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『あいつのおかげで』ーーー5 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著
 『あいつのおかげで』5
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 翌朝、十時頃起きてインスタントラーメンを茹でているところに母が来て、通帳から金を

卸しただろうと喧嘩腰に言ってきたので思わずむっとして、金はでき次第返す、と反論し

口論になった。

「楽な暮らしやないんやで」「アンタは、もう出て行ったモンと思っとったのに」

 おれは内心の深いところではもう親孝行しておかなきゅ神に申し訳ない、とまで思ってい

るのだが、それが簡単にはいかない。

 むっとしたまま顔を突き合わせてラーメンを食ったが三分の一くらい麺を食ったところで

咳が出て止まらなくなり、どんぶりごと流し台に置いておれは家を出た。

 昼まえに久米島さんからケイタイに電話がはいって、旧駅前の大通りの南側の路地の

喫茶店で会った。

山下君も来ていた。

「車を改造に出そうかと思うねんけど、古川君が詳しい奴知っとるヨッたやろ。お前から頼

んでくれへんかのう」

 レモンティーを飲みながら、久米島さんが切り出す。

 何でこの暑いのにレモンティーなんだ。それもホットなのだ。

「古川のケイタイ番号言いますから、直接言うてみてください。案外、喋りやすい奴かも知

れませんよ。久米島さんの方が年上やし」

 分かった、と久米島さんは言った。今日も右手が震えていた。カップを両手で持ってレモ

ンティーを飲んだ。

 山下君は縫製工場に就職が決まったと言った。

 それは良かったなァ、とおれは言った。

 就職はするな、と、あれだけ申し合わせたではないか。こいつはおれたちの起業をどこ

か舐めている。しかし、どっちみち縫製工場ならこの山下には務まらないだろう。賃金が

安い上に根気の要る仕事だ。

 おれたちはそれぞれ軽食を註文して食った。量の少ないオムライスだったが、おれはや

っとマトモなものを腹に入れた気分になった。

 久米島さんは見るだけという条件で、おれたちはバッティングセンターに行った。

 85キロで一セット、105キロで一セット構えた。85キロと105キロは全て当てることがで

きた。その内、一球はホームランの的に当たった。

 115キではチップを三回数えただけだった。

 山下君は85キロゾーンでもスローモーな動きで時々身体がふらふらとベースに寄って

いくので危なっかしかった。105キロゾーンも試すと息巻くのだが「やめとけ」とおれと久

米島さんは声を揃えた。

 ホームランの賞は、十二回分の回数券だった。グラブとバットのセットという別の景品も

有るのだがそれは、子供用の玩具で、息子の居る父親が喜んで持って帰るそうである。

 赤い車で旧駅まえまで送ってもらってそこで二人とは別れた。

 まだ三時すぎだったのでパチンコ屋にはいった。

 スタートチャッカーへの入りの悪い台だったので、計二回、台を替わった。

 三台目は初めの五百円ですぐフィーバーした。確率変動がかかったので桶が一杯にな

る度に台のボタンで店員を呼び、たちまち四箱になった。確変は一旦切れたけれども、十

分ほど打つうちにまたフィーバーが来て確率変動がかかった。

 六箱目が積み上げられたとき、ちらと腕時計を見ると四時四十五分を指していた。

 おれは確変中だが横の演算器に出玉を入れかけた。うち玉もスライドを捻って下に出

し、六箱と余り分をレシートに変えて立った。

 三十代くらいのニート風の男がおれの顔をまじまじと見ながらニタつく。

「構へんで、打ってよ」

 とおれはその男に言ってカウンターに向かった。

