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今年を振りかえる。 [近況…]

 ホントの年末になって、今年を振りかえりたいと思います。

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 写真にも顕れているように、今年は大掃除はなし。。。

 雑多な用事に振りまわされて、こなすだけになってしまいました。(洗車と洗濯物の乾燥に行ってきて、そこで時間切れです)

 動画でも近況としてとりあげましたが、「きらら文学賞」にはつづけて応募しています。

 実は、内情を明かすと四作品以後、一作は、しびれを切らせて「小説すばる」さんの方に応募したのでした。

 実に、全作品落選。

 「小学館きらら文学賞」落選(今年は二作品の落選通知)、神戸新聞「読者文芸」4~5作品落選、「小説すばる新人賞」も落選でした。

 今年は、とくに、年頭の頃は、ヤフーチャットでからかわれたり、知人に色々言われたりで、小説を書くモチベーションが維持できず、仕舞いめには、現実にからかわれてどれだけ傷ついたかを作品に投影させるようになりました。

 そんな中で、ブログ、完全に一時閉鎖。その後、エクスポートデータを基に再開。

 しかし、URLを変えたことが大きな打撃になってしまいました。

 ホントは、エクスポートデータをとっていたことで安心していたのでした。

「アンタの声で傷ついたに見えたブログが、実は何ともない」というところをアピールしたかったのですが、ソネットの場合、基のURLが完全な欠番になってしまうので誘導ができず、多くのブックマーカーを逃すことになってしまいました。

 この辺が、ちょっとだけ気が短い自分の性格を反省させます。

 ページランクも、以前は3だったのが、今では0です。

 現在では、検索からの訪問者が日に0です。

 今年の二月ごろに一作品書き上げ、その後、新作を書いていましたが、あまりにも高邁な思想を反映している作品だったので、自分の手に合わず、途中100枚越えに至った状況から、その原稿は放置することになりました。(キリストが現代日本に再臨するというストーリーでした)

 そこから、現行の作品を書き始めて、現在で八ヶ月は経っています。

 なかなか完成しません。

 その間も、神戸新聞「読者文芸」の賞に向けて、何作も併行して短編を書きました。

 本来、このような陰の努力を述べるべきではないかもですが、まあ、今年の山雨が、どんな風だったかを探る手がかりとして読んでくださいね。

 今年は煙草の値上がりもあって、少しでも収入を確保するために、ヤフーオークションをはじめました。

 また、四年もまえからチョボチョボとはやっていたアフィリエイトにも力を注ぐようになりました。

 そのような状況を経て、はや気づくと年末です。

 腐りながら、既に覚醒している状態で二度目の飲酒をしたりしてさらに自分にカンフル剤を打って書き続けました。

 来年も、今年同様の努力をつづけるつもりです。

 皆さま、今年もお世話になりました。

 来年も、よろしくお願い致します。


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『大不況には本を読む』読了(追記あり) [最近、読んだ本]

 橋本治さんの、『大不況には本を読む』を読みました。

大不況には本を読む (中公新書ラクレ)

大不況には本を読む (中公新書ラクレ)

  • 作者: 橋本 治
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2009/06
  • メディア: 新書

 例によって、感想は追記をお待ちください。

 

   追記・感想

 

 「大不況には本を読む」というタイトルでありながら、本編四分の三まではタイトルで

表された内容は出てきません。

 世界の経済がどのように変化してきたか。日本の経済がどのように変化してきたか。を

滔々と語られます。

 

 世界の経済に、一番大きな変化をもたらしたのは、産業革命である、と。

 産業革命によって、工業製品が大量に生産できるようになった。その結果、産業の中心

だった(たとえると父や兄的)な農業は、利益の面で完全に負けることになった。

 大量に製品をつくることが出来るようになった国は、外国へも製品を売りたくなる。

 鎖国中だった日本も、ペリーに港を開くように迫られる。

 

 それから、百五十年。日本は、敗戦とオイルショックとバブル崩壊を経験する。

 日本は、政治と町民が切り離れた存在としてある。西洋では市民と政治は直結している。

だから、革命や暴動が起こる。

 江戸時代の士農工商という身分制度で官が統治したのは農民で、町民は物作りやそれを

売って儲けるという生活スタイルだったので、統治の影響を直接受けなかった。(大阪の

堺港に代表されると思う)

 

 世界は、産業革命以後は、工業製品を輸出して富を得る時代にはいったのだけれど、そ

れを一番成功させたのは日本であった。

 ヨーロッパでもアメリカでもない後進国の日本に、安くて質の高い工業製品を輸出され

つづけてはアメリカとしても自国の経済が成り立たない。そこで、日本に農産物をもっと

輸入してくれ、と関税の引き下げを求めてきた。

 著者は、自由貿易と保護貿易に関して、独自の持論を持っておられる。

 すなわち、工業製品ぐらい自国でつくりなさいよ、とアメリカに言えばよかったのであ

る、と。

 ヨーロッパは、日本の工業製品輸出過多に対して、ブランド物(奢侈品)を買うように

奨める。しかし、それもそういう風にもっていったのはアメリカなのだ、と。

 

 日本人は、富んできても「まだまだだ」と思って貯蓄する。

 その結果、世界でのお金の流れが停滞する。

 農業分野、農産物は日本製の方が安全でしかも美味なのである。いくら、関税を引き下

げても日本人は外国の農産物を買わない。そこで、ブランド物を買うように仕向けた。

 あってもなくてもいいもの、にお金を使うことになる。

 

 その後、ITバブルがあり、それも破綻して、今度は架空のお金をあるように見せかけ

た商売の時代にはいる。アメリカのことだが。

 自分たちが質の良い工業製品を作ろうとは思わないで、日本に嫉妬して、「働き蜂には

働かせておけ」と考えて、金融商品の利ざやだけで食べていこうとした。

 それも破綻した。

 

 現代は、発展途上国以外は物が飽和状態。物を創って売るという経済のあり方も限界に

きている。

 復興→繁栄→退廃、と経済は動く。

 そのことは、バブル崩壊をいち早く経験した日本人だから余計わかることである、と。

【加筆】 この経済の動きは、人間の脳の疲れ方&回復の仕方に似ていると思った。

 他の本で読んだことだが、脳は報酬系の要求によってどんどん強い刺激(快楽)を求める。それが、最終的には極度の疲れを伴うので自動的に人間、寝てしまう。たとえば、酒でも、始めはビールぐらいが美味しいのである。それがだんだんと杯を重ねる内に強い度数のアルコールを脳は欲しがる。私の場合、ビール→水割り→ストレートと移る。最後は、疲労が溜まるので、もう身体の方が受け付けなくなる。同様に、経済も、景気が回復してさらに景気がよくなりすぎると、一旦破綻する。

 

 話しが戻るが、誰かが富を蓄えて使わない、となると、誰かが、働いても金に困るとい

う状況が出てくる。沢山稼いでもよいが、死ぬまでに全部使い切ってしまうのが、経済の

ためには良い、と私も思った。

 

 実に、本編の四分の三までが、上記のようなお話で、最終章にきてやっとタイトルと付

合した内容になる。

 

 仕事もなくて収入も少なくて時間だけはある、という状況に追い込まれている人が多い

現代。だからこそ本を読もう、と。

 本には、過去の経験や知識しか書かれていないが、それを自分の知恵とすることで新し

い道が拓けてくるのではないか。(著者がこのように仰有っていたかは正確ではないが)

 どんな本とは指定されない。

 なるべく全てを的確に語ってしまっている本ではなく、読者自身が著者と対話し行間を

推察して読者自身が自分で考える癖をつけられるようなタイプの本を、読もう、と仰有っ

ていた。

 過去のことを知ることによって、未来にどう動くべきかを自分で考えることに繋がる、

ということです。

 

 全編を読んでみて、著者一人の自分を二人にした対話方式の哲学を読んでいるように感

じました。

 この本自体にも、「大不況には本を読む」ことが、ずばりどう良いのか、どの本を読め

ば良いのか、という回答は書かれていませんでした。そういう書き方こそが、哲学であり

文学なのですから。回答を探すことは読者に任されているのでしょう。

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歩いてきました。。。 [近況…]

 もう、年末ですね。。。

 今年は、思うような成果を得られなかった。

 そう思いながらも、「継続は力なり」を信じて、気晴らしに公園を歩いてきました。

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 久しぶりに歩きました。。。


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村上ポンタさんのアドバイス(追記あり) [ラフに語る、つれづれ記]

 村上ポンタ秀一さんも、ドラムセミナーを開かれていて、その動画をユウ・チューブで見ることもあったのですが、

村上さんが仰有る、グリップの方法も、それも有りかな、と最近思っています。

 スティックの支点をささえる持つところを、村上さんは、第二関節で握ってはどうか、と言われています。

 多くのドラマーの場合、指の第一関節と親指で握って支点をつくられるのですが、確かに、この方法だと、握らなくていい力が常にはいってしまってダブルストロークにいくための跳ね返りを期待したスティックの動きにはなりません。

  いかに、さりげなく、第一関節でも握れるかということが問題です。

 それも、練習によっては習得できますが、

やはり、第二関節で支点をもたせる握り方だとスティックの動きを自由に、スティックに思う存分跳ねてもらうことができます。

 村上さんの言ってることは当たっているなぁ、と思います。

 追記 

 全編、記事に誤りがありました。

 村上さん、第二関節で持つことではなくて、マッチドグリップの際に、手の甲を上にする持ち方を推奨されています。その持ち方だと、やはり革の跳ね返りを充分に活かすことができます。


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『キャバレー・ウエスト・ムーン』下 [自作原稿抜粋]

 注意! この作品は、18歳以上の読者を対象としています!

 店は浸水した。その修復で十五日以降も三日閉めることになった。

 おれと多恵は、沖縄に飛ぶことにした。

 旅行に出るのは何年ぶりだろう。

 ANAのボーイング747は、エンジン出力を九十八パーセントに一気に上げると、直

線の滑走路から空気の海に浮きあがった。

「北海道の方が良かった」

 多恵が左の窓際の席で言った。

「沖縄の海が見たくなったんや」

 シートベルトを外しながら、おれはそう答えた。

 雲の絨毯が拡がる。

 陽は絨毯の上で蜜柑色に輝いている。

 神戸とは違う沖縄の海が見たかった。神戸の海は深い蒼だ。沖縄の海は明るい青と緑だ。

 二十代の頃、先輩のバーテンダーと沖縄に行った。

 基地の轟音。

 海兵の相手のステーキの店。

 ホテルにあった、お茶うけのちんすこう。

 何故だか、おれのちんすこうは堅くて歯に合わなかった。

 ーーーめんそーれーーー

 部屋に出されたオリオンビールは冷蔵が間に合ってなくて、氷を入れて飲んだことをよ

く憶えている。

「うんじょう、いっぺぇ、ちゅらかあぎ」

「何、それ」

「沖縄の方言」

「意味は」

「わすれた」

「なーんだ」

 忘れてはいなかった。

 雲上、一ぺぇ、チュラカーギ。

 貴女は、とても、美人だ。

 多恵に今教えてやることもない。

 そういう事は、おれから知ることではない。

 那覇のホテルに泊まった。

 あたりまえだが暑い暑い。

 クーラーを効かせてセックスをした。

 高層ホテルの窓からは緑の海が見える。

 蚊をたたいた。

「近い将来、マラリアを気にしなきゃならないね」

 多恵がおれの左で言った。

 温暖化のせいで、マラリア菌を持った蚊の生息域が北上している。

「叩いても駄目なのか」

「刺されたらアウトよ」

 おれは夏が好きだ。冬はエネルギーを体のなかから出さないと動けない。夏は周りがエ

ネルギーを繰れる。春夏秋冬がある国の風流というのも分かるが、ずっと同じ気候で生活

リズムが変わらない方が、したい事に集中できると思う。変わらないならば夏が好い。冷

えたビール。眩しい陽射し。喧しいセミ。ラテンミュージック。青々とした木々。光る海

面。冷房のなかでする永い永いセックス。

 森田さんは、どうしているだろう。池沢瑞樹も落ちついただろうか。小岩さんはどうし

ただろう。あの夜、考えないことにして愉しんだのはいいが、結局、「書けない」という

問題は解決していない。否、今頃、部屋で猛烈に書いているだろうか。

 中野。奴はどうしているだろう。

 中野にも柳本にも些か長い盆休みが来たにすぎないという事か。

 毎日が仲間とわいわいやる仕事なので、休むといったら静かな方がいい。孤りになって

読書などする訳でもないが、しいて言えば考えたいのだろう。その癖、考えても何かが分

かる訳じゃないが。岡村多恵は物静かだ。うかれて余分なことを言う処がない。だから、

多恵と居ると落ちつく。歌うときにははしゃいでいるのだが。歌というのは自分を盛りあ

げなければ歌えないものかも知れない。

「私、もう、有名には、なれないんだろうか」

「多恵ちゃんは、よく頑張ってる。今でも充分プロやよ」

「でも……」

「脚光を浴びる人は数少ない。そして、誰もが、それを狙ってる。それに、音楽の仕事に

就けないで、歯噛みしてる人も一杯いる」

 岡村多恵は冷蔵庫のオリオンビールを飲む。俺たちはレースのカーテンだけの西陽のは

いる部屋でまどろむ。

「森田さんも、そうだよ。森田さんは納得してキャバレーのドラマー、してる。あの人だ

って腕からいけば、もっとメジャーな仕事、したい筈や。あれだけの腕なのに、何十年も

誰からも評価されなかった」

「それは、そうだけど…、私は一流になりたい」

「君だって、ニューヨークにまで行って、とことんやってきたんだよ。クラシックの評価

のされ方とは違う訳だし、目指していれば到達できるのかも知れない。駄目かも知れない」

 おれも多恵の居るソファーに座り、ビールの栓を抜く。

「よく、みんな、『私の人生、もう少しの処で駄目になってばかりなんです』と、話すけ

ど。高い処を目指す人は、あと一歩が届かないで終わる人が九割いる事になる。小岩さん

の世界でもそうだよ。新人賞応募総数なんか千人以上いる。その中で一番にならないと舞

台にすら立てない。一般も含めての千人じゃないよ。目指してる人ばっかりの千人の内の

一人だよ」

 多恵はバージニアスリムをひと息すった。

「私、才能ないんだろうか」

 おれは多恵の左から肩を抱き、前を見ながら言う。

「いつかは言わないといけない、と思ってたから言うけど。君には歌の根本的な才能は、

ない。サラ・ボーンとかカーペンターズとかドリカムとか美空ひばりは、音程を一音も外

さない。外すのは、敢えて外すときだけだ。それに対して、君も含めて、言い方は悪いが

二流で努力型の歌手は、ところどころ音程が下がる。それに、本人は歌っている間、気づ

いてない。一つの音を出そうと思ったら最初から的確に、狙う高さに思い切って出さない

と楽器でもフラットする。一旦、音を出してしまうと自分の音メインに陶酔するから、そ

の事に気づかない。トロンボーンが、いい例や。あの、ドランカーの中野がやってるやつ。

実は、俺も、大昔、中学時代はトロンボーン吹いてた。あの楽器は、FやBフラットの音、

FやBフラットの音はスライドを一番戻して吹くんだけど、初めの内は、いくら調整管を

つめても的確な高さの音は出ない。音がこもってるから。どうしても四分の一音ほど低く

しか鳴らないので合奏から外される。それで、個人練習しかない。音が抜けるまで、毎日

毎日ロングトーンするんだよ。歌は初めから音が出ないという人は居ないけど、自在に高

低が変えられるから甘く考えてる人が多い」

「今でも私、音、下がってる?」

「ああ、頻繁に」

「じゃあ、アタシ、メジャーになんかなれないのかなァ」

 おれは、セブンスターを轡えた。

「そうじゃない。自分に気づかせる事だよ。例えば、丸山さんにピアノの音出してもらっ

て、それに合わせて声を出して、下がってたら丸山さんに指摘してもらって、出し直す。

それを何度もやる。あとは、一曲伴奏つきで歌って、一音でも音が下がってたら曲とめて

丸山さんに叱ってもらう。それをやると、自分の音程を意識して歌うように変わってくる

よ」

 多恵はわざと表情を変えないでいるようだった。自分の歌唱の音程が下がっているとい

うのを認めたくない気持ちもあるのだろう。

 おれはもう、その話題を出さないでおこうと思った。

 TVを点けると三線を奏する老婆と踊る男が出ていた。

 二回目は永くした。

 おれは多恵を下にした。ぎゅううとしがみついてくる処で腰のうごきを止める。多恵は

横を向き目を閉じる。また運動をはじめる。しがみついてくるとスローにする。

 多恵は薄情だ。自分が事足りてしまうと何も反応しなくなる。だから往かせない。

 おれのようなことをしているのは、どれ位いるのだろう。もう空は蒼暗くなった。実に

四時間、到達させないでいる。女は開発できる。多恵もいずれ、間を空けずにオルガズム

を何度も得る体質になるだろう。腰を速めてやる。おれはヨハネの黙示録の冒頭からを頭

のなかで暗唱する。動きは速いまま約二分が経過する。多恵はよがるが声を抑えている。

ついにきつく抱きつく。もうどうしようもないのだ。多恵は今、神よりもおれを愛してい

る。

『……この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与

え、そして、キリストが、……』

  恩納村で、米兵相手のステーキの店にいった。

 鉄板のあるカウンターに、多恵とすわった。

 鯨の髭が天井ちかくに幾つもかけてある。昼の二時だった。同じく鉄板のあるテーブル

席にはカーキ色の帽子をかぶった米兵が十人ほどビールを飲み盛りあがっている。彼らの

前の鉄板には火がはいったまま銀色の蓋がおいてある。クーラーの効いた店内に肉の焦げ

る音と熱気が対抗している。

 俺たちのカウンターでは、店長の坪内さんが焼けた肉を切り、ナイフで飛ばしてはフォ

ークでキャッチし、皿に盛りつけていく。肉片が宙に舞う間にフォークとナイフがぶつか

る余興の動きがある。

 全て皿にまとまった処で多恵が拍手をする。

「ありがとう御座います。熱い内に、どうぞ、お召しあがり下さい」

 米兵たちのテーブルの蓋を他の従業員らが開ける。

「wow!]

