドアにロックをかけた。

 車は店長を見棄てて遠ざかってゆく。

「危かったですよ。ハツ子さん。あそこまで言わなくても…」

「客が少ないから手を抜く。不味いから常連も来なくなる。悪循環よ」

 ハツ子さんはステアリングを持つ手をときどき緩めて手の平で滑らせる。車中にはテレサ・テ

ンが小さくかかっている。

「君、家の電話は?」

 おれはハツ子さんに今住んでる実家の番号を言った。

 ハツ子さんはカーナビにそれを入力する。

「何だ、ドクダミラーメンの近くじゃないの」

 大分東へ来てしまっていた。ハツ子さんは国道の真ん中でノーズを右に大きく振り、道に直角

に止まってから一度左に大きく切ってバックして対向車線に強引に車体を入れた。順行も逆行

も二、三台来ていたがクラクションを鳴らす車はなかった。

 実家の近くで降ろしてもらった。

「あの、苗字は何と言われるんですか」

「佐伯君も糞真面目ね。タイムカード見れば判るのに。……下田よ。じゃあね」

 部屋に戻ってしばらくうとうととした。意外に疲れているのかも知れない。

 ハツ子さんは何故、電話番号なんか尋ねたんだろう。カーナビでも個人宅の場合は細かく表

示しない。もし電話がかかってくればナンバーディスプレイに表示された番号を自分のケイタイ

に入れてしまおう。

 半睡りの処にズボンのなかのケイタイが振動した。

 今泉さんからのメールだった。

 ーーー古川の葬儀は終わった。一度、四人で会おう。飲み会を兼ねて打ち合わせをしよう。佐

伯の休みを教えてくれ。by今泉

 おれは自身を嗤った。おれは須藤さんに肝腎のことを訊いていない。定休日が何曜日なの

か。それに時間給がいくらかさえ。

 ーーー休みが判り次第、メール入れます。by佐伯

 シャワーを浴びて、身体を洗った。タオルで身体を洗っている間に湯を張った。

 泡を落とした後、鏡を見る。不思議に肥らない身体。背は低いがそれなりに筋肉のついたず

んぐりむっくりの身体。顎が張って顔が東洋人ばなれした眼窩の窪んだ少し吊り気味の大きな

 目と高い大きい鷲鼻。きりりと引き締まった薄い唇。おれはこの顔に救われている。



 『あいつのおかげで』ーーー8
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