 全出玉を火打ち石にした。店員は余り分をガム一個にしておれに渡した。

 景品交換所がどこに有るか分からず、おれは店を出て脇に行き、もう一度店内を横切っ

て反対の脇でそれを見つけると火打ち石を窓に出した。

 小窓から火打ち石の塊がとられてからなかなか係の人は金を出さなかった。

 やっと四万千円を受けとって腕時計を見ると、四時五十八分だった。

 おれはドクダミラーメンまで走った。途中、雷の音がして雨が降ってきたが、おれは濡れ

ながら走った。

 暖簾の出てない玄関の戸をがらがらと開けて中になだれ込む。未だ裏口は教えられて

いない。

「すみません。遅れました」

「初日から遅刻か!」

 と言われながら小さな木戸を押して厨房にはいった。二、三歩、歩を進めると足許がツ

ルッと来た。おれは反射的に金属を掴んだ。

 尻餅をつくのと同時にがしゃんと音を立てて大鍋がひっくり返った。

「あーあ」

 と、溜め息をつく店長。

「今、床洗ってたから……」

 と、ハツ子さんが厨房の外からデッキブラシに半分体を預けながら言った。

 後で知ることになるのだが、スープは三日連続で昨日の残りに水を足して追い焚きす

る。火の入るまえの鍋だったので火傷せずに済んだという訳だ。

 本條の書いたとおりおれは、スープを創らされることになった。

「ハツ子さん、二時間遅らすから。ワシ、買いに行ってくる」

 須藤さんはそう言って出ていった。

 おれは店長が居なくなってしまったので何をしていいやら分からず、しかし何もしない訳

にもいかないので、鶏ガラの散乱したのをゴミ箱に片づけてから、布巾でテーブルを拭い

たりした。

「ぼーっとしてていいんですよ。どうせ店長が帰ってくるまでの時間は給料つきません」

 おれはそれでも何もしないではいられなかったので、厨房のなかに入りシンクを拭いた

りガスコンロをクレンザーで磨いたりしながらときどき、ちらちらとハツ子さんの顔を見たり

した。それでも店長は帰ってこなかったのでテーブルに腰を下ろし、ハツ子さんと向き合っ

て煙草を喫った。

 五時四十分頃、須藤店長は帰ってきた。

 黒いビニール袋を提げていた。

「ハツ子さん、やっぱり今日は閉めるわ。臨時休業いうて貼り紙しとって。そいで揚がって

ええから」

 須藤さんは袋のなかから鶏を出す。一羽おれに手渡して、

「こうやって持って、血を出来るだけ抜いて」

 と自ら一羽持ちシンクの上で逆さ吊りにする。

 首のない鶏。

 足を持っていると切れた首からたらーっと赤い液体が流れる。死に体の鶏には羽根の

根元の筋力も既になく、だらっと垂れた羽毛に首は隠れがちだ。

「インスタントのガラ(ガラスープの素)足したろか思たけどやめた。流石にそれは出来

ん」

 全部で五羽ぶん、血を抜くだけで十分ほどかかった。

 どうやっていいのかわからないのだが、須藤さんは教えてくれない。仕方なく手あたり次

第、羽根をむしっていく。

 中途まできた処で須藤さんが、換わってみろ、と言っておれに換わり、包丁で切り込みを

入れると皮を丸ごと剥いでしまった。その技の巧いことまた速いこと。

「皮めくるんやったら別に…」

「否、或る程度はむしらな出けん」

 筋肉むき出しになった鶏の手羽を捩り包丁を入れて面疔割りに二分割したものにさらに

包丁を入れ手羽を切り離し、その手羽もさらに包丁で二つに分割する。そこまで出来た五

羽分をもう一度別のビニール袋に入れ厨房の外の客スペースのテーブルの間の床に新

聞を拡げてその上に置き、擲りと呼ばれるハンマーを持ってきておれに渡し、

「これで、どついて砕いて」

 と言った。

 おれは少しまえから気にひっかかっていた。

「店長、エプロンは無いんですか」

 須藤さんは目を細めて店のマッチで煙草に火をつけて一息めを吐いた。

「そんなん、今頃言うなよ。今日帰ったら全部洗濯せえ。鍋ひっくり返してから既に汚れと

るやろ」