 という歓声があがる。

「ひっ」

 坪内さんが次の調理にかかって俺たちの目のまえで赤い炎があがった。

「東京からですか」

「いえ、兵庫なんですよ」

「兵庫。三田牛、神戸ステーキですな」

 おれはワインを口に残したまま肉を頬張る。血の匂いが口中に展がる。

「震災、大変でしたね。実は、私も、元は神戸なんですよ。震災より、ずっと前に、もう

こっちに来てましたけど」

 坪内さんは魚の肉に醤油と何かを垂らして蓋をした。

「あ、僕は、その頃、大阪でしたから、この娘の方が」

 多恵は一旦おれと目を合わせてから坪内さんの方を俯きがちに見て言う。

「私、あんまり思いだしたくないんです。ごめんなさい」

「そうでしょうね。お訊きしない方がよかったですね。申し訳ないです」

 坪内さんは流水に手をつけエプロンに挟んだ手拭きで手を拭きながらそう言った。

「ニューヨーク、行く前か」

「いいえ。帰ってからすぐ」

「そう、悪いタイミングだなァ」

 フーム、とか、ベリ・ナイスとかいう声でテーブルは盛りあがっている。

 坪内さんが魚の料理を俺たちのまえに出す。

「お仕事は何をされてるんですか」

「バーテンです。キャバレーの」

 帽子は高いが体の嵩はひくい坪内さんが、目をまるくする。

「珍しいでしょ、今どき」

「そんなことありませんよ。キャバレーはないけど、ラウンジとか、沖縄にも一杯ありま

す」

 坪内さんの表情がより柔らかくなったように見えた。同じ飲食店関係と分かったので親

近感が湧いたのかもしれない。

「この娘、シンガーなんですよ。ウチの店の」

 野菜のはいったスープを出しながら坪内さんは肯く。

「ああ、そうですか。愉しいお店でしょうねェ。貴方がた見てると、そう思います」

 多恵はおれの方を見てくすくすと笑った。

 野菜スープを食べながら、魚を食べた。

 スープは先に出るものと思っていたが、そうでもない場合もあるらしい。白身の魚だが

醤油の味が染みていて旨かった。野菜スープは具が沢山はいっていて腹が膨れた。

 次の日、見るだけに海にいった。

 晴れわたる空。雲ひとつない。

 海の家は夏の名残りだが、まだ暑く水着姿の客が多い。

 俺たちは波打ち際までいって足首まで水に浸かった。

 その夜、ホテルの最上階のラウンジにいった。

 生演奏でトリオがジャズをやっていた。

 食事が運ばれてくるのを待つ間、おれはピアノの男に、多恵を一曲飛び入りで歌わせて

やってほしいと頼んだ。

「それは出来ません」

 白い肌でオールバックの髪の男はそう言った。

 少し、むっとしたが、腹を立てるのはやめた。

 こういう事は、よくある事なのだ。

 飛び入りを許すかどうかは、店やバンドによってそれぞれに違う。キャバレーで歌って

いるプロだと多恵のことを紹介したが、それだけではアドバンテージにはならない。

「何、話してたん」

「何でもない」

 俺たちは黙して出された料理を食べる。

 中度半端な演奏だった。ドラムは、レガートの粒が曖昧で、左手が大して動かない。ピ

アノは十六分の連符がつながっていない。ベースは握力が弱いのか音が伸びない。

 出された肉を詰めこむ。

 広いフロアに他の客たちの声が交じりあう。

 肉は硬い。

 ワインをがぶ飲みする。

「どうかしたの」

「何でもない」

 全部食べ了えた。

 テーブルには禁煙のプレートがある。

 さっきからサイドシンバルの音ばかりが耳につく。音が伸びている処をもう一度同じシ

ンバルを叩くということばかり繰り返す。スネアは付点八分音符の頭と裏ばかりを繰り返

している。

「もう出よう」

 多恵の手をとり精算カウンターに向かう。二人分で一万八千円の料金を払ってラウンジ

を出た。

 部屋でビールを何本も飲んだ。

 多恵に挿入して腰を動かす。

「どうしたのよ」

 おれは無言でセックスをつづける。

 神戸に戻った。

 シェーカーを振る、いつもの生活がまたはじまった。

 丸山トリオが第二ステージのまえの打ちあわせをしている。カウンターに近いホステス

の待機テーブルのすぐ隣のテーブルで三人が神妙な面持ちで話しているのが見える。

 カウンターには小岩さんと吉川先生が隣同士にすわってマイルス・デイビスの演奏スタ

イルの変遷について話している。小岩さんがスランプを抜けたのかもう開きなおって当分

書かないことにしたのかは分からない。それでも、随分、すっきりした顔をしている。

 ホールは、定年退職老人と定時で仕事を了えた中年のサラリーマンとでごった返してい

る。池沢瑞樹の笑う表情が、ここからよく見える。瑞樹の隣に長谷川老人がサマーブレザ

ー姿で巨体を揺らし、何かを説明するジェスチャーをしている。その隣に松本若菜がちょ

こんと座っている。長谷川老人はいつも一人で来る。両手に華がゆるされるのは彼だけだ。

 入り口から小学校低学年くらいの男の子が階段を駆けおりてきた。

 フロアをチェックしに出ていた柳本が壁になって止めようとする。

 男の子は柳本の脇をするりと抜けて丸山トリオのテーブルに行った。

「お父ちゃん!」

 子供の声は甲高いのではっきりと聞こえた。

 賢そうな刈り上げ頭の耳の大きい子だ。

 男の子は、森田さんを見ている。

 玄関のドアの開くカウベルの音がカランコロンと聞こえて、薄い黄色のカーディガンを

着た女がはいってきた。おかしい。これだけ混んでいれば玄関のドアのカウベルの音が聞

こえる訳はないのだが。

 森田さんと女が何か話している。

 森田さんを含めて、丸山トリオはステージ裏の廊下へ移動をはじめた。

 遠くで見て事情を察したのか、佐江子が女の傍に寄っていって二人して、否、子を含め

て三人で丸山トリオの居たテーブル席にすわった。

 おれは、藤川峻を呼びカウンターを任せ、件のテーブルに寄っていった。

「バーテンの千田です。何か創りましょうか」

「いえ、別に。でも何も頼まないのも…、お店ですから。お任せします」

 弱くカールした髪が嵩なく寝ている。黒のスリムジーンズに白のブラウス。黄色のカー

ディガン。胸の脹らみはウエストと腋の中間くらいにある。

 おれは、藤川にブルーハワイとコーラを持ってこさせた。

 森田さんのブラシが緩やかなフォウビートを刻む。まるで時計の振り子のように。

「森田さんと、お付き合いされてたんですか」

 佐江子が訊く。

「ええ、十年ちょっと前」

「森田さんは、貴方との間に、子供が居たこと、知ってらしたんですか」

 今度は、おれが訊く。

「いいえ、別れた後、妊娠に気づいたんです」

 ワイヤーブラシの尻の金属がトップシンバルのカップを打つ音がする。『いつか王子さ

まが』だ。シンバルの表面をブラシが滑っていく。

「その時に相談すべきですね」

 おれは、そう言って胸ポケットから煙草を出して火をつける。

「もう、会いたくない位の別れ方、しましたから。子供に罪はないし。一人で育てるつも

りだったんです」

「まあ、僕らには、諭す権利、ありませんから。演奏の後で、森田さんとゆっくり話して

下さい」

 おれはそう言った。

 佐江子はおれの目を見て微笑して肯いた。

 堕ろすのは人道的に罪だとか思って一人で育てようという女がいる。子供を育てるのは

そんなに甘いことではない。

 男の子は母親にべったりと寄り添っている。小さな瞳で、他のテーブルやステージを見

ている。

「お宅、お名前は」

「徳永香です」

「お子さんは」

「允彦です」

 この女は森田さんに未練があるな、とおれは感覚的に思った。

 嗚呼、モテる森田さん。どうするのだろう。

 池沢瑞樹が客の相手をしながらこちらを見ている。

 森田さんのドラムはシャープに切れない。スティックを使っていてももこもことしてい

る。客はそれぞれに女との話しにのめり込んでいる。『クレオパトラの夢』をやっている

が、シャープに切れない。左手とバスドラムが団子になってよろけた感じで曲が終わる。

「おーい! どうした! モリタ!」

 常連の会社員からひやかし声がかかる。

 長谷川老人も森田さんを目で追っている。けれども長谷川老人はからかったりはしない。

今井満純に水割りをつくってやっている。

『チュニジアの夜』で何とか第二ステージを了えた。

 丸山さんと久米島さんがおれに挨拶して「今日は、一寸いくとこあるんで」と言って帰

った。

 森田さんがテーブルに来たのでおれと佐江子は捌けようと席を立ったが、

「千田さん、ちいママ、気ィ遣わんと居って」

 と森田さんに引きとめられた。

「気は遣ってないけど、話しにくいでしょ、人前では」

 とおれは言った。

「二人だけで話して、長々とこじれる基やし。千田さんらに見とってもろた方が」

「そうか」

 おれと佐江子はもう一度すわった。

 池沢瑞樹が受け持ちの客を放っておいてテーブルに寄ってきたが、「アンタは、今の仕

事しとき」と佐江子が追い返した。

 男の子は女の隣でうつらうつらしている。佐江子が自分の膝に乗せ頭を撫でてやってい

る。

 森田さんは煙草のひと息目を喫って口を開く。

「香ちゃん。俺にどうせい言うの」

 女はついていた肘をテーブルから離して背筋をのばした。

「森田さん。ウチが秘密にして育ててきたんやから、ホンマは貴方に迷惑かけられない。

だけど困ってるの。無理なお願いだけど、それは分かっとるけど救けて」

「どうしたらええの」

「認知はええねん。勝手なことしたのは私だから。だけど毎月お金がかかるんよ。私、東

京で事務の仕事とスーパーのパート行ってるけど、足りないの」

 森田さんは、長いままの煙草を切り新しいのに火をつける。

「毎月、ナンボ出したらエエ?」

 女は息を詰める。

「六万、否、五万でもいいわ」

 森田さんはまた煙草を切った。

「分かった。…六万だしてあげるわ」と言ってから手帳を出し、「これに、口座番号書い

て。毎月振り込んだげるから」

 佐江子がカウンターに走っていき、ペンをとってきて徳永香にわたした。

「それと、認知はするわ。僕にも責任があるから。せやけど、アンタと一緒ん、なること

は出来ぇへんで。僕も今、内縁の相手がおるから。……十一年か。そんだけ経ったら、何

もかも変わる。せやろ」

「うん、分かった」

 徳永香は筆を止めて森田さんの顔を見て肯いた。

「ああ、きついなァ、千田さん。俺、ギャラだけではやっていかれんなる」

「大丈夫ですよ。森田さん。他の店のステージも紹介してあげますから」

「そんなん無理。俺、今以上たたくの増やすの、しんどいわ。……ああ、それか、お運び

やらして」

 令子社長に経緯を話して、森田さんがウェイターもしたがっていると言ったら、

「そんな事は絶対駄目」

 と社長は言って、「他のメンバーには内緒に」と釘をさされて、「森田さんのギャラを

二倍にする」と聞かされた。

 令子社長は、異性としても森田さんのことが好きなのだろう。もう理屈を超えている。

 おれは賃貸アパートに住んでいる。食事は一週間に二度、米を炊いて自炊するが、殆ど

は外食かスーパーの惣菜だ。掃除はゴミをゴミ箱に入れることだけが殆どで、月に一度、

掃除機をかける程度。洗濯は週に二度コインランドリーに行く。洗濯機は持っていない。

店は不定期に月に四日休みがあって、他の日は昼十二時から深夜十二時までシェーカーを

振っている。岡村多恵とは自然に肉体関係になった。今で三年ほどつづいている。週一の

ペースで俺たちはホテルで性交する。趣味は海釣りだが、休みの日に釣りに行くほどの元

気がない。読書も趣味だ。犀川裕一郎の館ものミステリーが好きで、犀川氏の本は殆ど読

破した。もう一つの好きなジャンルが文学で、多くの作家の本を一、二冊ずつ位、読んで

いる。小岩章吉さんも、エンターテインメントも書くが殆どの作品は文学だ。私小説では

ないが一癖ある彼の性格が作品に滲みでている。作家が店に来て飲んでいると妙なものだ。

小岩さん、店では寡黙だが、作品から推察すると相当介兵衛で易努的で妙に脆い。

 今年四十九の男の生活にしては、世間一般からはかけ離れている。

 森田彦一さんの生活はもっと妙だ。仕事は大体、昼の十二時ちょっと前にはいる。丸山

トリオとドランカー・クインテットを掛け持ちしてるのは彼だけなので、基本的に店に出

づっぱりだ。丸山トリオの丸山さんと久米島以外のバンドマンは全員、別の生業をもって

いる。工場勤めだったり、楽器店でインストラクターをしていたり、コンビニでアルバイ

トしていたりだ。丸山さんは持ち家を売った金と国民年金が別にある。もう六十六だから

引退隠居の歳だ。ピアノの腕はまだまだ鈍っていない。森田さんは毎日、二回のステージ

をこなす。ワンステージ、大体、四十分だ。よくドラムは体力勝負だろうと世間一般は言

うが、そうでもないらしい。森田さんによるとプロレスと少林寺拳法のような違いらしい。

コツを分かって叩くのとがむしゃらに叩くのとの違いだ。森田さんはステージが終わるま

で酒を口にしない。徹夜明けの日に飲みながら演奏されたことがあったが、まったく崩れ

なかった。森田さんは初めは令子社長の用意したアパートに住んでいたのだが、今は池沢

瑞樹のマンションに転がりこんでいる。料理は上手らしいが今はまったくせず、毎日、瑞

樹の手料理を食っている。ギャラは二倍になることになったが、現在までは一日、五千円

だ。令子社長が最初、一日一万円の話しを出したが、現実には履行されなかった。他のバ

ンドマンはトータル十三日店に出て、十三日分のギャラをその都度に分けて受けとる。一

日にツーステージやっても倍はもらえない。六万五千円にしかならない訳だ。森田さんだ

けが出づっぱりで二十五日でる。それでも十二万五千円にしかならない。アパート代は社

長全額負担で店で酒はいくらでも只で飲んでいい、という特典が森田さんには与えられて

いたが、月に十二万五千円では外食と雑費を引けば贅沢は出来ない。森田さんは瑞樹に小

遣いをもらっているらしい。現場を見た吉田とし子から又聞きした。セックスが凄く好い

らしいのだ。それで瑞樹は自発的にお金をやっている。不特定の相手からセックスのお礼

として金を受けとったら売春だが、知己のお互いでは売春ではない。池沢瑞樹は森田さん

と付き合うようになって格段に色っぽくなった。いつも瞳がとろんとしている。森田さん

の趣味はテニスらしいが今の生活ではそれを愉しむこともないようだ。酒が趣味になって

いるようにおれには思える。いつも、第二ステージが終わると、ビールを浴びるように飲

む。大壜にして六本は空けている。ウィルス肝炎キャリアなのに、大丈夫なのだろうか。

読書もするらしい。小岩さんとパウロ・コエーリョの『11分間』の話しをしていたら混

ざってきたので驚いた。彼の場合は、大量に飲んでいても本が読めるらしい。

 変テコな人だ。

 多恵がピアノの横で歌う。

 九月十八日。今日は店は休みだった。

 丸山さんに頼んで稽古をつけてもらうことになったと言うので、おれは玄関を開けつき

合った。

 丸山光一さん以外に誰も来ていない。森田さんは今頃、池沢瑞樹の胸に顔をあてて寝て

いるだろう。午前十一時をまわった処だ。

「ちがうちがう、ちがう。また下がった!」

 丸山さんが伴奏を止めて注意する。

 ーーーsumer time

「サー、マ。そのマが既に下がってる。それからターーイム、のタの音も下がってる。こ

の曲はリップスラーみたいに高低、ずっと跳ぶから、なめとったらアカンよ」

 また歌いだして、またすぐ止められる。

 同じ事を言われる。

 多恵は半分泣きそうだ。

 おれの予想どおり、多恵の歌唱には直すところが多々あった。丸山さんも今までは、そ

れを分かりながら目を瞑ってきたという事か。

 玄関ドアのカウベルが鳴って中野久作がはいってきた。珍しくブレザー姿だ。トロンボ

ーンのケースを提げている。

「なんか、店あいとるなァ、思て」

 中野は、おれの居るテーブル近くにケースを降ろして、

「何? 練習?」

 と、遠い丸山さんを見ながらおれに訊いた。

「そう。お前、今日、仕事は」

「風邪ひいたって嘘ついて休んじゃった」

 中野はそう言って舌を出す。

 中野は今はコンビニに勤めている。

「ちがうちがう」と言われて、多恵は何度も伴奏を止められている。

「大変そうやね」

「ああ。多恵ちゃんは音程が甘いんや」

 と、おれは返した。

「そんな事、分かっとったけど、そこまで厳密にしなくてもいいと思うけど。僕は」

 中野はそう言いながらトロンボーンを組みたてる。

「どうして、トロンボーン」

「ああ、これ。たまに吹きたくなる」

「ボーンなんか吹いたら、ペットの高い音でんなんのちゃう?」

「ええね、ええね。それこそ、そこまで厳密にこだわらんでも」

「可笑しな奴。客の前で恥かいても知らんぞ」

「恥なんか掻きませんよ」

 と、おどけた調子で中野は返した。

 トロンボーンを持って、中野は丸山さんのピアノに寄っていった。二人でしばし話して

いたが、しばらくするとピアノの伴奏で中野が吹きはじめた。

『Sumer time』だ。

 相変わらず中野の音は柔らかい。

 成程、タンギングをせずに次の音に跳ぶ訳か。

 夏も終わった。

 まぼろしの夏。幸福な暮らし。

 自分の出生の秘密を知らずに継母の胸に抱かれる主人公。

 多恵はテーブル席について二人の演奏を見ている。楽譜を書いたノートをテーブルに置

いて中野の旋律を聴いて目で追っている。

 中野の音程はしっかりしている。だが、音質は以前よりすこし粗い。最近トランペット

ばかり吹いているからだろう。

「休憩しよう」

 演奏が終わると丸山さんが中野にそう言った。

 多恵も含めて、カウンターに近いテーブル席についた。

 おれはステージの照明を切り、そのテーブル席の列の灯りを小さく点けた。全体的に暗

いなかにオレンジが薄く照らす。

 飲みますか、とおれが全体に訊くと、

「ああ」

 と丸山さんが答えたので、全員のまえにコップを置いてクラシックラガーを注いだ。

「一寸、下がっとるとこ、あったね」

 と丸山さんが中野に言う。

「ああ、分かってます。0の位置でも上がりきらへんから、どうしようもない。ペット吹

いてるから」

「そうやな」

「ええ? 今の下がってたんですか。どこですか」

 と、多恵は楽譜ノートを展げて丸山さんに見せながら言う。

「ここと、ここと、ここ」

 丸山さんは音符を指差しながら答える。

「自分で、はずれとると分かるのが、やっぱり中野やな」

 と、丸山さんは中野に向いて言う。

 おれは横から多恵の肩をかるく叩く。

「なあ、やっぱりプロはプロやろ?」

 多恵は譜面を胸に持っておれを見て肯く。

 二ヶ月がすぎ、冬のかかりになった。

 多恵は丸山さんの特訓を受けつづけ、ステージでもより真剣に歌うようになった。

 プロ・アマ混合のオリジナル・ミュージックのコンテストが神戸元町のハーバーランド

・モザイク広場で開かれるらしい。そういう情報を中野久作が仕入れてきた。

『丸山トリオ・ウイズ・岡村多恵』で店の演奏をやった夜、閉店間際になってドランカー

・クインテットのメンバーがはいってきて店を閉めた後、ホステス以外のスタッフと飲み

ながら話していたとき、中野がそれを切りだした。

「多恵ちゃん、出んか。優秀作にはプロモーションがつくらしいで」

 中野がそう言う。

「オリジナルやろ?」

 久米島さんが訊く。

「俺が書く」と中野。

「えー?」

 と、神堂だけが言った。

「一寸、待てや。ドランカーでやるのか。それとも丸山トリオでか」

 と、ドランカー・クインテット、ピアノの佐藤正吾。

「出たい奴でミックスにしてもたらエエ思とる」

 と中野。

「ジャズでいくのか?」

 と丸山さん。

「そう、多恵ちゃん、ジャズで認められな意味ないでしょ」

 と中野。

 多恵は成りゆきを静観しているが目が嬉しそうだ。

「お前が、ジャズのオリジナル書くの」

 と神堂。シニックに笑っている。

「書けんのこー?」

 と、田之上力も呆れたと言わんばかりに合いの手を入れる。

「私、出る」

 と、岡村多恵。

「いつ、あんの?」

 と久米島さん。

「来年八月十一日。日曜日」

「エントリーは」「予選は」と声が挙がる。

「知らん。未だ告知されてないし。神戸新聞社主催らしい。俺も知り合いの記者から聞い

たとこ」

 ふーん、と全員が言った。

 十二月になってラジオやTVでコンテストの告知をするようになった。

 ーーー第一回神戸オリジナル・ミュージックコンテストーーー

 TVは宝塚出身の美人女優が宣伝した。

「あなたの曲を、みんなが聴きたがっていますよ」と爽やかな笑みで言った。

 ラジオは関西のFM局とAM局、それにNHKーFMでも告知した。

 最初NHKーFMは神戸放送局だけがローカルネットで流していたが、最初のCM放送

発信から一週間と経たない内に全国ネットになった。

 TVCFでもすぐ有名なコピーライターと元宝塚女優のペアのバージョンになり、全国

告知になった。

 エントリーは一月末まで。全国を六つに分けた地区予選会があり四月中旬にはそれぞれ

の地区代表が決まるとのことだ。

 スポンサーは大手の大黒自動車と生島電機産業。それに環境事業で近年躍進してきたテ

ック・ワン。音楽レーベルのユーロ・フロンティアも名を連ねている。

 決戦日当日には他の音楽制作会社も版権競争の為に来るらしい。

 おれも含めて皆は、そんな事だけに没頭している訳にもいかなかった。毎日の店の営業

がある。酔客の機嫌をとって金を得る。

 今日も困った客が長居して一寸した騒ぎだった。

 基本的にウチの店はお触りも構わないのだが、服の上から執拗に本格的に胸を揉みつづ

ける客だったので、ホステスたちは短時間で交替を繰り返した。

「もう、千田さん何とかして」と、松本若菜や池沢瑞樹がカウンターに来た。

 森田さんは演奏しながら池沢瑞樹が客に執拗に乳を揉まれる処を見ていた訳だが、いつ

ものように、エロチックに笑っていた。

 珍しくステージの合間に水割りを飲みに来たので、「あれは嫌でしょ」とおれは訊いた

が、森田さんは、「ええんですよ。減る訳じゃなし。***に精液入れられたら怒ります

けどね。楽しんでもろたら、それでええんです」と言っていた。

 結局、客は三時間居たが、佐江子が六万八千円をぶん取った。

 客は持ちあわせが足りないらしくカードで支払って、「また来ます」と言って帰った。

顔がひきつっていたが。

 ウチの店はクレジットカードの信用照会システムを導入しているので取り零しはない。

 クリスマス前頃、店が休みの前日にドランカー・クインテットの一部のメンバーと丸山

トリオと岡村多恵が残って酒を飲んだ。おれと佐江子と池沢瑞樹も混ざった。

 第一回神戸オリジナル・ミュージックコンテストには丸山トリオの全員と佐藤正吾と中

野久作が出ることになった。第一回神戸オリジナル・ミュージックコンテストは、巷では

省略されてKOM(コム)と呼ばれている。神堂は参加しないと自ら言って今日は出てき

ていない。田之上力は逆に参加したくてしょうがない素振りだったが、久米島和夫さんも

田之上力もベースしか出来ないので田之上には辞退してもらった。

 中野は気を遣って、田之上に会合も練習も交ざってもらって構わないと伝えた。

「じゃあ、アシストいう事で」

 田之上が一番いきいきとしている。

 中野が全員に譜面を配った。

「早いなァ、もう出来たん」

 と、田之上が久米島さんのベース譜を見入る。

「実は、前に話した段階で、もう出来とってん」

 と中野。

 フォウビートで四分音符70のスピードの英語の曲だ。

 おれは単語は読めても文章になるとてんで分からないが、中野の説明によると、次のよ

うな意味の歌だった。

 貴方に会ってしまった事を

 私は とても後悔している

 だって 貴方は あの人と

 瓜二つなんだもの

 思いだす あの夏の日

 いとしいあの人は 優しい人だった

 いとしいあの人とは 夢のような季節を過ごした

 でも地球が あの人を奪ってしまった

 寒い冬がはじまるというのに

 この気持ち どうしてくれるのよ

 貴方に会ってしまった事を

 私は とても後悔している

 だって 貴方は とても

 優しいんですもの

 どうする事も出来ないのに

 好きになってしまう

 思いだす あの夏の日

 いとしい あの人は 優しい人だった

 いとしい あの人とは夢のような季節を過ごした

 でも神様が あの人を奪ってしまった

 私が この店に 来なければよかったのよ

 ああ ウエスト・ムーン

 私を引き裂いた ウエスト・ムーン

「これは恋愛の歌か」

 佐藤正吾が言う。

 佐藤は文学部卒だから読む分には英語がわかるようだ。

「好きになった人に奥さんが居て諦めなきゃならない、という悲恋の歌」

「そんなん諦めんでもエエやん。一、二回お手合わせしてもろたら」

 と田之上力。

「そういう訳にもいかんだろう。お前はナンセンスやなァ」

 と、久米島さんが田之上を抑える。

「いやー、ホナ、もっとバックボーンを説明するわ」と中野は言って自分用の譜面に目を

落としながらつづけた。「仲のいい新婚夫婦が居て、蜜月のときを過ごしていた。ところ

が突然起こった災害によって夫は先だってしまった。何年か後に、女は仕事帰りにか、飲

み屋に寄った。すると、そこには生前の主人に、そっくりの男が働いていた。しかし、男

には家庭があった。それでも、あの人を思い出してタブッて好きでしょうがない。優しい

男。そんなに優しくしないでよ。ああ、私が、この店にさえ来なければ」

 しばらく誰も黙っていた。

「くうー、泣けるなァ」

 と言った田之上の頭を久米島さんが軽く叩く。

「災害って、地震の事か」

 と丸山さん。

「そうです」

 と中野。

「あの地震の事は表さん方がええかも、と思うな。そっとしといてあげるのが」

 と丸山さん。

「直接表現じゃないみたいですよ。訳したら地球とも地震ともとれるし、神戸っていう地

名は出てきませんし」

 と、佐藤が言った。

「その店の名が、ウエスト・ムーンか」

 と、久米島さん。

「ふーん。よう考えたな中野。お前すごいわ」

 と丸山さんが顎を上下させながら言う。

「一寸、弾いてみよか」

 と、丸山さんがステージのアップライトピアノまで行き探りながら演りはじめた。

 森田さんが膝のうえで掌を擦ってビートを確かめている。職人肌な人だ。こうしてわい

わい語り合っていても、ウエットな話題になると深い処までの論戦はしない。かといって

決してシニカルではないが。

 中野は総譜を見ながらときどき岡村多恵の表情を見遣る。一体この剽軽などちらかとい

うと不器用そうに見える冴えない男の何処に、こんな才能が隠れているのだろう。全パー

トのそれぞれの譜を起こすなんて、とてつもなく難しい事におれには思えるのだが。今回、

神堂留壱は参加しないことになったが、あの時点で曲が出来ていたということは、アルト

サックスかソプラノサックス用の譜面も書いたのだろう。アルトはEフラット管で、ソプ

ラノはBフラット管だ。それをト音記号で表す時は、当然、ピアノ等のC主音の譜面とは

主音の位置がずれてくる。考えただけでも頭のややこしくなる作業だ。それに、和音はギ

ターで探っていくとしても、ベースの音の動きは一体どうやって決めていくのだろうか。

 曲は最初、哀しげな旋律ではじまって滔々と二番までつづいた後、転調してさらに哀し

くなって『ウエスト・ムーン』と歌う辺りでは収斂されて胸に詰まった。

 中野は多恵に気があるのだろうか。おれは、ふと、そんな事を思った。

 おれがそう考えているとき、ステージの丸山さんから目を離してグラスに視線を戻しか

けると、森田さんと目が合った。含み笑いをしている。

 おれと多恵がつき合っている事は、森田さんしか知らない。

 曲が終わって丸山さんが戻り、皆で飲んだ。

 次の休みにここで録音しようということになった。

 デモテープも何もない。有るのはそれぞれのパート譜だけだ。ドランカー・クインテッ

トも丸山トリオも岡村多恵も皆プロだ。個人練習だけして数回調整を全体でやると、簡単

に一曲できあがってしまう。

「おい、多恵ちゃんに、英語の発音、教えてやってくれないか」

 中野が佐藤の肩をたたいてそう言った。

「えー? 発音は多恵ちゃんの方が上でしょ」

 佐藤は苦笑した。

 クリスマスになったが当然、店は書き入れ時で恋人と二人で夜を楽しむよりも俺たちは

もてなす方だ。

 多恵がステージで歌っている。一曲が終わって丸山トリオだけのインストゥルメンタル

の曲に変わりステージの上手の方に待機する。誰も居ない壁に向かって口を動かしている。

『ウエスト・ムーン』のイメージトレーニングをしているのだ。

 二十六日に店が休みだったのでコンテストに出るメンバーが集まって録音をした。

「ホントは、スタジオで録った方が、ええんでないのかい」

 田之上が中野の録音機材の使い方を教わりながら中野にそう言った。

「デッドになるか、ライブになるかだけの違いや」

 と中野が返す。

「何、それ」

 と田之上。

「お前、そんな事も知らんのかい」

 と、デッキに一番近い位置に居た佐藤正吾がシンセサイザーの音を弱く出しながら田之

上におどけて言う。

「悪い悪い、分かりにくいなァ。DATだから音質の劣化はあれへん。ミキサーも24チ

ャンネルやから充分や。……つまり、後は残響の程度が違うだけいうこと」

「余計、分からへん」

「お前は、分からんでもええ」

 と、佐藤が笑いながら言った。

 おれも、マイクのセッティングを手伝う。

 バスドラムの穴に一個。スネアとハイハットの中間辺りに一本。左右のシンバルのすぐ

上にタムタムの方向を向けて一本ずつ。佐藤のシンセにはラインアウト端子からミキサー

まで直結。丸山さんのピアノは蓋を開いて一本。久米島さんのウッドベースには本体マイ

ク。中野のエレキギターはギター・アンプの前に一本。そして、岡村多恵にはボーカル・

アンプの前に一本。

「ホーンなしか。淋しくないか」

 と、田之上。

「そうよ。それで、佐藤にかかっとる」

 と中野。

「アンタのギターもな」

 と佐藤。

 中野は録音機材の他に新しい黒い箱形の機材を持ってきていた。

 アンプとは別においてギターに繋いで弄くっている。赤いデジタルの数字が六段ならん

でいて数値が目まぐるしく変化している。

「それ、凄いなァ」

 と、おれは言った。

 中野は摘みをまわしたりレバーを切り替えたりしながら弱い音を出していく。

「エフェクターの一括版ですよ。あの足で踏んでた奴。イコライザー、ディレー、コーラ

ス、ワウワウ、ディストーション、リバーブ、エコーが、これ一台でいけますねん」

 中野は田之上にヘッドホンを渡して肯く。

「ドラム、音ください」

 と田之上が言う。

 森田さんがフォウビートにスネア、タムタム、サイドシンバルを混ぜて叩く。

「一寸、代わって」

 と言って中野がヘッドホンを田之上から取り、かぶる。手を二回たたいて全員を惹きつ

けて、

「ミキシング調整したいんで一曲全体でお願いします。えっと、『My Funny Valentine』で。

丸山さん」

 丸山さんは深く肯いてコードとメロディーを弾きはじめた。森田さんがブラシでそれに

乗る。

「森田さん、スティックで下さい」

 と中野が言う。

 輪郭のはっきりした音に変わる。

 ベースとシンセもはいった。佐藤はどう弾いていいか分からず単音を一小節ずつ伸ばし

ている。

 多恵の声が出た。

 ーーーマ~イ、ファニー、バァレンターイン……

「多恵ちゃん、マックスで」

 中野が求める。

 多恵の声が大きくなる。

 田之上に代わってもらって中野はカッティングをはじめた。

 一番が終わった処で田之上が中野に向いてオーケーサインを出した。

「はい、はい、はい。皆さん、それでいいです」

 手を叩いて演奏を止めて中野が言う。

「今から録りますんで、ボリューム固定でお願いします」

 中野はDATレコーダーをオンにした。

「丸山さんから?」

 と森田さん。

「否、ドラムのカウントから行こう」

 と丸山さんが返す。

「じゃあ、行きまーす」

 森田さんがそう言うと全員が息を詰めた。

 トップシンバルへのワイヤーブラシの尻のレガートの後、全員が一斉にはいった。

 久米島さんの付点のフォウビート。

 中野のスウィングする裏打ちのカッティング。

 佐藤の二音コードの長音の上に丸山さんの流れるような郷愁のイントロが載る。森田さ

んは左手で四分を伸ばし、右手でツァ・ツァッカとシャッフルを刻む。バスドラムは二分

音符で伸ばしている。

 多恵の歌がはいった。

 貴方に会ってしまった事を

 私は とても後悔している

 だって 貴方は あの人と

 瓜二つなんだもの

 思いだす あの夏の日

 いとしいあの人は 優しい人だった

 いとしいあの人とは 夢のような季節を過ごした

 でも地球が あの人を奪ってしまった

 寒い冬がはじまるというのに

 この気持ち どうしてくれるのよ

 貴方に会ってしまった事を

 私は とても後悔している

 だって 貴方は とても

 優しいんですもの

 どうする事も出来ないのに

 好きになってしまう

 ギターソロがあって、4バスを二回やってドラム・ソロがあり、二小節の決めのシンコ

ペイションを全体でやった後、歌の最後のサビにはいる。

 おれはバンドとは少し離れた位置のテーブルで煙草を喫いながら聴いていた。

 何とも切ない曲だ。特に『ウエスト・ムーン』と歌うサビの処は独特のグリッサンドで

悲しい気持ちになる。もう、どうにもならないという前へも後ろへも動けなくなった大人

の緊迫を感じる。

 曲が終わって森田さんがシンバルの残響をそれぞれの手で止めた後、二秒ほどして、中

野が「オッケーです」と言った。

 肩の力が抜けた溜め息が何人かから出た。おれはテーブルから拍手した。

「好かった?」

 と、多恵がこちらを見ながら言う。

 中野はDATのテープを巻き戻して小型スピーカーで再生した。

 音が割れていた。

「お前は」

 と中野は言って田之上の頭を軽く叩く。

 ギターのボリュームが勝ってしまっているのだ。

「もう一回やりますから」

 と中野は言い、

「千田さん」

 と、おれを呼んだ。

「全体で頭から下さい。それと、森田さん、初めからスティックにしましょう。千田さん、

バランスとってもらえます?」

 おれはヘッドホンを被った。

 音を聴きながら、まずギターを絞る。ドラムの四本も、さっきの八十パーセントくらい

に絞る。多恵の『ウエスト・ムーン』の辺りで割れない程度にボーカルも調整した。

 中野に親指を立ててオーケーと伝えた。

 中野が演奏を止める。

「ホントは、モニタリングしながら微調整した方がいいんだろうけど」

 と、おれは中野に言った。

「ホントは、そうですけど……それ、かなり難しいですから」

 と中野は言った。田之上の方をちらっと見て再びおれの方を向いて笑う。

 おれは、田之上を連れてテーブルに戻った。

「返りがないから、これ、かぶるか?」

 と、中野が多恵にヘッドホンを差しだしている。

「それやったら、後でボーカルだけ載せたら」

 と佐藤がシンセの上の譜面から目を上げて言った。

「ホンマや。それ、気づかへんだ。俺も」

 と、久米島さん。

 全員がわさわさ言いあって、多恵が俺たちのテーブルに下がってきた。

 中野のギターはいい。4バスのまえのソロではコーラスを聴かせて中音で泣きを入れる。

 曲を録りおわったのでメンバーが楽器を置いたままテーブルに下がってきた。

 中野が多恵に指示を与えて、全体の音を出しながら録音がはじまった。ヘッドホンをし

てマイクに向かって多恵は歌う。

 メンバーにはジンジャエールを出した。

 全員、剰り大きな声を出さないように気を遣っている。

 ワンテイク目が録りおわって、

「もっと、感情込めて。強弱も意識して」

 と、中野が指示をして、ツーテイク目の録音にはいった。

 中野はDATシステムとミキサーにかじりついている。ヘッドホンをして摘みを調整し

ている。

 KOMでどこまで行くだろう。多恵の夢を叶えてやりたいが。

 煙草を喫っている森田さんと目が合った。

 微笑している。

 同じことを考えているのかも知れない。

 こんなことに集中できる俺たちは恵まれているのかも知れない。バンドのメンバーでも、

丸山さん以外は皆、独身だ。離婚歴があるか、ずっと独身かだ。

 録音が終わって多恵もテーブルについて皆で酒を飲んだ。電車を使う者ばかりなので昼

間の酒も堪えない。

 おれが焼き蕎麦をつくり、欲しい者はそれを食った。

「ダウンロードするから」

 と、中野だけが機材の方へいった。

「CDーRで送るのか」

 と、佐藤がこちらから声をかける。

「否、MDやけど。……CDーRでもカセットテープでもええらしい」

 と、中野が遠くから返す。

 久米島さんがKOMのパンフレットを見ながら、

「どないやろうのう」

 と、おれに訊く。

「さあ、俺には分かりませんわ。森田さん、どう思てです?」

「まだ、予選の段階やから、他の奴の曲を偵察できる訳やないし」

 と森田さん。

「オリジナリティーは充分あるわ。それは僕、認める。心に迫るメロディーやし」

 と佐藤が言う。

「珍しいなァ。お前が中野、褒めるなんて」

 と、田之上。

「ああ、ホンマの事は認めるよ。僕は」

 と佐藤がむすっと返す。

「今、KOMの話題で持ち切りやなァ。インターネットも、TVも」

 と、久米島さん。