 おれのポロシャツはガラの臭いが染み込んで大幅に黄ばみ、鶏の血が点滴事故の模

様のように付いていた。

 擲りで十数回たたいた鶏を大鍋に入れ、須藤さんが一つ奥の郡で汲んできたというポリ

タンクに入った水を張る。八分目まで張った水を強火で焚く。大鍋は多分四十五リットルく

らいはいるのだろうが、おれはそういうことは訊かない。どっちでもいいことを訊くな、と怒

られそうだ。

「後は放っといていいから」と須藤さんが言った。

 須藤さんが仕事の指示を出さなくなったので、おれは何をしていいか分からなくなった。

ひょっとして、今日の賃金丸っぽ出ないのだろうか。

「あの、麺茹でる稽古でもさして下さい」

「阿呆か、お前は。スープが出来てないのに麺だけ茹でて、へて、その麺どないすんね

ん」

 須藤さんはテーブル席の椅子に座って新聞を読んでいる。一面の上部が薄青い。

 おれがその紙面をぼんやりと眺めていると、

「佐伯、何で毎日新聞か分かるか」

 おれに答える間を与えずに須藤さんはつづける。「ウチは、毎日(新聞)しか読まへんね

ん。思想的なことは解らんけど、この新聞は薄い。実に、中身もすっきりしとる。ゴミが少

のうて済む。何より余分な講釈がない。……それとな」と言って彼は立ってテレビの電源

を引っぱる。「テレビも毎日。東京で言うたらティービーエス。何でか分かるか。……店は

全部オレンジ色やろ。商売がら。エムビーエスやティービーエスは、生番組のとき、緑色を

基調に創ってあんねん。セットとか。知らなんだやろ。そいで、落ちつくし、目にもええから

毎日放送」

 そうなのか。そんな処まで意識しておれは、テレビを観たことはなかった。

 画面では、芸能人がジャージを着て壁に飛びついていた。

 細かい泡がだんだん大きな泡になって仕舞に波が立って、ぐらぐらと煮えてきた。

「換気扇まわして」

 と、須藤さんが言った。

 沸騰させたまま五分ほど経たせると、須藤さんは五リットルぐらい鍋に水を足した。

 再び沸騰して三分経つと、彼は火を切った。

「ウチはガラしか入ってないガラスープ。他の店は玉葱とかも一緒に煮込むらしいけど。

味診てみ」

 そう言って灰汁を除けてから小皿に掬いおれの顔のまえに出す。

 旨いとは言えなかった。膿はあるのだが味らしい味がない。グルタミン酸ソーダを水に

溶かした方がまだ旨い。

 長く返事をしないおれの顔を、須藤さんは下から覗き込む。

「変な味やろ。これでええねや。これに醤油と油がはいったら、完成品になる。そういうモ

ンや」

 ホナ、もう収おう、と須藤さんが言って仕事は上がりになった。鍋に蓋をして店の玄関の

鍵をかけた。玄関からはいって厨房を越えて右手に勝手口があってそこから出た。

「明日も五時に頼む。エプロンは明日渡すから」

 と、戸口で言った後、須藤さんはドアを閉めた。内側から鍵のかかる音がした。

 腕時計を見ると未だ九時を少しまわったところだった。

 おれは旧駅まえを自宅とは反対の方向に少し歩いた。

 仕舞た屋が五軒並んでその左端に按摩屋がある。ガラス戸の奥からオレンジ色の照明

が零れていた。

 ガラスのドアを引いてなかにはいっていく。土間を五歩ほど歩くと表の戸がバネで閉ま

る音がした。

 こんばんは、と一声かけると五十代の女が奥から出てきた。久し振り、おれ、と言うと、

ああ佐伯君、今日は? と女は応える。おれが小さく頷くと、女はつかつかと玄関に寄り

戸の内鍵を閉め、黒いカーテンを引く。

 たまに地元に帰ったら、おれはこの女を抱く。マッサージが仕事で別に情婦のようなこと

をする女ではないのだが、おれが一つめの大阪での仕事に挫折して一度地元に帰ったと

き、そのまえの学生時代からときどき按摩をしてもらっていたこの店に寄った。あの時も今

日と同じ九時をすこし過ぎたような夜遅くだったが、按摩はしてくれた。おれはあの時、ど