「こういうムーブメントは珍しいですよね。プロ・アマ混合の無ジャンルのオリコンなん

て」

 と佐藤。

「これで、ひょっとしてくれたら、アンタ、凄い事になるやろな」

 と、丸山さんが多恵の肩を叩いた。

「私、頑張ります。駄目だっても皆さん許して下さいね」

「誰も多恵ちゃんを責めますかいな。全ては、あの男の企画なんやから」

 と、田之上が言った。

「中野、多恵ちゃんに気が有んのとちゃうかなァ」

 と、久米島さん。

「俺も、そう思う」

 と、田之上。

 中野は真剣に機材を弄くっていた。

 森田さんがおれの顔を見て、にやりと笑った。

 多恵はグラスに視線を落としていた。

 中野が全員のまえでMDとエントリー用書類をエクスパックに入れた。

 おれが郵送しておく事になって散会となった。

 正月も営業した。書き入れ時だ。

 あの曲は店でもときどき演った。丸山トリオでもドランカー・クインテットでも多恵は

『ウエスト・ムーン』を唱った。

 客たちは女の乳を揉み、おれはシェーカーを振る。藤川俊は酒を運び、柳本良一は焼き

蕎麦を焼く。森田さんは今日もエロチックに笑いながらドラムを叩いている。久米島さん

が強く弦を弾き、丸山さんがその上にメロディーを載せる。多恵が歌う。客たちは女を触

りながらも、しっかり曲を聴いている。

 吉川先生と小岩章吉がカウンターで議論する。

 天井に近い窓に下弦の月が嵌っている。

 二月になって中野がテープ審査を通ったという吉報を持ってきた。

 三月に近畿ブロックの地区大会がある。

 全国で三百九バンドのエントリーがあったそうだ。

 近畿地区では七十四バンドのエントリーがあり、十二バンドがテープ審査で残った。

 中野が送られてきた近畿大会のパンフレットを見せてくれた。ウチの店のバンドは岡村

多恵ウイズ丸山バンドとなっている。メンバーの名前も載っている。おれはパンフレット

を見ていて知った名前を見つけた。エレプターズというバンドのメンバーのなかに、前島

直人の名前があったのだ。

 或る日、酒を配達に来た前島直人に訊いた。

「君も、KOM出るのか」

 寒い時期だが肉体労働で温まった体に汗が浮いている。前島は首にかけたタオルで汗を

拭う。

「君もって、誰か知り合いでも出られるんですか」

「ああ、ウチの店のバンドが複合メンバーで出る」

 近畿大会当日は店は営業日だった。

 令子社長は丸山バンドのメンバーが休むのを了解してくれた。おれも特別に応援にいく

のを許してくれた。近畿大会は、全国大会と同じくハーバーランドである。

 二月の末になって小岩章吉の新刊が出た。

 おれは書店で買った。

 小岩さんの小説は変わってしまっていた。前のような磊落さがない。それどころかスト

ーリーらしいストーリーさえない。

 一言でいうと、希死念慮の塊だった。

 最後まで読んだが喉がつかえて胸がわるくなった。考えてはいけない事を考えぬいて気

が滅入ってしまう傾向にさせる内容だった。

 小岩さんは死ぬのではないか。

 おれはそう思った。

 カウンターに座った小岩さんは、いつものように山崎を飲んでいる。

 演奏の合間に出てきた森田さんが小岩さんの居るのを見て気を喰らったように一瞬止ま

る。

 おれは小岩さんに話しかける。

「あの小説」

 小岩さんは虚無的な涼しい目で水割りを飲む。

「ああ、あれ」

「あの後、どうなるんですか」

 酒の所為で睡眠が途切れた深夜、主人公の作家は酔ったままワーゲン・ビートルに乗り

込む。着いた先は、静かな池。

 そこで話しは唐突に終わっている。

「さあ、俺にも分からん」

 小岩さんは左の額に手をあてて肘をついたままテーブルの手前の虚空を見ている。

 小説は冒頭から主人公が自殺の方法について延々と考える。

 おれは彼を諫めることもできない。

 ーーーそんな事は考えてないよーーー

 そう答えられて、話しが終わるだけだろう。

 丸山トリオがやり出した。

 こんな時に、何で『ジャンゴ』をやるのだろう。

「もうじき、暖かくなりますよ」

 おれは橋をかける。

「そこまで、待てなかったりして」

「え!?」

「何でもないよ。千田さん」

 小岩章吉はおれが入れた水割りをぐいと呷った。

 当日は小雨がふっていた。

 モザイク広場にステージが組まれていた。

 KOMは宣伝が多かったので、人でごった返している。

 丸山バンドは籤で一番をひき、最初に演奏した。充分な仕上がりだった。多恵の声もよ

く伸びた。

 歩行者も立ち止まった。

 水を敲ったように静まりかえった後、大きな拍手が起こった。

 流石の強豪揃いだった。

 カントリー・ロック、ラテン、ポップス、男性ボーカル、ラップ・ミュージック等。

 様々な音がビル群に木霊する。

 取りが、前島のバンドだった。

 フュージョンだった。

 どこまでもつづく地平線を走るようにリードギターが流れる。

 エレキベースと前島のドラムががっちりと組んでタイトに16ビートを決めていた。

「やっぱり、あいつはあかんな」

 森田さんがそう言った。

 音の伸びない叩き方のことを言っているのだと分かったが、全部アンプを通した打音な

ので気持ちよくリバーブが効いていた。

 全バンドの演奏が終わった後、審査員協議で一時間待たされた。

 ーーー優秀賞、『岡村多恵ウイズ丸山バンド』。

 ーーー最優秀賞、『ザ・エレプターズ』

 ーーーよって、近畿地区代表は、『ザ・エレプターズ』に決定しました。

 前島のバンドだった。

 俺たちは機材を積んで三台の車で帰った。

 俺と多恵がピックアップトラックに乗り込んだ時、俺のケイタイが鳴った。

 小岩章吉の訃報だった。

 小岩はズボンと上着に石を詰め、池に沈んだ。

 いつもの暮らしに戻った。

 多恵はふっきれていた。

 数日後に店にレコード会社から電話があり、多恵の歌を生で聴いていたという担当は、

「是非、ウチでCD化したい」と言ってきたのだが、多恵はそれを断った。

 後でそれを聞いた中野は多恵につめ寄った。

「ホントに、それでいいのか」

「いいんです。私、この店で歌うだけで。それより中野さんの曲だから、未練があるなら、

ボーカル、私じゃなくてレコーディングする打診、されてもいいですよ」

「否、僕はいい。どうせ、曲よりアンタの声に惚れての電話やろ。それに、僕ももう、メ

ジャーになる気はない」

 それで済んでしまった。

 一番落ち込んでいたのはやはり中野だった。

 一方、小岩章吉の死でショックを受けたのは、吉川先生と佐藤正吾だった。

 吉川先生はひと回り小さくなってカウンターで飲んでいる。

 八月になって神戸オリジナル・ミュージック・コンテストの全国大会が同じくモザイク

広場で行われ、何と、前島のバンドが優勝した。

 舌うちする中野。

 森田さんがカウンターで言った。

「『後の者が先になり、先の者が後になるであろう』て預言してあるやないですか」

 聖書の言葉だ。

 多恵はおれに結婚を迫り、おれはついに覚悟を決めた。

 籍を入れ、内々でお披露目をやった。

 中野は酒の席で酷くおれにからんできた。

「そんな事やったら、何で、もっと早う言うてくれてないんですか」

 西の月はだんだん東よりに出るようになる。

 太陽に近い西の月はすぐには見えない。

 しっかり暮れないとその時は来ない。

「先生、その時は、いつ、来るのですか」

 目を覚ましていよう。その時まで。

 ウエスト・ムーンには、あらゆる享楽がある。

 神が赦された享楽。

 女たちは男を遊ばせ金をとる。

 決して高くない料金。

 ジャズがかかる。

 今夜もジャズがかかる。

 ドラマーが、トランペッターが。

 ベーシストが、ギタリストが。

 ピアノが流れる。

 作家もやってくる。

 愉しかった宴。

 今日はもうお仕舞い。

 また、明日。

 遊びに来てください。

 バーテンはニヒル。

 ちいママは優しい。

 旨い酒がある。

 とびきりの美女もいる。

 少しくらい揉んでもいいんですよ。

 トップシンバルが時間に喰い込んでゆく。

 スネアドラムが酔って歌う。

 タムタムがかけっこする。

 ハイハットがチー・チク言う。

 お喋りは楽しい。

 色んな人が来る。

 ここは、ウエスト・ムーン。

 駄目なのよ。駄目なのよ。

 そこまでしては駄目なのよ。

 お店以外で楽しんでね。

 恋愛も自由。

 オー、フリーダン!

 ここが噂のウエスト・ムーン。

 中野君は純情。

 森田さんは職人。

 だから、キャバレー・ウエスト・ムーン。

 いつでも来てね。

 ここは、キャバレー・ウエスト・ムーン。

 寒い冬も、暑い夏も、快適な空間。

 ここが、キャバレー・ウエスト・ムーン。

 神戸に生まれ、東京で長く暮らし、結局神戸に戻った。

 この店に来て二年が経った頃だった。

 営業の後、深酒をしたので店で眠った。

 前の日の昼、鴉が妙な啼き方をしたのを憶えている。

 どーんと突き上げられた。

 何度も突き飛ばされ、気がついた時にはルーレットの台の横に立っていた。

 店は辛うじて保ち堪えた。

 外へ出た。

 土埃が舞う。

 何重もの悲鳴が重なりあう。

 倒れたビル。

 一階のなくなった家屋の屋根が傾いたまま地面にへばりついている。

 頭から血を流した女の子がこちらに歩いてくる。

 少女を店に入れ、手当てしてやる。

 繋がらないケイタイ。

 令子社長の無事を確認したい。

 もう一度、外に出ると方々で煙が上がり、赫い炎も見える。

 飛び交う怒号。

「救けてくれー!」

 家々の下から、そう声がする。

 消防車のサイレン。

 救急車のサイレン。

 結局、命だけは救かった。

 実家の父母は亡くなった。

 隣家からの炎で、店は延焼した。

 ホステスも何人か自宅で亡くなった。

 他の者は、生活の為、神戸を離れた。

 地震の前から残っているのは、令子社長とおれだけだ。

 岩田組は炊き出しをやり、被災者に生活必需品を無償で配った。

 建て替えたとき、店の看板の文字のウエスト・ムーンというロゴを小さく目立たなくし

た。

 今日も十時に入店した。

 令子社長がタガを締めに出てくる。

 ピンクのスーツが格好いい。

 佐江子がミーティングをはじめる。

 池沢瑞樹が締まらない口許のまま、セッティングをしている森田さんを横目で見る。松

本若菜は思い出し笑いを殺している。今井満純や吉田とし子が、佐江子の伝令に真面目に

肯く。

 木村真治がテーブルを拭き、藤川俊が厨房の掃除をしている。

 おれはシェーカーを洗い、コップを拭き、洋酒の残量を確認する。

 柳本がターンテーブルに針を落とす。

 ーーー『A列車で行こう』ーーー

 今日も、キャバレー・ウエスト・ムーンが開店する。

 長谷川老人がはいってくる。

「ヨウ、千田くん。元気?」

                     (了)

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『キャバレー・ウエスト・ムーン』中 [自作原稿抜粋]

 注意! この作品は、18歳以上の読者を対象としています!

 カジュアル肩提げ組みも一眼レフ組みも、一人のリーダーが一席ぶちかけたようで、そ

いつの方を他の連中は凝視していた。

 女たちは奴らのテーブルではただのウェイトレスになってしまっていた。佐江子や今井

満純がときどきおれに視線を合わせてくるる。エロスに反応してくれないのが退屈なのだ

ろう。佐江子は、紫のキャミソールを着ている。今井満純は胸許の露出の大きい赤いドレ

スだ。

 おれのまえに小岩章吉と吉川がすわっているのだが、客が多すぎて声がとどかないので、

三人とも黙っている。小岩は山崎の水割りを呷る。吉川はステージを見ながらスコッチを

舐めている。

 中野はギターに持ちかえた。

 ドランカー・クインテットは日本のポップスのインストゥルメンタルのメドレーをやっ

て第一ステージを了えた。

 柳本がステレオ・コンポーネントでNHKーFMを流す。つのだひろのDJの声が流れ

る。その間に柳本はレコードを一枚選びセットしてから針を降ろした。

 ジョン・コルトレーンの落ちついたサキソフォンが流れる。

 シェーカーを振っていると柳本と目があった。

 頬をふくらませ、唇をすぼめて大きく息を吐いてみせる。

 客が多すぎる。

 はいってくるばかりで、出る客が居ないのだ。

 おれは、アルバイトの木村真治を呼んでカウンターの守をさせて玄関に行き、看板の灯

りを落として札をclosedにひっくりかえした。

 竹川を呼び、しばらく入ってこようとする客を丁重に断るように言うように言って黒の

ベスト姿のまま店の外に立たせた。

 バンドのメンバーは厨房とステージの間の裏廊下にへばってすわっていた。この店には

楽屋部屋がない。女たちが服を着替える部屋はあるが、バンドマンがそこにはいる訳には

いかない。

 おれはメンバーにジンジャエールの瓶を一本ずつわたした。

「マスター、アルコール」

「俺も」

 森田さんが言ったあと中野も言った。

 中野は空えずきをしている。

 佐藤、田之上、神堂は俯いて煙草を指にはさんでいる。一斗缶を切って水を張った灰皿

がメンバーの中心にある。

 カウンターのなかに戻り、サントリー・リザーブの水割りをつくる。

 煙草の煙があちこちで上がっている。

 天井が高く、煙は天井から少しずつ抜けるように設計されている。

 おれはカウンターの壁にある換気扇のスイッチを入れた。これだけ客が多いと時折速い

換気をしてやらなきゃならない。

 目くばせして柳本に厨房の吸気口の蓋を開けさせる。吸気口は地上の高さまで煙突のよ

うなパイプでつながっていて、店の玄関の足許辺りから空気を吸い込む仕組みになってい

る。

 暖房の効果が落ちるが、これだけ人がいれば五分や十分で冷えることもないだろう。

 ドランカー・クインテットの声が、カウンターのおれに聞こえてくる。

「ああ、昨日おそかったからエラいわぁ」

「そりゃ、そんな日もあるわな」

「森田さんは元気ですねェ」

「そうでもないよ」

「迎え酒で頑張れるんやもんなぁ」

「それに、ひきかえ、中野ー、大丈夫か」

「あぁ」

「お前、もう、今日、ボーンにしとったら。無理やで。音カスカスやん」

「あぁ」

「神堂さん、あと、サウナ行けへん?」

「やめとく」

「当たり前やろ、田之上。寝てないのにサウナなんか行ったら死ぬで」

「はいはい」

「何で、今日、こんな客多いんやろ」

「多いのはええけど、座るとこあれへんなぁ」

「あぁ」

 中野久作の相槌は弱々しく、だが低い声でエコーがかかっていた。

 小岩はガスライターで火をつけてセブンスターを喫う。背中をまるめているが身長が高

いせいか嵩が高い。焦げ茶のブレザー。煙草を持った左手の肘をカウンターについて、右

手で山崎の水割りを呷る。

 小岩のひとつ置いて右隣に吉川がいる。

 楽譜帳を見ながら生ハムとチーズを箸につまんで口に入れる。ときどきジョニー・ウォ

ーカーの水割りに手をのばす。

 これだけ混んでいるのに、小岩と吉川の間の一席は空席だ。ときどき吉川は小岩を盗み

見ている。小岩はまえを向いたまま酒を飲みつづける。顔の向きは変えないまま、ときど

き吉川を眼球だけ動かして盗み見ている。

 二人の視線がぶつかることもあるがお互い声をかけない。

 この喧騒では会話するのが邪魔くさいのかもしれない。

 女たちは客に水割りをつくってやったりしている。

 柳本は厨房でヤキソバを焼いている。

 木村はビールを運び、ときどき指名のかかったホステスに耳打ちしに行く。

 レコードが終わったのでおれはステレオ装置のまえに行き、松岡直也のアルバムに換え

た。

 混んでいるときはフュージョンをたまにかける。

 換気扇のスイッチを切り、おれはまた、シェーカーをふる。

 ブルー・ラグーン。真夏の酒だ。気の早い客だ。六番テーブルからこちらを見る池沢瑞

樹が微笑している。その隣には白いブレザーのなかに真っ赤なセーターを着た長谷川老人

が、背をのばして長い煙草を喫っている。長谷川老人は人に気兼ねするところがない。耳

許に残った白髪を剃ってスキンヘッドにしている。肩幅がひろく胸板も厚い上に腹がすこ

し出ている。歩くときは杖をつかうが足がわるい訳ではない。足をまえに投げだして歩く

ので素人でないことは一目瞭然だ。

 カメラ組の内、何人かは店内を撮っている。ステージの後ろとカウンターの横の壁にコ

ルクボードがかかっている。キャバレー・ウエスト・ムーンのオリジナルカレンダーと今

月と来月の休日を書いたチラシが貼ってある。ステージの後ろのコルクボードには堺とお

るさんとピーター・アースキンがドラムのまえで握手している写真がある。堺さんがまだ

現役だった頃、元町のヤマハでセミナーがあった。堺さんが個人的に出向いて、セミナー

のあと撮ってもらったと聞いている。二メートル×二メートルほどの大きな写真だ。

 手提げ鞄の二組が帰っていった。

 おれは竹川を呼び戻し、看板の灯りを点け、札を元へかえした。

 厨房とカウンターに食器とグラスが大量にかえってくる。

 おれは、グラスを洗った。

 八時から第二ステージがはじまった。

『Confirmation』をやった。

 メンバー全員が険しい顔をしている。

 中野はトランペットだ。

 何で、疲れているときに意地になるのだろう。

 次に、『Birdland』をやった。

 客は誰も聴いていない。

 八割ほどの常連客たちが、女と喋ったり女の乳を揉んだりしている。

『Birdland』にしても『Confirmation』にしても音が高い上に音符がこまかい。

 中野はだんだん崩れてきた。音がすかすかだ。

 森田さんはしんどそうだがタイトに叩きつづける。リムショットとハーフ・オープンの

ハイハット、それにアタックの強いバスドラムが効いている。タイムキープは崩れない。

 中野の音が細くなってきたので、神堂がソプラノサックスでユニゾンで吹きだした。

 ドラムのフィルインからドラム・ソロになった。

 中野はメンバーに手を挙げて会釈した。肩の線がまるくなっている。中野はそのまま厨

房へつづく廊下に消えた。

 やれやれ、ほっと一息といったところだろう。

 森田さんは元気にソロをやった。

 ところどころオープン・リムショットと同時にサイドシンバルを叩いてアクセントを決

めた。

 客は喜んで酒を飲んでいる。

 女たちは客に手で触れる。

「どないなるかな」

 グラスを洗っているおれのまえで小岩さんが言った。

「えっ、何がですか」

 小岩さんは答えず、生ハムを噛んで山崎を呷っている。

 森田さんのソロが終わり、テーマのコード進行とソプラノ・サックスの裏メロディーに

はいった。

 あれ?