うかしていたのかも知れないが按摩中の彼女の手首をぐいと掴み、抱き寄せた。そういう

ことしたいんやったら、それでもエエで、佐伯君やったら、と女はおれを受け容れた。あ

れ以来、奇妙な関係がつづいている。

 女といってももう五十すぎだ。躯も顔もふくよかだが肌に水分がない。鬢髪で目が切れ

長ですこし吊りあがったそそる顔ではあるが、老いが目尻や首筋に皺をつくり、とても一

般の男が誘ったりはしないだろう。しかも、気性が荒くなかなかとっつき難い人あたりだ。

 おーん、おーん、と女は呻きを洩らした。

 家に戻ると着ていたものを全部洗濯機に放りこんで、まわしておいてからシャワーを浴

びた。

 自室でひと息つきケイタイの電源を入れると留守番電話センターのメッセージお預かり

表示が出ていた。

 一つは裕美からで、もう一人は久米島さんだった。

 九月の半ばくらいに二台の車の改造が仕上がるということだった。伝言の最後に、「どう

や、ラーメン屋は」とはいっていた。久しぶりの仕事は生活にメリハリが出来ていいだろ

う、と訊いている意味がその声には含まれていた。

 疲れていたのですぐに眠ってしまった。

 夢を見た。

 地元で学生の頃アルバイトに行った。そのガソリンスタンドで、当時五十すぎの社長に

おれはタイヤ交換を教わっていた。

 設備などは現代とは比べると不十分で、バールでタイヤを外し、鉄ホイールにバールで

タイヤを嵌めてゆく。栄養過剰の頬のふっくらした四角い顔の陽に灼けた社長が十四イ

ンチのホイールにダンロップのタイヤを咥え込ませる。なかなかタイヤは納まらない。ダ

ンロップのタイヤは硬いのだ。「おれはアルバイトにタイヤ交換を教えてやっているのだ。

威厳を示さねば」と、おそらく社長は思っているだろう。

「おーし! おーし!」

 社長の呻き声が憐れに思えてくる。しかし、おれは未だやり方を習得していない。

「おーし! おーし!」

 枕許の充電器の上で、ケイタイのバイブレーションが唸っている。

 寝とぼけたまま通話ボタンを押す。

〈ああ、もう起きとった? 山下やけど…〉

 時刻は五時五分だ。

 もう小一時間眠りが必要だったのだろう。頭の芯が少し痛い。

「ああ、起きたけど、何? 朝っぱらから」

〈ワイのう、馘なってもてのー、縫製工場。ほいでラーメン屋の方はいつから行けんのか

思てのー〉

(そんな事で朝から電話してくるな)

「山下君、いっつもこんな早う起きよんの?」

〈ワイ、大体毎日、四時に目ェ開いてまうねん。睡眠薬は飲んみょれへんど、本條みたい

に。ワイの場合は安定剤だけや〉

「ともかく、寝かしてくれ。ラーメン屋台の事は気にせんと、好きなように就職活動しい」

 おれはそれだけ言うとケイタイを耳から離し、山下君がまだ何か言っているのが聞こえ

ていたが通話ボタンを押し、もう一度通話停止ボタンを長押しした。

 布団にくるまったが眠れなかった。

 コーヒーを入れテレビを点ける。

 『消えた年金記録』という問題を司会者は声を荒げて糾弾している。コマーシャルに入る

と急に音声が大きくなる。チャンネルをザッピングしてもアナウンサーの声が皆金属的で

耳につく。おれはテレビを切った。

テレビは面白くない上に喧しい。

 本條の原稿を手にとって捲ると、また先に進んでいた。

 主人公はお運びとしてその日、賑やぐ店内を駆けめぐる。深夜自宅に戻った主人公の

ケイタイに、仲間の内のひとりの訃報が入る。

 どういう理由で亡くなったのかは書かれていない。だから小説らしくないなと思うのだ

が、未著述のこれから先の紙面で、後日述懐されるのかも知れない。

  そして、死ぬのは五人の内の誰なのだ。現実の五人の内の誰なのだ。この小説は未

来を予知している。

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『あいつのおかげで』ーーー4 [自作原稿抜粋]

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 山雨乃兎 近著

 『あいつのおかげで』4
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 おれはそれからどっちにしても必要になる履歴書の内容を、まえから用意していた物をとり出

して見ながらワープロソフトで改訂した。その改訂稿を基に新しい履歴書を一枚書いて封筒に

入れた。

 翌日、おれは歩いて大型スーパーマーケットに行き履歴書用の写真を撮った。無人の機械で

出てきた写真は、背景に比べて顔が浮いていたのでおれはもう一度、白黒に設定し直して撮っ

た。

 スーパーのなかのマクドナルドでチーズバーガーとコーラを註文し、店内で先に買っていた小

さな鋏で写真をくり抜いてシールで貼ってそれを胸ポケットに収ってからチーズバーガーを食っ

た。

 ケイタイのバイブレーションが作動したので表示を見た。今泉さんからだった。

 今週末に全員の招集をかけろ、と彼は言った。登記の方も順調だ、と言った。

 ハンバーガーショップを出て中江市をぶらついた。自然にパチンコ屋にはいった。

 下一桁が一致する台か十二番サイクルでフィーバーがかかるのを知っていたので今当たって

いる末尾3は見送って次はこれが来るだろうと当たりをつけて三百七十七番に座った。スタート

チャッカーにはよく入ったので球が減るのは遅かったが、初めの千円で末尾〇がフィーバーし、

次の三千円めが吸い込まれる頃には末尾4がフィーバーした。これで最後とあと二千円つぎ込

んで打っていると、末尾6が来た。最悪だ。

 隣のビロード生地のような光沢のある紫の服を着た顔に水分の少ない五十代の女が煙草を

銜えたままおれに目を合わせ口許を緩めた。

 店を出ると陽が眩しかった。

 昼の一時半をまわったところだったが、飯を食いたいとは思わなかった。

 街路樹がまばらにあるだけの中江市の県道だった。旧駅前通りはもう国鉄の駅はなく、代わ

りに大きなシティーホテルが建っていた。

 おれは旧駅まえの目抜き通りから脇の道へ入った。

 昔、三十数年前から変わらぬと思しき旧い町並が展がる。炭焼き色の塀の木造家屋。昔のま

まの理髪店からはトニックとシェイビングクリームの匂いが漏れてくる。

 煙草を買おうと自販機のまえに立って何げなく奥の上の看板を見上げたとき、おれの心臓は

バクと大きく脈を拍った。

 ーーードクダミラーメンーーー

 暖簾はまだ掛かっていた。

 おれは自販機にいくら小銭を入れたか思い出せなかったが、赤いランプが全部点いていたの

でセブンスターのソフトのランプを押してすぐ返却レバーをがちゃがちゃと下げて出てきた小銭

を拾い、煙草を持って中へはいった。

 顔の四角い親父だった。四十前半くらいのもち肌の顔も身体もふっくらとした女が、おれのま

えに水を置いた。

「何にしましょう?」

 おれはカウンターの上の壁を見て手元のカウンターの上も見たがお品書きがなかった。

「メニューは、ないんですか」

 と、おれは女ではなくカウンターの奥の親父に訊いた。

「ウチは醤油ラーメンだけ。スタンダードと大盛りと特盛り」

 湯気の立つ厨房で湯気の向こうに肌が黄色っぽい、顎髭の剃り跡が目立つ頬骨の張った親

父の脂のてかりを持った顔が微笑む。ねじり鉢巻。

「ビール有りますか」

 おい、何を言ってるんだお前は。アルバイトの話しを切り出すつもりじゃないのか、それなのに

飲んでどうする、というもう一人のおれの声がする。

「あるよ!」

 威勢のいい親父の声。

 四十女が栓を抜く。豪快な炭酸てっぽうの音。霜のついたコップに三角巾で髪を抑えた女がビ

ールを注ぐ。

「いやいや、そこまでは宜しいよ」

 と、おれは言ってビール壜を女の手からもらい受ける。少しお互いの手が触れた。乾いた肌理

細かい女の手の感触がおれに伝わる。