 中野が出てこない。

 コード進行は二巡目にはいる。

〈カツカツカツカツ〉

 森田さんの職人技のビート。

 おれは、水道で手をすすいでカウンター奥から裏廊下へ行った。

 中野は、トランペットを持ったまま壁にもたれてしゃがんでいる。

「おい、戻れよ」

 そう言いながらおれは中野の脇に手を入れて立たせる。

 中野はぼやけた顔で涎を垂らしている。

 おれは、中野の頬を軽く二回平手で打った。

「おい、仕事なんだからな。吹けんでもいいから吹く真似だけでもしてこい」

 四巡目のコード進行がはじまっている。

 主役を待つ森田さんのドラム。

〈カツカツカツカツ〉

 中野はようやくステージに向かった。

 殆ど音の出ない中野のトランペットを神堂のソプラノ・サックスがカバーしてなんとか

曲は終わった。

 いつのまにか吉川がステージにはいり、佐藤正吾と話していた。

 佐藤がマイクをとり、

「飛び入りゲストの吉川さんです」

 と紹介した。

 佐藤、田之上、神堂、中野がぞろぞろとステージから捌けた。

 森田さんがピアノの傍に寄り、少しの間、吉川と話していた。

 森田さんと吉川はデュオでやりはじめた。曲は『ジャンゴ』だった。

 佐藤、田之上、神堂がカウンターに座った。

 中野は廊下でへばっているらしい。

「お前ら、今日、相当疲れてるなぁ」

 小岩章吉が目の合った佐藤にそう言う。

 佐藤は無言で肯く。

「やっぱり、三十すぎたら徹夜はあかんな」

 おれが誰に言うとなく言った。

「徹夜? 森田さんは?」

 小岩がおれに訊く。

「あの人は、化け物…」

 佐藤の隣の田之上が小岩にそう言った。

 八月になった。

 二十歳になった竹川浩之が店を辞めることになった。

 お父さんの経営する会社で働きながら定時制高校の編入試験に臨むそうだ。

 定休日の翌日を臨時休業にして親睦会をやった。

 バンドとスタッフ、本條社長とホステス、それに岡村多恵、それから竹川の友人の浅見

という男が集った。

 いつかの徹夜雑談のようなことはやめておこうと誰もが思っていたので、昼間の会とな

った。

 午前十時にはじまった。

 始まってすぐ、前島直人がビールケースを十箱店に運び入れた。

「捕まらんと、よう頑張っとるなぁ」

 とおれが訊く。

「ああ、僕、免許は獲りましたよ」

 意外だった。

 神戸に住民登録をして、明石の試験場で一発で獲ってきたのだそうだ。

 元々、器用な男なのだろう。

 ホステスは半分くらいは来なかった。

 おれは令子社長と向き合って飲んだ。テーブル二つを寄せて皆がわいわいとやっている。

おれと令子社長だけが離れたテーブルで向かい合っている。

 令子社長とゆっくり向き合うということは今までなかなかなかった。いつも開店前後に

ちらと顔を見せるだけの人だった。

 大正時代に祖父がカフェをオープンした。父が受け継ぎ、戦争があり空襲があって一度

店は焼けてしまった。戦後、再建するときにキャバレーにした、と、令子社長は語った。

 昭和三十五年に、そのお父さまも亡くなられ、令子社長が社長としてそれまでのスタッ

フの上に立たれたそうだ。店にずっといる先代の社長だったので、あの人が居ないなら行

っても愉しくないと常連の半分は店を離れていったという。売り上げが伸びなくなって破

綻寸前にまでなったとき、この辺りを仕切る岩田組の親分に泣きついて資金援助を受けた

らしい。「お前に何が出来るんや」と言われて、借金しても返せるかどうかも分からない

し、無条件で金だけ出してもらうのも道理が通らないだろうと本人も初めから悩みぬいて

親分の盛山誠太郎のまえで全裸になって股をひらいて懇願したのだと言う。

 岩田組は岩田の姓を継いでヤクザをやっているが、昭和三十五年には岩田の血縁が八十

歳の岩田栄吉郎だけとなり、実質的な親分は若干二十五歳の盛山誠太郎になっていた。

 その盛山は、その後会社組織を創り今も現役の社長だ。盛山興業というその会社は、表

向きには三品相場の仲介をやって、裏ではこの界隈の店からみかじめを獲ったり、売春を

やったり、アダルトサイトの運営などをしている。

 この店の女が売春の駒に獲られないのは、令子社長が壁をつくっていてくれるからだ。

 粗利の十パーセントは盛山に吸いとられている。

 おれもちらと顔だけは見たことがある。寡黙そうな紳士だ。

 岩田組は今、偶然にも同姓の岩田が組長をやっている。

 岩田組や盛山が店に来ることは滅多にない。

「あんたは、どういう人か、いつまで経っても分からへん人やね」

 令子社長がおれに言う。

「おれの話しなんか聞いても、おもろないですよ」

 おれは四十九歳になっていた。

 大阪でのバーテン時代に、何人ともつき合った。孕ませた女もいる。おれは若かったか

ら認知はするが結婚はしないと逃げた。女は一人で育てると言っておれから離れていった。

女が子を産んでいるとすればもう三十ちかい歳になっている。それからは子供だけは創ら

ないように注意した。四十なかばを過ぎると女が欲しくてたまらないとは感じないように

なった。三十三の頃、良縁があった。それでもおれは結婚へは踏みきれなかった。おれに

は家庭を持つ良さが分からない。毎朝会社に行って顧客まわりをやって反吐が出るほど気

を遣って歩きまわる。家に帰れば毎日、同じ女がいる。ぎゃあぎゃあ泣く子の守をして夜

泣きされて眠れないまま次の朝も電車に乗る。子供の学費だ何だと金は吸いとられる。一

生に一度、一軒家を買うのが夢だと言う。その一軒家で働き盛りのときに成人病でぽっく

り逝ってしまう。人とは、何の為に生きていくのか。毎日毎日、同じ辛い仕事をする。趣

味にゴルフをはじめ、それは気を遣う接待にほとんど応用させられる。

 ここに居る連中は違う。そんな生き方をしたくない奴らが集っている。

 酒を出す仕事。おれの調合で客は悦ぶ。

 それに、音楽がある。

 一流になれなかったプレーヤーがここに居る。

 それでも、ドランカーにも丸山トリオにも、プロの意地がある。

 中野がステージに一人で立っている。

 ニニ・ロッソの『夜空のトランペット』を吹きだした。

 皆はそれぞれにテーブルで喋りあっているのだが、同時に中野の音を聴いている。佐江

子は水割りをつくりながら中野を見ている。池沢瑞樹は柳本と喋っているが、細い髪に隠

れた耳が動いている。その隆起が髪の平原を脈うたせている。

 そうか、君は大学生か、と、森田さんの声が聞こえている。竹川の友人の浅見と話して

いる。

 僕はロックしか興味ないんです、と、浅見が言う。ロックやろうか、と森田さんの声が

弾む。

 ドランカー・クインテットの連中がごそごそと動きだす。

 ボーカル、ボーカルしか出来ませんよ、と、浅見の甲高い声。

「貴方は今のままでいいの?」

 令子社長がおれに訊く。

「おれは、人間を見ているのが一番楽しいんですよ。シェーカーを振って、お客さんと喋

って。……この店には色んな人が来る。その人生、見せてもらって、オマケにお金ももら

えるんですから」

「森田さんとか」

「吉川先生とか小岩さんとか」

 令子社長は微笑した。

 令子社長はビールをすこし飲んでグラスを置き、テーブルにあった赤い手帳に顔を寄せ

て何かを書いた。

 中野の音が感傷的に聴こえる。

 森田さんがドラム椅子にすわり、田之上がエレキベースの帯を肩にまわしラインコード

のピンジャックをアンプに繋いで電源を入れる。どすっ、というアンプの起動音がする。

中野がストラトキャスターを提げてアンプの電源を入れる。佐藤正吾がピアノのまえに座

ってAの音を出す。田之上と中野が十二フレットのハーモニクスで音を合わせる。ギター

のひねくれた子の泣き声のような上がってゆくオープン弦の音が高い弦へと交替してゆ

く。田之上は隣り合う弦同士を五フレットと七フレットのハーモニクスで同時に響かせ糸

巻きを巻いてうねりを消してゆく。

 神堂がスタンドマイクを立て、浅見の背丈に合うように調整してやっている。

 小柄で痩せてはいるが肩幅と腰幅はある浅見は長髪で黒いTシャツにブルージーンズ

だ。手にはCDのライナーノーツを持っている。

 中野はエフェクターを踏んで、ジィーというノイズがはいってすぐカッティングをはじ

めた。

 どこかで聴いた曲だ。

 シャッフルしている。

 田之上が重たいリフを重ねた。同時に森田さんがはいる。

 忙しい曲だ。スピードが速い。サイドシンバルが多い。フィルインがあり曲がはじまる

と刻みがバスタムに換わった。

 少しすすむと、浅見が後ろを向いて両手を頭の上で振って曲を止めた。

「ちょっと、森田さん、遅うなってますよ。イントロ終わってから」

 と、浅見が言った。

「そうか。じゃあ、も一回。今度は意識して叩くわ」

 前奏がはじまる。併行してベースのリフがはいる。ドラムのサイドシンバルと十六分音

符のタムタムの踊り。

『Brown Sugar』だ。

 バスタムの刻みになっても浅見は歌わない。

 後ろを向いて両手を振ってまた止めた。

「遅いですよ」

「そうか」

 ホステスたちはいつもと違うジャンルの音楽に興味津々といった感じで飲みながらステ

ージを見ている。

 丸山さんは酒のグラスを置いて野球帽を深くかぶってステージとはずれた方向を見なが

ら長い洋モクを喫っている。

 バンドはもう一回、頭からやった。

 浅見が止めると、その科白より先に森田さんが喚いた。

「ええ加減、せえよ! このボンクラ! 俺のドラムは遅れてない。前乗りのまま突っこ

んどら! お前が遅れたように感じんのは、刻みが低音に切り替わるからじゃ! おい!

 餓鬼! アカペラで歌てみい!」

 店中が凍りついた。

 中野が補足する。

「森田さんの言うように、ちょっとも遅れてへんで。大体、初めからハイスピードでイン

トロやっとんのに、前乗りやからいうて、タイム・キープまで変える程、速うすんのか。

そんなもん音楽、なるか」

 田之上がさらに足す。

「大体、ボーカルしかでけぇへんねやろ? 楽器の一つもできん癖に、大きな口たたきや

がって。そのボーカルは、どっかで習たんか?」

 竹川が浅見の横に来て、

「済んません。許したって下さい」

 と頭を下げる。

 浅見はマイクスタンドに触れながら、がたがた震えている。

「伴奏なんか十年早いわ。アカペラで歌え。俺らに、どれ位の腕か見してみい」

 森田さんは圧力のかかった息で怒鳴った。

「済みません。だけど…僕は…」

 下を見たまま浅見は言おうとする。

「まだ、自分の感覚の方が正しいとか、思とんねんやろがい。自分のこと分かってから自

信は持て。独学ででも相当練習して頭うちまわって自分の力量が分かんねや。それもせん

と、俺らプロに偉そうな口利くな。ともかく歌てみい」

 森田さんはドラムのまえに立って腕を組んで言う。

「すんません。許したって下さい。僕からよう言うて聞かしますから」

 浅見の隣で竹川が助け舟をだす。

「あかんなぁ」

 森田さんはそう言ってつづける。

「浅見君は、歌に自信があんねんやろ? そいで俺らのこと貶しといて逃げるだけか。浅

見君、人まえで金とって歌う人が、たまたまその日、停電か何かでアンプが使えなくなっ

たとして、その人、フォークギターも弾けん歌専門の人やったら、今日は歌えません言う

て帰るか? ちゃうわなぁ、絶対、地声め一杯はりあげて歌うんとちゃうか。それがプロ

やろ? そのプロに、自分の方が偉いみたいに言うたんやから歌てもらわななぁ。カラオ

ケでバックの音と同なじぐらいの音量でしか歌われへんのは、ただの素人や。俺らなぁ、

田之上にしても俺にしても、他のパートなしでも人まえで三十分は演るで。ベースだけで

三十分やで。ドラムだけで三十分やで」

 浅見は、マイクを両手で包んで歌いだした。

 独り言をつぶやくような発音だった。

 テーブルではホステスたちが関係のない話しをはじめ、吉川と丸山さんは別の話しをは

じめている。

 ピアノの佐藤がボーカルアンプのスイッチをオフにした。

「聴こえへんぞ!」

 田之上がエレキベースを担いだまま言う。

 ーーースカド・オゥ・スラヴァノウズ、ヒズ・ドゥイ・オオルラァイ……

「蚊が鳴いとるのー、夏やから」

 森田さんが責める。

 ーーーブラウン・シュガー! ジャスゥ・ラァイ・ア・ヤンガーシュッ、ノウ! イェ

イ!

 浅見が自棄になって声を張りあげる。

 一番を歌いきって、ほっとした表情になった。

「ワンコーラスで終わりかい!」

 森田さんは容赦ない。

 浅見は、ライナーノーツを見て二番を歌いだす。

 サックス・パートの神堂はこちらには来ず、テーブルで独り、俯いて楽譜を見ながらウ

ィスキーを飲んでいる。

 佐藤正吾は状況は分かっていながら浅見をしごくのには参加しない。ピアノ椅子にすわ

ってアップライトピアノのパネルの方を向き、鍵蓋に手をかけている。

 浅見は全曲歌い終えた。

 目が潤んでいる。

「どないや」

 と、森田さんは田之上に訊く。

「三十点」

 笑いながら田之上は返した。

 済みませんでした、と、竹川が浅見の背中を撫でながら言う。

「分かった。もうええ。ちょっと、それ貸せ」

 と森田さんは浅見の手からライナーノーツをとり、

「あっち行って座って、ゆっくりせえ」

 と皆が居るテーブルを手で示して言った。

 浅見の背中でドラムのはいってない『Brown Sugar』のイントロが鳴った。

 中野が豪快にディストーションの効いた和音をかき鳴らす。

 田之上のベースがギターを担ぐ。

 森田さんが歌う。

 第一声を聞いただけでおれは肩から首筋がひやっとした。

 何という音圧。

 ダイナミックレンジが充分だ。

 ささくれだつ中野のディストーション。

 八分のスラーでせり上がってくる田之上のベース。

 中野と田之上が「ヘイ!」と地声で合いの手を入れる。中野も田之上もすがすがしく笑

っている。スタンドマイクに手を添えた森田さんも笑っている。エロチックな笑みだ。

 久米島と丸山さんがこちらのテーブルでサビに声を挙げる。

 おれも、つられて声を挙げる。

「ブラゥ・シュガー!」

「くっと締まる一発、やりたいねェ」

 テーブルに戻った森田さんはおれにそう言った。

「何をヨッてんですか、急に」

 と、おれは返す。

「俺もやりてー」

 と、久米島。

「僕も何年してないかなぁ」

 と丸山さん。

「何をヨッてんですか」

「あれ? 千田さん、知らんの?」

 と久米島。

「ブラウン・シュガーの意味は、黒人の***」

 と森田さん。

 おれは口の中のビールを噴きだしてしまった。

「ストーンズ、歌詞、滅茶エロ」

 と中野。

 池沢瑞樹が森田さんの横で頬っぺたをふくらましている。

 竹川が去って一週間がすぎた。

 休みの日に令子社長に呼びだされておれは、三ノ宮の喫茶店に行った。

 佐江子も社長に連れられて来ていた。

 店の経営状態がよくないという話しだった。

 毎月、おれと佐江子が帳簿はつけているが、赤字ということはない筈だった。令子社長

は打ちあけた。別の場所に二号店を出そうと思い株式相場に手を出した。配当を足して資

本金を膨らませて開店の軍資金にするつもりだったらしい。

 令子社長は、おれの知り合いで金を貸してくれる人はないだろうかと訊いたが、おれに

はそんな人脈はなかった。

 今は、とりあえず盛山誠太郎に金を工面してもらって穴埋めしていると言う。

「千田くん、それでね、盛山にお金を借りたんで岩田組の人達を店にフリーパスで入れる

って約束しちゃったのよ。それで、他のお客さんとトラブルにならないように千田くんに

上手く仕切って欲しいのよ。今日は、そのお願い」

 佐江子は心細そうに伏し目がちにおれを見る。

「分かりました」

 自動ドアが開く度に排ガスの混じった夏の熱気がはいってくる。

 アイスコーヒーの銅のカップが全身に汗をかいていた。

 次の日、いつものように店を開けた。

 炎天である。

 店のまえの坂には陽炎が立ちのぼっていた。

 長谷川老人が最初の客だった。

 今井満純が長谷川の横にすわって酌をしている。

 吉田とし子が化粧部屋のまえの廊下から立ったままその様子を見ている。一瞬口許が歪

んだのが分かった。

 他のホステスたちはカウンターに近いテーブルで談笑している。松本若菜の笑みには屈

託がない。話しの内容についてこれるという意味で、長谷川は今井満純を選んだのだろう。

 他に客が来ない。

 こんな日もある。

 三時ごろ雷が鳴った。

 電気を剰りつかわない方がよいので丸山トリオは第一ステージを休んだ。

 雨が降り、夕立になった。

 どしゃ降りの雨がつづいている最中、玄関の鈴がなって男が三人どかどかとはいってき

た。

 岩田組の岩田とその部下らしい二人だった。

「こちらへ、どうぞ」

 と、おれはカウンターから二つ離れたテーブル席へ招いた。

 佐江子と吉田とし子と山本淳子がつく。

 粗相があってはならない。

「令子から聞いとるか」

 岩田が濁った目で訊く。

 ピンクのソフト・スーツを脱ぎ、部下にわたす。太い二の腕、土管のような身体。長袖

のワイシャツの袖を金色のバンドで留めている。

 はい、とおれは答える。

 岩田は、部下が出した葉巻の端を鋏で切り銜える。自らガスライターで火をつける。

 子分たちは一言も喋らない。

「何を、お造りしましょうか」

 おれは柔らかい声で訊く。

「そうやの、アイスコーヒーもらおか」

 はい、承知しました、と言っておれはカウンターのなかに戻った。

 普段のメニューにないので従業員用の挽いてある豆を濾過器に入れて湯を入れる。ボウ

ルのなかに氷を入れアイスピックで砕いてゆく。

 長谷川老人のホステスをからかう陽気な声が聞こえている。その斜向かいの席に岩田た

ちは座っている。そちらからは何も聞こえてこない。岩田が葉巻の火をつけ直した後のガ

スライターの蓋が閉まる音だけが聞こえる。佐江子も吉田とし子も山本淳子もテーブルの

中心に向かって座り黙っている。

 三人分のアイスコーヒーにまかないで使う砂糖とミルクを添えてテーブルまで運んだ。

「賑やかなこっちゃな」

 岩田がそう言う。

 長谷川老人が甲高い声で笑っている。

「親分、静かにさせましょか」

 岩田の左にすわった部下がそう伺う。

「構へん。お客さんね、から」

 と、岩田は低い声で言った。

 岩田の右の男がジュラルミンケースをテーブルに置いて、岩田の方を向けて蓋を開けた。

「一寸、危いこと、なってきょっから、お前らも一つずつ持っとけ」

 黒い拳銃だった。

 岩田が弾を三人に振りわける。

 三人は、握り手のところから部品をはずし、弾丸を装填していく。かしゃりかしゃりと

音がする。佐江子たちは息を止めるように無言で見ている。

 岩田が他より早く二十発を装填したその時だった。

 雷の音に混じってはいたが数段大きな音で玄関の戸が蹴破られる音がし、ずぶ濡れのス

ーツ姿の男が階段をかけ降りてきた。

「岩田! 覚悟!」

 男がそう言ったのと同時に銃声。

 長谷川老人のテーブルの真上のシャンデリアが落ちた。

 岩田はすわったまま銃を撃った。

 ひーーい、というホステスの悲鳴。ううぅ、と池沢瑞樹が長く呻いている。

 男は膝を折り、口から血を吐いている。

 岩田が男の髪をつかむ。

「おい、どこの組や」

「フ・ジ・サ・ワ……」

 湧きあがる血を飲みながら男は言う。

 岩田の右に居た部下が岩田の傍によって、

「親分、俺、やりますわ」

 と言い、岩田の手から拳銃を受けとる。

「もっと、上手いことやらなの」

 岩田は男の目を見据えて言う。

 ごぼごぼと血を吐く音の唇が震えている。

 岩田が持ったままの頭を、子分がコメカミから撃ちぬいた。

「いやーーー!!」

 池沢瑞樹の声が店中に響いた。

「千田、済まんけど、警察、電話してくれ。中村が独りでやったことにしとっての。外山、

行くぞ」

 岩田は外山という部下と二挺の拳銃を持って店を出ていった。

 丸山トリオの面々は厨房の裏の廊下を出たステージのまえで固まっている。

 男の血溜まりをモップで拭おうとした木村真治を止めておれはカウンターの壁の店の電

話から神戸署に電話した。

「元町の、キャバレー・ウエスト・ムーンです。人が撃たれました。……ええ、店の中で

す。……撃った男も今います」

 長谷川老人には帰ってもらって急遽店を閉めた。

 中村という人が店に客として居て急にこの男の人がはいってきて、撃ちあいになって男

の人が死んだ、と皆で口裏を合わせた。

 現場検証に二時間ほどかかった。その後、おれと佐江子はパトカーに乗せられて神戸署

に調書作成に行った。

 店に帰ったのは八時すぎだった。

 柳本と藤川と木村と森田さんが残っていた。

「やっぱ、恐いねェ。神戸は」

 森田さんがテーブル席のおれの横で言う。

「これは、剥れませんわ」

 柳本が泡立ったモップで床を擦りながら言う。

 令子社長に、床の張り替えか絨毯を敷くかを打診してみよう。

「柳本、それに森田さんにも言うとくわ。一寸、店、当分訳ありで岩田組の人が出入りす

るから、粗相のないように。それに、今回のようなことに巻き込まれんように、な、自分

で注意してな」

 おれは、そう言った後、何だか脱力した。

「森田さん。飲もか」

「ああ、そうですね。考えてもしゃあないもんね」

「他のもんは、今日は帰れ。明日も十時からな」

 玄関のガラスが破れているので街の喧騒がはいってくる。

「えらい事やったですね」

 フォアローゼスのソーダ割りをつくる。

 辛い酒が飲みたかった。

「森田さんは、池沢と上手くいってんの」

「あはっ、バレてたか」

 森田さんは白いものの交じった癖毛を手で梳く。

「僕はねェ、千田さん。今が一番楽しいねや。毎日、ドラムたたいてギャラもろて、帰っ

たら瑞樹が居って、セックスしまくって。次の日もドラムたたく。酒も飲む。紐みたいな

もんかも知れんけど、僕には性に合うとる」

 遠くの船の霧笛が聞こえる。

「まあ、俺も似たようなもんですわ」

 森田さんはハイピッチで呷る。

 おれは、ストレートにして何も入れずに舐める。

 単身の生活。自分のぜんまいの力で生きて、いつかは力尽きて倒れ込んでくたばる。だ

が、それでいい。自分の血を遺すということもない。だが、それでいい。

「千田さん、多恵ちゃんと付き合ってるでしょ」

 破れたドアからタクシーのホーンが聞こえる。

「ああ、それも、バレバレか。オアイコですね」

 玄関先を談笑しながら歩くカップルの声がはいってくる。

「セックスが到達点じゃないけどね」

「それは、俺も」

「千田さんて、謎の人ですよねェ」

「そうですか」

「森田さん、今まで結婚は」

 一回だけあった、と森田さんは語る。

 三十半ばに、実家のある中江市に戻っていたとき、縁談があり結婚した。結婚生活わず

か七ヶ月目に奥さんは自殺したらしい。

「今でも、何で死んだか分かりませんわ。ずっと考えてしまいます。俺のあれが原因やな

いかとか」

 カウンターの照明の余光だけで二人で語らう。

「そんな事があったんですか。僕、大分わかってきましたわ。森田さんの事」

 厨房でハムを切ってチーズと一緒に持ってきておれは座りなおす。

「おかげで、原罪からは切り離された、と思てます」

 森田さんがグラスを置いてセブンスターを銜えながら言う。

「原罪て、ひょっとして森田さん、キリスト者?」

「はい、信条だけはね」

「俺も、若い頃は哲学と宗教にかぶれて……。信仰はないですけど、俺の場合は」

 アダムとエバが善悪知る木からその実をとって食べて情欲を持つものになった。楽園か

ら追放されたが、人間は増殖するようになった。神は夫婦の睦みあいを喜ばれると書かれ

ているが、厳密には単身でつき従う者を喜ばれる。一夫一婦制は許されていることに過ぎ

ないのだ。

「原罪の束縛は受けない、とか自分で言ってますが、セックスはしているので余計アウト

ローですがね」

 森田さんが言う。

「そら、享楽ほとんどなしで、他人の為にだけに生きるなんて、なかなか出来ませんよ」

「神と、ずっとコンタクトをとる人だったら、その生き方が出来るだろうね」

「そういう人、確かに、居るでしょうねェ」

 カウンターの電球の光の枠が傘から放射しているのがはっきりと見える。

 おれは森田さんに新しい水割りをつくった。

「しかし、女いうのは、人間じゃないね」

 森田さんが言う。

「俺も、そう思います。理性より感情が勝ってしもとる。ヒスは起こすし、理屈対理屈で

は話しも出来ん」

「そいでも、ときどき、自分の生き写しのような女おるねェ」

「そうそう、自分が女に生まれてたらコイツみたいになってるだろうな、っていう何もか

も自分に似た奴ね」

「そんな女とは、ねんごろには成らんのよね」

「全く」

 おれはカウンターにはいり、冷房を一段階よわくした。

「そう言えば、裁判員制度はじまっとるけど、身近で裁判いった人の話は聞かへんねェ」

 と、おれは森田さんに話題をふった。

「あー、それ、俺いった」

「えっ?」

「実は先月、たまには実家に電話だけしとこう思て、かけたら、母親が何や通知が来とる

言うんで、アパートへ転送してもろた。俺、中江市から住民票うつしてなかったんで。そ

いで、先月、裁判所に行って、何や面談があったんで」

「それで」

「ふふ、千田さん。俺、阿呆を演じてきたんよ」

 おれは、森田さんの顔をのぞき込む。

「裁判官が、森田彦一さんですね、て訊くから、『はい、玉袋筋太郎です』いうて。ずっ

と中江市にお住みですか、いうから、『ええ、暗黒星雲の井戸の中です』いうて。お仕事

は何をされてますか、て訊くから、『そうです。今日は、僕の誕生日です』いうて。真面

目に答えて下さい、言うから『いいえ、健全な勃起持続症です』言うて」

 おれは横隔膜が振幅しだした。

「結構です。お帰り下さい。で、終わり」

「あはっはっはっはあぁ。傑作」

「だって、千田さん。他人を裁きたくないでしょ」

 おれは笑いを抑えながら肯いた。

 森田さんはつづける。

「何の為の三権分立やねェ。国民には政治に参加するのに、選挙権、被選挙権があるし、

そういう事も関与せんでもええように、最低限、勤労の義務がある訳やから。それを、司

法にまで参加せえなんて。ナンセンスもええとこ」

 ホントに、これは笑い話しではない。

「法に護られて安寧があんのに、法を遂行する方へまわれなんて。『報復は私のする処で

ある』て、聖書にも書かれてますやん」

 令子社長からケイタイに電話がかかってきた。

 佐江子から今日のことは伝えてあった。明日の朝一で建具屋を呼ぶそうだ。危ない目に

遭わしてわるかったと令子社長は言った。

〈千田くん、一人で店に居るの?〉

「いえ、森田さんと飲んでます」

〈それなら安心ね。森田さんは二日酔いの心配もないし。それと、店に泊まってくれない

かなぁ。玄関こわれてるし〉

「はい。そうします」

〈それじゃあ、明日〉

 令子社長はおれには余分な挨拶をつけない。

 相手と同じくらいにおれは通話停止ボタンを押した。

「俺も泊まろうかな」

「帰った方が。池沢、相当ショックやったと思いますよ。ついていてやらないと」

「そうですね。じゃあ、俺あいつ呼びますわ。ちゅうか迎えに行ってこ。電話借りますね」

 森田さんはカウンターにはいり壁の電話を使った。

 森田さんは、ケイタイを持っていない。

 短い会話の後、すぐに他にかけた。

 タクシーを呼ぶようだ。

「千田さん、俺いってきますから。毛布ぐらいは持ってきますわ」

 そう言うと階段を上がっていった。

「気をつけて下さいよ」

「そっちも」

 八時をまわっていた。

 ルーレット・スペースに行って、台の上にグラスを置いた。

 昔は、内々に賭博が行われていた。今は、ただの店の飾りだ。

 円盤をまわして、玉を外枠に走らす。

 マイルス・デイビスの『So what』をかけた。

 森田さんが戻ってきた。瑞樹も一緒だった。二人それぞれに毛布をかかえていた。

 テーブルについた瑞樹はがたがた震えている。

 ビールを注いでやったが、手をつけなかった。

「千田さん、一寸、悪いけど、この娘慰めてくる」

 森田さんは毛布を一枚もって厨房の裏へいった。

 おれは、もう一度マイルス・デイビスのアルバムを最初からかけた。

 ーーーもりたさん、もりたさん……

 池沢瑞樹の声だけが聞こえてくる。よがりが速くなって、しばらく静かになった後、瑞

樹の鼻をすする音が聞こえた。うぅうぅうぅ、と呻くように泣いている。

 森田さんが一人、テーブルに戻ってきた。

「池沢は」

「いや、あれでええねん。千田さん」

 そう言った後、瑞樹用に置いてあったコップのビールを飲み干す。

「ショック、大きいけど、俺らには何も出けェへんやんか」

 と、森田さん。

「そうですね」

 おれは、煙草を喫った。

「何か食べよか。森田さん。俺、晩飯食ってないし」

「ラーメン、とろか」

「何でラーメン」

「池沢、泣いてるし。泣いてる人が居るときは、ラーメン」

「そういうもんかなぁ」

 おれは、近くの店に出前を頼んだ。

 瑞樹も出てきてカウンターに近いテーブルでラーメンを食べた。

 食べている内に、泣いているから鼻をぐすぐす言わせているのかラーメンの湯気のせい

でぐすぐす言わせているのか分からなくなった。

「池沢な、こんな商売ねやから、ああいう事もあるわいな。その替わり、他の仕事より楽

して儲かんねやから」

 おれはそう言った。

「そうそう、時間給二千円以上でフルタイムで働ける仕事なんてないで」

 と、森田さんが言った。

 ラーメンを食べ終わると瑞樹はきょとんとして落ちついた。

「森田さん、お酒飲む? 俺、腹一杯なったら酒どうでもよくなっちゃった」

「僕、ビールもらえますか」

「そんな、恐縮せんで下さい。瓶でいいですよね」

 カウンターのなかの冷蔵庫から麒麟クラシックラガーを二本だす。

「酒が有って、女が居て、ドラムの仕事がある。そして、港町神戸。言うことないねェ」

 と森田さん。

「ふん。能天気なんだから、もう」

 と、瑞樹が袖から返す。

「そして、目の前でヤクザが殺される」と、森田さん。

「やめてよー。もう」

 瑞樹は側頭部を両手で押さえて縮こまる。

「コールド・ブラッドやなぁ。あれ、なかなか消えんだろうねェ」

 森田さんは床の黒い染みを手で示して言う。

「絨毯でも貼りましょうか」

 と、おれは答える。

 外は一段、喧騒が弱まった。

 雨のあとなので玄関から埃がはいることはなかった。

「人間は、どこから来て、どこへ行くんだろうねェ」

 森田さんがそう言った。

「それは、永遠の謎ですね」

 と、おれは答える。

「たとえば、僕たち三人は、偶然にしろ必然にしろ同じ現代に生きて、こうして同じ店に

係わってる。僕と瑞樹は、年齢からいくと親子みたいなもんだけど、他人として出会って

同棲関係にまでなって。……千田さんは僕より年上だけど、僕には敬語つこうてやし。岡

村多恵とは付きあってるけど、結婚はしない付き合い方をされてるようだし。そんな一人

一人が、出会って同じ店にいる。人間の、僕はよく知らないけど二万年くらいの歴史のな

かで、切りとられた“今”に居る」

「そうですねェ」

「たとえば、人間、寝ると一瞬で先の時間へ跳ぶ。僕らの喋っている時間も、寝ている人

にはない。ドラマーのフランキー堺が言ってたらしいけど、『音は、過去へ過去へと流れ

る。一瞬のショットは、もう二度とない』ってね。

 人間一人一人に、アイデンティティーが有るって近頃言うよねェ。そしたら、アイデン

ティティーの有る人間が、死んだら終わりだろうか」

「何かが宿っている、と考えないと辻褄が合いませんね」

「そうでしょ」

 瑞樹は手酌でビールを飲みながら、おれたちを観ている。

「単なる性格でなくて、アイデンティティー。形があって枠が成長して記憶とそれに伴う

考え方がそれぞれに出来るとしても、全員が違うアイデンティティーを持っている。それ

が生命だけなのかも分からない。アイデンティティーにこだわって考えると、自我を持っ

た生命という事になる」

「一寸、待って下さいよ。森田さん。そうなると、脳がなくても思考できるという事にな