 おれはさっきからずっと同じことを頭のなかで考えている。幼少からこの街で育ち、専門学校

へ出るまではずっと、おれはこの街を見ている。しかも、この界隈は、おれの家からも近く竹馬

の友と走りまわった所だ。

 こんな店あっただろうか。

「スタンダード一つ」

「あいよ」

 親父の甲高いダミ声が店に響く。

 オレンジ色で統一された店内。カウンターのおれの視線の上方にテレビのブラウン管があっ

て時事問題を討論する番組がかかっている。少子高齢化が議題のようで、五十過ぎのフェミニ

ズム論者の女と七十過ぎの頭の禿げた政治評論家とが激しく言い争っている。

 つき出しの枝豆を食ってビールを飲み、煙草を吸う。味見をするのに大盛りや特盛りほどの量

を喉へ流し込むのは本末転倒だろう。若い頃なら胃は大きいが、四十も過ぎると大食いも無理

になってきた。

 ラーメンが目のまえに置かれた。

 煙草を消し、麺を箸でつまんでふうふうと息を吹きかけ一口めを口中に含む。湯気は立ってい

るが麺もスープも熱くなかったのでどんどん喉に入る。酷のあるスープ。しつこすぎることはな

い。少し脂の絡んだ麺。その適度な脂が麺に風味を加えている。火の通った加工品でない焼豚

には頃合にラードもついている。

「どう? ウチのラーメンは熱くないでしょ」

 大鍋のスープを厨房内の排水にひっくり返してから、親父はそう言った。

「何で?」

「何でって、アンタ猫舌でしょ。スープが熱けりゃすぐには箸がつけられないってんで、待つ人が

多いのよ。待ってりゃ麺が延びちゃうし、なら猫舌の人がすぐ食べられる温度の方がいいって、

考えたんだよ。……少しぬるいからって食えん、ていう苦情もないしね」

 四十女は暖簾を収い、テーブルの上を拭き、その上に椅子を逆さに載せかけた。

 全部食べ終わって金を払ってから、「実は、僕を雇ってもらえませんか」と切り出し、レジを打っ

た親父におれは履歴書を差し出した。

 親父は胸許に急に封筒が差し出されたので一瞬、気をくらったように小さく息を吸い背骨をす

こし後ろへ倒したようだった。自然に出た両手で履歴書を持つ。

「困ったなァ。一応、今人は足りてるんだけどな。ハツ子さんだけで」

 と、テーブルの下を掃いている四十女の方へ黒目を一瞬やってからおれの履歴書を開く。

「えー、佐伯さん。随分仕事換わってるね、アンタ。まあ、それはいいとして、何で就職しないの」

「最近、勉強したい事ができまして。とりあえずは生活費だけ稼ぎたいんです」

「それで何でウチに? ウチは職安の募集も求人広告も出してないけど…」

「一度、ラーメン創ってみたかったんです」

 親父はハツ子さんに上がっていいよと目くばせした。お先に失礼しますと言って四十女は店を

出ていった。

「一日、何時間出れる?」

「四時間か六時間ぐらい出られます」

「何時から何時?」

「それは、お店に合わせます」

「じゃあ、夕方五時から十一時ね。明日から頼むわ。……ところで、したい勉強ってのは何?」

「それは…」

「急に来て雇ってくれって頼むんだから、それ位説明してもらわんとね」

「小説です」

 大嘘だが嘘も方便だ。

「小説って、アンタ作家に成りたいの」

 親父は店のマッチで火を点けて、ショートホープをひと息喫った。

「アンタさ、それは辞めた方がいいよ。おれ、大学の同期で二人、作家志望の奴いるけど、二十

五年も家で書いてて未だに新人賞にも通らんよ。そいつさ、五年前から仕事も辞めちゃって貧

乏そのものだよ。四十七で未だ一度も結婚もしてないのよ。ありゃあ、生きてるとは言えん

よ。……もう一人の方は若い内に自殺しちゃったよ。アンタも作家になんて成ろうとしないで何

でも他の仕事した方がいいよ。嫁さん貰って当たり前の生活してる方がよっぽど益しよ。アン

タ、奥さんは?」

「離婚しました。五年前」

「子供は」

「子は居ません」