る」

「その通り」

 おれは、こんな風には考えたことがなかった。

「だから、死んでも死なないんじゃないか。千田さん」

「じゃあ、どこに行くんでしょう」

「それは、千差万別の世界だと思う。人によって。この人なんかは、今頃、僕たちの横に

おるよ。多分」

 と、森田さんは床の血の跡を目で捉えて言った。

「時間という問題だけが余計謎ですねェ」

「『時の問題は神にも解決できない』と、確か聖書に書かれていたと思う。問題は、過去

は形骸しかないのか。つまり、現在という常に前へ進んでいる今という時間しか存在しな

いのか、という事」

「時刻の点。運動する点ですか」

 おれは煙を吸った。

「未来はイメージするしかない。過去は形骸がのこっているに過ぎない。僕は、それでい

いと思ってる。ただ記憶には残る。だから余韻が愉しめる。記憶できなかったら音楽さえ

愉しめない」

「最近、俺は、コンピュータに譬えて考えるようになったんですよ」

「何」

「CPUがあり、仮想メモリーがあり、ハードディスクがある。人間に譬えると仮想メモ

リーは一時的記憶。仮想メモリーがあるから音楽を味わえるのかも知れませんね」

 森田さんも煙草に火を点けた。

「僕、インターネットは土管のつながりだと思うようになった。しかも、どこの端も行き

止まりなのね」

「そうそう、その端っこに人間が居るんですね」

「マトリックスとかが、そういう考えの延長線上の空想だよね」

「インターネットは生きているんでしょうか」

「否、生きてないですよ。自発的に動くコンピュータが、どこにもない。駅の自動改札で

も銀行のATMでも、人間が何かしたらどうする、という風にしか動かない。二十四時間、

電源はいりっぱなしのコンピュータでもプログラムによって動きつづけているだけだし。

コンピュータが自分でプログラムを書き換えだしたら、生きてるって言えるけど」

 森田さんと喋っていると飽きない。おれより四つ歳下だがそう思えない。

「そう言えば、取材きませんねェ。こんな殺人事件なのに」

「千田さん、現場検証のタイミングで一、二社きてましたよ。千田さん、警察に訊かれっ

ぱなしだったから見えてなかったんじゃないかなぁ。それに、千田さんと佐江子ママが調

書つくりに行ってる間に、TVカメラとか来ましたよ」

「それにしても、小さいですね」

「今は、ヤクザ同士の抗争なんか、大きなトピックじゃないかもですよ。それより、動機

なき凶行の方が」

「『誰でもよかった』ってやつですか」

 何で誰でもいいのだろう。

 森田さんは「ごめんね」と言って冷蔵庫からビールを出してきて栓を抜いて飲んだ。

「『誰でもよかった』ってのは、自殺できない奴が自分が死ねるようにやってる事やと思

う」

「そうか」

「他人に迷惑をかけないように、て、ベースで思う人が減ったねェ。僕は三十八年。千田

さんは三十四年だけど、それ位の年代までは、まかり間違っても『人に迷惑をかけても構

わない』なんて思わないよね」

 おれの肩に瑞樹がもたれてきた。顔をたしかめると眠っているのが分かった。おれは、

瑞樹から少しずつ離れ、長椅子にそのまま寝かせた。

「俺たち、森田さんも含めた世代までが、親が戦争に遭った世代ですね」

「団塊ジュニア辺りから可笑しいねェ。団塊世代がそもそも、何処でも学校感覚だしねェ」

「社会へ出ても、会社を学校の延長みたいに捉えてるとこ、ありますね」

「昭和一桁、二桁の子が僕たち。そのベビーブーム世代が、団塊と団塊ジュニアに挟まれ

たような人口構成」

「俺たちの子の世代はどうなんでしょうか。俺、自分の子が居ないから分からない」

「僕も、子が居ない。今、十代後半から二十代の辺りなんだろうけど。意外にしっかりし

てるかもね。最近、真剣な会話をするのがトレンドだという若者が出現してるってTVで

言ってたなぁ。まあ、団塊自体も真剣な会話してたんだけど」

「だけど、団塊は大体、神なき実存主義ですよね」

「ひょっとすると、倫理も要らないっちゅうような」

「全く」

 よく飲む人だ。ウィルス性肝炎のキャリアだし、だけど病気は進行してなくて酒の代謝

機能も高いのだろう。普通、これだけ飲むと真ともな会話なんか出来ない人が多いが、森

田さんは何ともない。前に二日酔いで迎え酒して演奏したときもまったく演奏は乱れなか

った。よく、人は飲むと陽気になるとか愚痴っぽくなるとか饒舌になるとか、そういう人

が多いが、森田さんはまったく変わらない。「ぐぅおうんと来て快いんだよ」と本人は言

っていたから飲むことに効用はあるのだろう。

「僕ね、千田さん」

 おれが自分の内面世界にはいっているとき森田さんが話しかけてきたので聴く態勢に神

経を戻した。

「割と予知しちゃうのよ。自分のことを。明日、こうなるんじゃないか、とか思うとその

通りになったり。それで僕、何か永くないような気がするのよ」

「森田さん、それは予感しても意識しない方がいいですよ」

「何かねェ、バンドマンの仕事も順調だけど、このままは続かない気がする。突然、死ぬ

かも、なんて思うんですよ」

 森田さんはそれ以上は自分の命が短いのではないかについては話さなかった。人に寄っ

かかりかけた、と、自分で判断して抑制したのかも知れない。この人は、外側は享楽的で

その日暮らしの明るさがあるが、内では頭脳が回転している。信条としてはそれでも楽観

的なのだが、もの凄く速く思考して結論を導きだしてしまう頭の良さがある。

 毛布をかけてテーブル席で寝た。

 八時に建具屋が来て物音で目が開いた。

 近くのコンビニで三人分弁当を買ってきてテーブル席で食べた。

 建具屋は請求書を置いて九時まえに帰った。

『牛カルビ弁当』という脂っこいものを食べたのだが、寝不足だとスタミナ優先だとおれ

は思う。自炊は出来るのだけどたまにしかしないおれや森田さんの食生活は良好とは言え

ない。

 誰よりも早く本條令子社長が来た。

「ごめんね。大変だったわね」

 紺のスーツに黒い横長のショルダーバッグを提げていた。

「千田くん、開店遅らすから、連絡できる子には連絡して」

 おれは、佐江子と柳本のケイタイに連絡を入れる。

 出社は二時からでいい。三時開店。

 令子社長が家具屋を呼んで血の跡ののこる床を中心に二十畳分ほど絨毯を敷かせた。床

の色に合わせた黒い絨毯だった。

 ドランカーの面々が来た。

 十一時半だ。おれは中野たちに連絡するのを忘れていた。

「えー、模様変え?」と、中野。

「お前、ニュース観てないのか」と神童。

 岡村多恵もはいってきた。

 おれとはわざと目を合わせなかった。

 ドランカー・クインテットの面々と多恵は昨日の事件のことでわさわさと話していた。

 おれと柳本と藤川俊と木村真治は社長の話しを聞いていた。電話で柳本に、「出社は二

時からでいい」と言ったのだが「そういう訳にもいかない」と言って、三人とも、いつも

通り出社した。三十三歳にもなれば責任感が在る。

「岩田組の人、私の不祥事で店に入れることになったの。それは、私、貴方たちに謝る。

それで、ともかく、昨日のような事がまた有るかも知れないし。貴方たち男衆には、しっ

かりしてもらって、お客さんとホステスに怪我がないように、護ってやって頂戴。大丈夫

ね」

「はい」

 と、四人同時に答えた。

 木村真治の頬は少しひきつっている。大学生のアルバイトの身分でヤクザの抗争の危険

に巻き込まれた訳だ。おれは木村が、店を辞めると言うのではないかと思った。が、木村

は言い出さなかった。

「任しといて下さい。男四人も居るんですから」と、ドラマだったら出そうな科白だが、

おれたちにはとても、そんな心の余裕はなかった。

 二時になった。三人の娘が出てこなかった。

 佐江子のケイタイに次々に電話がはいる。

 河合愛、宮部沙織、今井満純が店を辞めると言ってきた。佐江子のケイタイを令子社長

が受けとり、「仕方ないね。分かったわ」という応対をした。今井満純のときは、令子社

長は引き留めた。

「アンタの歳で、辞めて、どこ行くのよ」

 社長と今井満純の言い合いがあったが、電話は向こうが一方的に切ったようだ。

「しゃあない奴っちゃなァ」

 令子社長はケイタイを切ると男言葉で言った。

「多分、あの人に囲ってもらうつもりなんですよ」

 と、おれは令子社長に言った。

「あの人、て、誰」

「長谷川さんですよ」

 化粧を了えて出てきた松本若菜が言った。

「へーえ、そう。……えっ、あの人、アンタと付き合ってなかった?」

「長谷川さん、今井さんの方が好いんですって」

 と、若菜が唇をとがらせて言った。

 令子社長は、シガーケースから一本抜きとり、ガスライターでひと息喫った。

「パトロンに食わしてもらって、一生、送れるほど簡単じゃないのに。女の人生」

 長谷川老人が移り気しないとも言い切れない。

 吉田とし子と離縁した時のように。

 松本若菜をふった時のように。

 令子社長が表看板に灯をいれた。

 柳本がターンテーブルに針を降ろす。

 ーーー『A列車で行こう』ーーー

 キャバレー・ウエスト・ムーンは今日も開店した。

 藤川俊と木村真治が店の外に客引きに立った。普段は客引きなどしない店なのだが、令

子社長が指示した。

 長谷川老人が来て、小岩章吉が来た。

 玄関の階段を降りきったところで佐江子と令子社長が立って出迎える。

 少し経って吉川先生が来た。

 その後、令子社長のパトロンの盛山誠太郎が来て、つづけて岩田と外山がはいってきた。

 カウンターには小岩章吉と吉川がすわっている。

「そら、誰も来んわな」

 真向かいで小岩章吉がおれにそう言った。

「皆、怖いでしょうね」

 小岩のひとつ置いて隣にすわった吉川が言った。

 おれはグラスを拭く。既に綺麗になっているのを棚からひとつずつ降ろして布で拭く。

「あれだけの事件があったら、常連でも今は行かんとこかと思うわな」

 と、小岩。

「小岩さんは怖くないんですか」

 と、吉川。

「そういう吉川君だって、出てきてるやん」

「否、僕は、大きな事件が起きたら、それ以上の事件は起きないだろうと思って」

「俺は正直なところ、怖い」

「ああ、そうか。小岩さんは作家ですもんね。作家は一匹狼。作家の方がヤクザより怖い

かもですね」

 長谷川老人と盛山誠太郎らのそれぞれのテーブルにはブランデーと氷を持っていった。

後は女たちが相手する。柳本がオードブルを創ってもっていく後ろ姿が見える。おれは、

グラスを拭く。

 令子社長に促されたらしく、藤川俊と木村真治がホールに戻ってくる。藤川は厨房には

いる。木村はカウンターとテーブル席の間の壁沿いにステンレスの丸い盆を持ったまま立

つ。特に用事がないときは立っているのが仕事だ。上品な微笑を出来れば湛えてきちんと

起立していなければならない。

 ホステスの内、数人はカウンターに近いテーブルで待機している。

 令子社長は盛山や岩田と飲みながら話している。

 小岩さんは小さな本を読んでいる。背表紙にはパスカルとあった。

 ドランカー・クインテットの連中が裏廊下で喋っている声が微かに聞こえる。

「小岩さん、それ、『パンセ』ですか」

 おれはそう訊いた。

「ああ、俺は信条はキリスト者だからね」

「そうなんですか。ドラムの森田さんもキリスト教信仰してるって仰有ってました」

「ええ? あの人が」

 小岩さんのケイタイがショルダーバッグのなかで鳴った。

 短いやりとりの後、

「千田さん。編集者くるから、来たらテーブルに移らして」

「分かりました」

 ドランカーの面々と岡村多恵が廊下からステージに出てきた。

 レコードの音に交じってバンドのアンプノイズと森田さんのヘッド・チューニングの音

がしだした。佐藤正吾のピアノのAの音に皆が重なる。佐藤正吾がBフラットに押さえか

える。中野がそれに合わせてロングトーンする。

 岡村多恵が『My Funny Valentine』を歌った。

 曲が終わると、長谷川老人や岩田たちが拍手した。

 岡村多恵は今の曲の解説をして次の曲を自分で紹介した。

 多恵は『Summertime』を歌った。

 夏の空気に快い気怠さを感じながらおれは聴きいっていた。

 客が一人はいってきてカウンターに座り、山崎のロックをショットで注文した。一杯目

を飲みおえて二杯目を頼んでから客は席をたった。

 おれは焦った。

 客はサマージャケットの内ポケットから拳銃をとりだし構えていた。

「岩田さん! 伏せて!」

 おれが叫んだすぐ後に銃声。

 悲鳴が起こる。

 ドランカー・クインテットの演奏がとまる。

 弾は辛くも岩田さんの頬をかすめた。

 外山と岩田さんと盛山誠太郎が臨戦態勢にはいる。外山と岩田さんは拳銃を構える。

 男は一瞬その場でかたまったが、次の瞬間半身になり岩田たちの方を見ながら後ずさり、

走って階段を上がっていく。

 岩田さんと外山と盛山誠太郎が外へ飛び出していく。

 瑞樹が待機席で歯をかたかた言わせている。

 組長、岩田昭一は亡くなった。

 盛山も外山も店に来なくなった。

 岩田組と藤沢組の抗争はまだ続いているが、盛山の方が店に気を遣ってか、或いは令子

社長が頼んだからなのか、キャバレー・ウエスト・ムーンは戦場ではなくなった。令子社

長が常連にもう安全だから、と声をかけていったのか、店には徐々に常連の客が戻りはじ

めた。

 小岩章吉がテーブル席で編集者と打ちあわせをやっている。

 剛い人だ。

 目のまえで拳銃の弾が飛んだのに、微動だにしなかった。それとも脱感作が起こってい

たのだろうか。

 丸山トリオの第一ステージと第二ステージの狭間で、小岩さんに気をつかってレコード

のボリュームを絞っている。

 他の客は女たちとのお喋りに夢中だ。

 小岩さんはショルダーバッグからシステム手帳を出して書き込んでいる。編集者はノー

ト型パソコンを開いている。

「前みたいな、スカッとするやつ、書いてくださいよ」

 編集者がそう言うのが聞こえる。

 身体の細い編集者だ。移動の疲れのせいか額にハンカチをあて汗を拭っている。

 小岩さんはズボンのポケットからUSBメモリーを出して編集者にわたしている。

「千田さん」

 テーブルから小岩さんに呼ばれたのでおれはカウンターを出た。

「もう打ち合わせ終わったから僕のボトル持ってきて下さい。それと、女の子、呼んで」

「分かりました」

「それから、この辺で今日ホテルとれるやろか」

「ビジネスですか」

「いやー、シティーホテル。この人、東京からわざわざだから」

「じゃあ、オリエンタル、手配しますよ。シングルで」

「いや、ツインを」

「畏まりました」

 池沢瑞樹と山本淳子を行かせた。

 レコードのボリュームを上げた。

 ロックと水割りのセットを持っていく。ボトルは新しい山崎25年を卸した。

 瑞樹は編集者の横に、山本淳子は小岩の横にすわっている。

 瑞樹が向かいから「先生」と何度も声をかけている。

 小岩さんは山本淳子の背中に手をまわし、右手で乳を揉んでいる。小岩さんは女を呼ぶ

ときは大抵山本淳子だ。年増好みなのだろう。

 岡村多恵プラス丸山トリオの演奏がはじまった。

 小岩さんが一緒に飲んでくれと頼むので、藤川俊にカウンターを代わってもらった。

「上手いバンドですねェ。特にドラムが。僕、東京の店でもこんな上手い人、見たことな

い」

 編集者は上機嫌だった。

 今井満純は結局、戻ってきた。

 長谷川老人とはつづいているようだが。

 盆になり、十五、十六と店を閉めた。

 実家に帰ることもないおれは、玄関を閉めて店で涼んでいた。

 玄関のガラスを何度もたたかれたので開けると森田さんが立っていた。

 帰る処のない者同士、ビールを飲み、将棋を指した。

「終戦記念日やねェ」

 と、森田さん。

「敗戦記念日か」

「そうやね。ホンマは敗戦記念日」

「GHQ、ギブ・ミー・チョコレート」

「はは、それこそ、進駐軍、キャバレー」

 二人とも、しばし笑った。

 森田さんは端歩を突き、ビールを飲む。

「もう半世紀以上も戦争がない」

「世界では、ずっと有りますよ」

 と、おれは返す。

「日本で、戦争がなくて、こんな長いから、世の中おかしくなっちゃった」

「修身・道徳を禁じられたからでしょうねェ」

「いや、それでも、体験者自体も骨抜きになっても戦争がない方がいいって連中居るよ。

生き残り組にしてみれば、今の世の中さえ天国なのかも知れん」

「自己実現なんて出来るんだから、百八十度、変わったでしょうねェ」

「昔は、親の仕事継いで、親の決めた相手と結婚して」

「自由恋愛になるから、結婚できない男や女だらけ」

「昔は、強姦なんて腐るほど有ったらしいよ。大抵、泣き寝入りでその相手と結婚だよ。

おっといとかね」

「それで、今の女は偉そうにしてますね」

「少子化なんてのも、アメリカの骨抜きにさす政策のせいだね。グローバル化も含めて、

日本は今のイギリスのようにされてしまうね」

「そうですね。引き籠もりとか多いそうですね。国中、外資系企業に乗っとられてるし」

 日本は駄目になった。そして、今も、さらに駄目になりつつけている。そうかと云って、

海外に善い国がある訳でもない。イギリス、イタリアはスポイルされている。スウェーデ

ンやノルウエーは徹底した弱者保護をしているが、商魂がない。アフリカ諸国はやっとア

パルトヘイト政策を脱した幼年期だ。アメリカは競争意識優先の享楽のなれの果てである。

インドや南アメリカは国民の欲求と政策が離れている所為で不安定。中国は化け物となり、

中東では相変わらず妥協が見られない。

 日本は共同体意識を持った倫理と崇拝する天皇がおられた、働き者の多い美しい国だっ

た。しかし、今や、昔のことになった。

「千田さん。僕のこと、『さん付け』で呼ばなくていいよ。というか、いいですよ。僕の

方が歳下なんだし」

「いや、俺は森田さん、尊敬してるんです。自発的に『さん付け』にしてるんだから、い

いじゃないですか」

「千田さん。一緒に旅行、行きたいねェ。女ぬきで男の二人旅」

「どこに行きましょう」

「スペイン、行きたいね。サンバの国ブラジルの移民元だから。ガルシア=マルケス、パ

ウロ・コエーリョ、金髪、闘牛」

「ガルシア=マルケスなんか読まれるんですか。俺、あの本、長いからギブアップした」

「『コレラの時代の愛』とかね。僕、あの、白壁の家並みの世界が好きでね。よく分かん

ないけど、白壁の家、想像するやん。明るい太陽。シエスタ」

 将棋はおれが負けた。

 二人とも駒を戻してゆく。

「サンバって、セックスみたいですね」

 おれは腰振りダンスを浮かべていた。

「そうそう、多分、セックスが基になってると思うよ。あ・あーん、あ・あーん、後にア

クセントの来るシンコペーションでしょ」

「セックスが一番、気持ちいい事なんでしょうか」

 森田さんはビールをひと口飲んで初手の歩を上げた。

「セックスより気持ちいい事ったら、麻薬を吸いながらのセックス。或いは、首を絞めら

れながらのセックス、とか。やっぱり、そういうのは病的、なって、癈人、なっちゃうや

つだね。普通のセックス止まりで、いいんじゃないのかなァ」

 玄関のガラス戸と戸についたカウベルが煩く鳴った。

 鍵を開けると小岩章吉が立っていた。

 小岩さんにもビールを注いだ。

「準備中ってかかってたけど灯りがついてるみたいだったから」

「俺や森田さんは、盆に帰るとこないんですよ」

 そう言っておれは笑った。

「先生は、帰省されないんですか」

 森田さんが訊く。

「俺は、年中正月みたいなモンだもん。しょっちゅう実家に帰ってるから、盆も関係ない

な」

「ご実家は」とおれ。

「千葉県。野田市」

「それにしては言葉が、関西弁が板についてますね」

 と、おれは応えた。

「俺、この神戸が好きだから、五年ほど住んでる内に言葉が染っちゃったし」

 玄関の戸が鳴ったが、誰かが叩いている風ではなかった。