「また女つくりゃあいいのよ。子がなかっても女の為なら働けるわねェ。男は独りで居ると碌な事

にならんのよ。自分の為だけにだったら、その内働く気力もなくなっちゃうよ」

 小説家を目指すかどうかは、基本的にアンタの好きなようにしたらいい、という結論を親父は

言って、明日から来てくれ、と言った。

 親父の呉れた名刺には須藤満とだけ書いてあった。横書きの名前の下には電話番号だけが

印刷されていた。

 家に帰ってから久米島さんに、明日からラーメン屋で働くことになったと電話で話し、今泉さん

にも連絡したら彼はこちらに来ると言った。

 シャワーを浴びて、スパゲッティーを茹でてサラダオイルを絡ませて皿に二皿分盛ってラッピン

グして台所のテーブルに置いた。

 二階のベッドでうとうとしていると玄関のチャイムが鳴った。

 夕飯はまだかとおれは今泉さんに訊き、彼がああまだやけど別に構へん、という曖昧な返事

をしたのでおれは彼に出来合いのミートソースをかけてさっきのスパゲッティーの麺を温めて出

した。

 会社の登記書類を持ってきたと言い、おれのサインと認印が数カ所、要ると言いながら彼は

スパゲッティーを食った。

「旨いな、コレ。佐伯が作ったん?」

「これは料理とは言えませんよ。ただの茹でた麺とインスタントのミートソースですよ」

「そいでも、麺は佐伯が茹でた訳やろ。やっぱり君は料理が上手いわ」

 すぼぼぼぼぼすぼぼぼぼぼ、と音をたてて今泉さんは麺とミートを吸い込む。一皿めが空い

た。おれは、おそらく早く食べ切ってしまうだろうと途中から見越して温めておいた二缶目のミー

トソースをかけて、今泉さんのまえに出す。

「もう一杯、食べますか」

「いや、ええのか、悪いのう、ワシ何でこない食欲が湧くのか自分でも判らんわーー」

 言い終わるのと同時に今泉さんは割り箸をつき立てる。

 おれは自家製のスパゲッティーには箸を用意する。

 水を勧めて皿をひきテーブルを布巾で拭く。

 今泉さんはひと息に水を呷り、コップを置く。はあ、食った食った、と洩らし満悦そうである。

「どんなラーメン屋」

「醤油ラーメン出す店です」

「どこにあんの」

「中江市旧駅前の、向かって右手の路地はいったとこです」

「そんなとこにラーメン屋、有ったかいなァ」

 おれは、今泉さんが出した登記書類に署名し印を捺し割り印を捺した。おれには剰り書類の

内容は分からなかったが、任せるところは任せるしかない。

 その後、缶ビールを手に二階に上がった。

「どないや。本條の小説は」

 分け目のないほとんど白い髪の裾を自身で一度、手で拭ってから段ボールのなかの一束を掴

み畳に胡座を掻く。

「僕に良し悪しを判断する力なんかないけど、……リアルですよ」

 とおれは返す。

 プルタヴを立てて、おれはベッドに座ってぐいと呷る。今泉さんもおれから受けとったビールを

缶のまま呷る。

「これ、現実そのものやないか。何や予知されとったみたいやのう。気持ち悪いのう」

 例の題名すら書いてないおれ達の軌跡を書いた小説だ。

「鶏ガラを使うんか…」

「ちょっと済みません」

 と、おれは言って今泉さんの手から原稿を取り印字に目を落とした。

 何という事だ。未完の印字がなくなっていた処の続きが少し出来ていた。

 主人公は、ドクダミラーメンの仕事の初日に遅刻し、夕方の開店寸前に大鍋をひっくり返して

酷く店長に叱られる。店は臨時休業となって、主人公は鶏の毛毟りをやらされてガラスープを教

えられながら作る羽目になる。

「佐伯、お前も明日からアルバイト行く事になっとったわなァ。その店、名前は」

「ドクダミラーメンです」

「えー!」

 続きがヒトリデに印刷されたことは今泉さんには言わないことにした。本條があちらの世界か

 ら書き足しているんだろうか。まさか。

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