 外は少し暗くなり、天井に近い採光窓に雨滴がつきはじめた。

 おれはステレオ装置の電源を入れ、チューナーでNHKのエイ・エム放送を拾った。

 台風が近づいているのだった。

「千田さん、森田くん。……書けないんだ」

 おれは、ターンテーブルに『リターン・トゥ・フォウ・エヴァー』を載せて針をおろし

た。

 将棋は放ったらかしたまま、森田さんと小岩さんのコップにビールを注ぐ。

「先生。それは、俺たちにはどうする事も出来ない問題です」

 おれは、空いたコップにビールを注ぐことを繰りかえした。

 外の風はつよくなって玄関のガラス戸は震えた。

 小岩は苦悩する。幾度もビールを呷る。

 森田さんは将棋盤をながめながら長い息で煙草を喫っている。

「僕みたいな仕事だったら、悩むこともないんでしょうが」

 森田さんが小岩さんの向かいでそう言う。

「僕は逆に、アンタみたいな仕事は出来ん。心が曇ってる日もドラムたたくんだろう。考

え事で頭いっぱいになっちゃって叩けないなんて事ないの」

「僕は、そんなに深くは考えません。それと、落ち込んでる時でもドラムは叩ける。……

何か神経が別系統になってるんだろうか」

「そうかも」

 と、おれは言って笑った。

 おれは玄関の内側の電動シャッターを降ろした。殆どこのシャッターは使わない。その

かわり、赤外線レーザーを使ったセキュリティー・システムを使っている。

 夕方四時をまわった。

 小岩さんと森田さんは、帰るのかどうか分からない。おれも敢えて訊かない。

「いっそ、締め切りすっぽかしたら、どうですか」

 森田さんが言った。

「小岩さん、真面目すぎるんじゃないですか。印税の蓄えとか有るんでしょ」

「貯金はあるよ。だけど俺の年収なんて微々たるもんだよ。編集者と切れて仕事なくなっ

たら二、三年でアウトだよ」

「いくらくらい有るんですか。年収」

 森田さんがそう訊く。

「印税で三百。原稿料で二百。平均すると、そんなもんだよ」

「そうなんですか。先生だったら二千万ぐらいかと思った。先生、有名だし」

「森田君。直木賞の受賞作でも十万部いかないんだよ。今は。本なんてみんな買わないよ。

芸能人の本は、百万部いったりするけど」

 おれは漬け物とお茶を出して座りなおした。

「一般は馬鹿ですよね。作家の本買わずにタレントの本買うんですから」

 と、おれは会話に混ざった。

 小岩さんは、やっと落ちついたようで、セブンスターを一息すって、

「売れなきゃ独り相撲だからね。自分は賢いから馬鹿な一般人には読んでもらわなくてい

い。なんて言ってたら仕事として成り立たないからね」

「それは、そうですね」

 と、森田さんが漬け物を噛みながら言う。

 救急車のサイレンが外からはいってくる。

「誰も止めろって言いませんね」

 と、おれはターンテーブルの方へ顎をしゃくって言う。

「僕、コレ好きだもん」

 と、森田さん。

「僕は、今、滅入ってるから丁度、波長が合ってんじゃない」

 小岩はビールを飲みながら言う。

「俺、実は、この曲好きですわ。何かねェ、つまらない虚勢はる奴とか客とかと付き合わ

せられる事あるでしょ。そういう時、部屋に戻って、これ聴くんですよ。シニカルでしょ。

これ聴いてると、つまらない世間の見栄の張り合いなんか、どうでもいいって気になれる」

 と、おれは言った。

「確かに、シニシズムは感じるけど、暗いから、ついて行けない時もあるな」

 と、小岩さん。

「短調だろうけど、複雑なコード使ってるから却って賑やかにも感じるね。俺、大体、コ

レ聴けるかどうかで自分のコンディション測ってるねェ」

 と、森田さん。

「演奏する時は、どうですか」

 と、おれは森田さんに訊いた。

 森田さんは漬け物の大根を噛んでお茶を一口飲んで、

「演るときは、暗いなんて思ったことないね。だって、この曲、忙しいもん」

 第二楽章にはいってドラムが休み、ジョー・ファレルのサックスが静寂に一本の線にな

って延びた。

「小岩さん、考えるの、しばらく休んだら」

 と、森田さんが言う。

 小岩はビールを飲みながら眉に手をやる。

「創作っていうのが一次芸術で、一番大変そうですね」

 と、おれ。

「そうそう、作曲とかね。俺ら既成の曲をコピーしてるだけだもん」

 と、森田さん。

「でも、プレーヤーによって全然ちがうものに成ったりするでしょ」

「それは、あるね。特に、フュージョンよりジャズの方が、その傾向は強いね」

「僕は、小岩さん、尊敬してるんですよ。小説書く人なんて」

 小岩は、おれが持ってきた次の壜を傾けながら、

「書く人は、今は一杯いるよ」

「でも、玉石混淆でしょ。きちんとしたものが書ける人は、そうそう居ない」

 おれは、何とか元気になってもらおうと思っていた。

「小岩さん、腹へってないですか」

 夕方六時をまわっていた。

「いや、減ってないけど」

「でも、焼き蕎麦ぐらいはいるでしょ。森田さんもね」

 おれは、そう言って厨房へはいっていった。

 柳本のまな板を使わせてもらってキャベツを切る。フライパンを熱して油を敷き、豚を

炒め、キャベツを入れ、軽く炒めて麺を放り込み水を差し、もやしを入れて麺を焼いてい

く。水がなくなりかけた処でソースを注ぎ交ぜる。

 皿に三つに分けた。

「お待ちどお」

 テーブルに持っていった。

 森田さんは、がっつく。

 小岩さんは、酒のついでだ、という感じで、箸で少しずつつまむ。

「旨いねェ、千田さん」

 森田さんは、口に麺を含みながら言う。

 箸で少しずつ食べていた小岩さんが半身になっていた左肩をテーブルに向かわせて、テ

ーブルと正対してごそっと麺を掴んだ。ずるずると急ピッチで吸いこむ。キャベツと焼き

豚をむしゃむしゃと噛んでは、又、急ピッチで麺を吸いこむ。

「千田さん」と言って麺を吸いこみ咀嚼し、「僕は」と言っては、又、麺を吸いこむ。

「旨いね、コレ」

 と、小岩さんは言って食べきってしまった。

「はや」

 と、森田さん。

「大変ですね」とおれ。

「何がよ」と小岩さんが柔らかい目でこちらを見る。

「いやー、小説書くのは」

「小説? もう、そんなもんどっちでもエエ。千田さんの焼き蕎麦は旨い。それだけや。

千田さん、お替わりある?」

 おれは二人分、手早く創った。

 雨が酷いようだ。裏から、ごお、という音がはいってくる。

 焼き蕎麦を持っていくと二人は意気投合してビールを飲んでいた。二人とも、何という

肝臓だ。

 おれは、レイ・ブライアントのピアノ・トリオのレコードに載せかえて針をおろした。

「モリヘー。モリヘーでいいだろ。今日から俺は、お前をモリヘーと呼ぶ」

 小岩さんの顔が少しだけ赤くなっていた。

「モリヘー。ドラムってのは、どうやって叩くんだ?」

「先生、理屈なんて後からついて来ますよ。こんな感じで」

 森田さんは、箸をスティックに見立ててビール瓶とグラスを叩きはじめた。

 サンバのレガートに意表を突くアクセントが混じる。

「コンココ・コンココ・スコンコ・コン・スコ」

「その『ス』ってのは?」

「先生、『ス』は、叩いてないとこを数える合いの手です」

「ほーう、なるほど」

 小岩も箸をとってグラスを叩く。

「モリヘー。足は?」

「足なんか、どうでもいいんですよ。って、ホントはそうでもないんだけど」

「どうなん、モリヘー」

「四分でも踏んどって下さい。足は」

「シブ」

「そうそう、こんな感じで」

 森田さんは、付点八分音符と十六分音符を足で踏み、両手もつづけた。

「それが四分か。えらい難しいなァ」

 小岩さんが森田さんの右足を真似る。

「カッカッカラ・コロ、スカッカ・カラ・コロ」

「モリヘー、難しいぞ。俺、足が攣りそうだ」

「先生、顔は笑って。サンバなんだから」

 フォウビートのスタンダード・ジャズがかかっているのに、よく引きずられないものだ。

「金髪! 白壁! シエスタ!」

 森田さんが叩きながらそう言いだすと、小岩さんもそれに重ねた。

「金髪! 白壁! シエスタ!」

 焼き蕎麦は冷めていった。

「外人! ****! 腰ふり! セックス!」

 三人とも、うたた寝をしてしまっていた。

 水がはいってきている。

「ああ、こう、ややこしいなァ」

 おれは言いながら水に立つ。

 森田さんも小岩さんも起きだした。

「ひえぇ、こんな酷いの。ここ、山の手やで」

 と森田さんは言いながらテーブルの上のものを厨房へ運びだす。

「千田さん。ステレオ切っといた方がええわ」

 と、小岩さんが椅子の上に胡座をかいて言う。

 おれは、カウンターにはいり、換気ダクト横のブレーカーを落とした。

 懐中電灯とポータブルラジオを持って元の席に戻る。

 集中豪雨の警戒警報が出ていた。台風九号は兵庫県西部をまっすぐ北上し、島根県沖に

出たところだった。中心気圧、九百六十ヘクトパスカル。

 懐中電灯で腕時計をみた。

 四時をまわったところだった。

「酒でも飲もう」

 真っ暗ななかで小岩さんが言った。

「まだ、飲むんですか」と、おれは言い、つづけて「何にします」と言った。

「ワンカップでええやん」

「日本酒はあるけど、そんなもん有ったかな」

 と、おれは言いながらガラス張りの冷蔵庫を照らした。

 隅に三個あったので持ってきた。足が気持ちわるい。椅子の脚の下方五十センチぐらい

水が張っている。その水は厨房を通って裏ドアから出ていってるようだ。

「何で、ワンカップなんか有ったんか分からんな」

 と、おれは呟きながらアルミの蓋を開ける。

 ひ、ひ、ひ、ひ、と森田さんの奇妙な笑いが向かいから聞こえる。

「何ですか」と、おれ。

「いや、何でもない」

 と、森田さんは返事した。

「これで洗われるな。あの事件のことも」

 小岩さんが言った。

「水と因縁は関係ないでしょ」

 と、おれは返した。

「いや、そんなもんだよ」

 小岩さんは、ちっと酒を飲む音をさせながらそう言った。

 ポートライナーの窓から海面が見える。ビル群が水の際まで建っている。鴎が斜めに翔

ぶ。誰もの顔がおっとりとしている。

 ーーー次は、貿易センター。貿易センターです。The nex stop Boweki center-stationーー

 多恵が、おれの顔を見る。

 おれは微笑みを返す。

 ポートライナーは、数年まえ、距離を延長した。そして、行程が二系統になった。

 俺たちが乗っているのは「快速」だ。

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『キャバレー・ウエスト・ムーン』上 [自作原稿抜粋]

 盗作を避けるため、アップロードしておきます。

 注意! この作品は、18歳以上の読者を対象としています!

 四年に一度のスポーツのお祭りも終わり、裁判員制度が始まり、来年からTVが地上波

は皆デジタル化すると騒がれている正月、街自体の半分が大きな山の斜面にあるという土

地、関西の一都市に朝から雪がちらついていた。

 全ての人が田舎の実家やマンションやアパートの一室で正月酒を飲んでくだらないTV

番組を見てそれでも我が子の成長に嬉しさを感じながら炬燵に丸まっている明けてまだ二

日目に、この地が地元という年寄り同士が「キャバレーに行こう」「実は、ワシもまだ行

ったことがない」と意気投合して二人して徒歩で街を歩きはじめた。

 靴職人として生きてきた男は、道をはずしたことがなく女房以外の女には声をかけたこ

ともなかった。

 家具職人として半生をすごし、人生の後半からは家具を売るほうにまわった男も、バー

やスナックやラウンジや居酒屋には通ったことがあるが、キャバレーにはまだ行ったこと

がなかった。

 二人の男は生田神社にお参りをしてその足で元町に向かった。

 元町の街中に着いたとき、まだ午前十一時だった。

 何軒かそれらしい店の店先に行ったがシャッターが降りていた。

 正月の昼間、しかも午前中に風俗店など開いているわけがないということにだんだん考

え至った。

 七十二歳の靴屋のほうが言った。もう帰ろう、おれたちは莫迦なことをしている、と。

 七十七歳の家具屋の男も同じ考えに至って、何のためにこんなにしんどい思いをして歩

いてきたのかと、自分の莫迦さ加減を嗤って踵をかえした。

 二人は、お互いに莫迦だったと笑いあって、いっそのこと正月のことだからタクシーに

乗って楽に帰ろうと言いあった。

 二人は海沿いの平地の大通りに向かって坂を降りかけた。

 清まった息を吐きながら遠くの船の霧笛を聞いたとき、坂の左手に焦げ茶色の店の入り

口と横にすわった楕円形の薄桃色の看板を目にした。

 そこには大きな字でキャバレーと書かれていた。

 店の名前はその下に小さくアルファベットで書かれていたが英語が苦手な二人の老人に

は店の名前などどうでもよかった。

「ここがキャバレーや」

「そうみたいや。はいろう。はいろう」

 一階の入口からすぐに階段になって地下になっていた。

 トロンボーンのあまい音とドラムの揺れるビートが大きく鳴り響いていた。

 高い天井に中央にぶんどったルーレットスペース。

 ボーイに案内されすわった丸テーブルの席にはまっ赤な口紅をつけたくるくるパーマの

女たちが横にすわってくれた。

 いくらかかるのか分からなかったが、老人にはお金のことは問題ではなかった。

 明石で漁れた鯛の活けづくりでございます、と、ボーイが大きな皿に目をむいた刺身を

持ってきた。

 老人たちは女たちの乳房を揉み、ホップの効いたビールを飲んだ。

「ワシ、もっと早いとこ、こういう店に来るべきやった」

「ワシも、こんな楽しいとこがあんの知らんかった」

 店は頃よく暖房が効いていたが空気はゴージャスに少し重かった。

 ソファーの革のいい香り、他の客が喫う葉巻の高級感あふれる匂い。

 女たちは胸をすりよせてくる。

 ルーレットがまわり、アルトサックスが大人の官能を演出する。

 家具屋も靴屋も女たちにそれぞれ一万円のチップをやった。

 女たちはキスをしてくれた。

 若い女からもらう溶けるような快楽。

 他に三組客がいたが二組はいたって静かだった。

 残りの一組、いや一人の客は派手に騒いでいた。

 まだ少年のようなあどけなさを残す風貌の中年の男だった。

 麒麟ビールの栓をぬく音が豪快に頻繁に起こる。

「おれは東京から帰ってきてん」

 男の口から何度も東京という単語が出る。

「飲めや飲めや。おれの奢りや」

 背は高いが猫背の男。髪は短く、天然パーマが少しかかっている。薄茶のスラックスに

濃い茶のブレザー。ブレザーの肩パットで男は品のある存在感を出している。ワイシャツ

の第一ボタンははずし、ネクタイは締めていない。左手に銀色のブレスレットと黒い時計

をしている。時計は高級品ではなさそうだ。

 男は左のコメカミにときどき手をやる。どうやらそこに傷があって具合がわるいようだ。

 老人たちは生演奏で軍歌や童謡を歌ったり、ホステスたちとチークを踊ったりして楽し

んだ。

 長々と享楽にふけり充分に堪能したので精算してもらって店を出ようとした老人たちの

耳に怒鳴り声が聞こえた。

 一旦、精算してから続けてお遊び下さい、と店側が男に切り出しのだが、男は「金はな

い」と言って腕を組んでしまった。

 バーテンと若いボーイ二人に囲まれて怒鳴られている。

 その内にダンスフロアに引っぱられていき、羽交い締めにされポケットの中身を出され

た。

 老人たちは興味が湧いたので店を出ず見つづけた。

 男は殴られ蹴られた。

 警察に突きだそうという話になりかけたが、

「ここで働かして下さい」

 と男が言ったので事態は変わった。

「お前の飲み食いした分、一体いくらになると思とんねん! まあエエ、連れてけ!」

 ちらついていた雪は数センチ積もっていた。

 神戸の街は底冷えがした。

 おれは、千田幾男。

 来月に四十九になる。

 東京のホテルでバーテンをやってから神戸に戻ってきて十五年まえからこの店に居る。

 バーテンダーは堅い仕事だ。

 しっかり酒の調合が出来れば仕事が成り立つ。

 身なりや話し方には充分気をつけなければならないが、食いっぱぐれることはない。

 会社勤めでも同じ金を稼ぐことは出来るだろうが、おれには性に合わない。

 バーテンダーにはブランクがあってはならない。四、五年もシェーカーを振ってないと

もう駄目だ。

 それに、一旦、この業界を離れるともうお呼びはかからない。

 そういう意味で、おれは恵まれている。

 高級ホテルのバーテンなら格式が高いが、場末のスナックのバーテンなんかになったら

女に飼い殺しにされるという奴も居るが、おれは女には溺れない。

 今の店はヤクザが後ろに居るキャバレーだ。

 店の名は、『キャバレー・ウエスト・ムーン』という。

 頭にキャバレーとついているところが分かりやすいだろう。

 正月営業の昨日、変な客が来た。

 金もないのに散々、飲みまくった。

 風采の冴えない、童顔の中年の男だ。

 たしか、森田彦一といった。

 今日からおれの下で雑用をやってもらう。

 散財した分、雑巾のようにこき使ってやる。

 店は昼十二時に開ける。

「森田、ビールケース運べ」

 裏口に届いたビールを店内に運ばせる。

 二十本入りのビールケースだ。

 三つぐらい持って往復したぐらいで、森田はふらふらしている。

「森田、それ終わったら床掃け。その後、モップ」

 はい、と返事だけはいい。

 確かおれの三つ歳下の四十六と言っていた。

 四十六にもなってこんな水商売の下働きをやらされるとは憐れな男だ。

 自業自得だろう。

 十時に社長の令子さんが来られた。

 令子さんはホステスより早く入店する。

「あの人、どう?」

「よたよたの中年ですわ。でも、きっちりやる事はやってもらわないと。只飲みしたんで

すから」

「そうね。頼むわね」

「はい。社長」

 社長の名は本條令子。

 抜群のプロポーション。骨格の大きい身体。張り出したEカップの胸を明るいグレーの

スーツに包みタイトスカートを穿いている。大きな瞳に分厚い唇。皺も数えるほどしかな

い首には真珠のネックレスがかかっている。六十二歳だが、四十代に見える。

 森田には厨房の掃除とグラス拭きをやらせた。

 ホールの藤川俊、柳本良一、アルバイトの竹川浩之と木村真治が出勤してきて、カウン

ター拭きやテーブルと椅子のセッティングを黙々とこなしていった。

 厨房の仕事は、主に柳本がやっている。

 この店の場合、料理は出さないが、オードブルにチーズを切ったり、刺身を出したりす

る。烏賊と鮪だ。あとはピスタチオなどの豆菓子やポテトチップ。他に野菜サラダがある。

野菜サラダには自家製のゆず醤油をかける。そして、どうしても空腹な客には半ごしらえ

してある焼きそばを焼いて出す。

 一方、酒の種類は滅茶に多い。

 ウィスキー、モルトグレーンとコーンベース。ブランデー、ワイン、ウォッカ、日本酒、

焼酎、カクテル、ビール。

 全部で六十種類ある。

 ドンペリニヨンなどの法外に高いシャンパンなどは置いてない。

 高級でありながら良心的に、というのが令子社長の信念だ。

 十一時をすぎるとホステスたちがぱらぱらと出勤してきた。

 この店では同伴というのはない。

 ホステスの、給料以外の実入りは、客にジュースを奢ってもらうか、客に直接チップを

もらうかだ。いくら客にボトルをキープしてもらっても給料には跳ね返らない。一杯八百

円のジュースを奢ってもらって売り上げからスライドして八百円の足し算をするか、客に

身体を触らせて上機嫌になった客からチップをもらうかだ。身体はいくら触らせてもいい。

本人が構わないのならば。ただし、他のテーブルから見えて下品に映るようではいけない。

 これが、この店、ウエスト・ムーンの方針だ。

 客と個人的に性交渉を持つのは自由だが、同伴出勤してはならない。

 リーズナブルな利用法に、『一時間セット』というのがある。

 これは、二人までの客がテーブルについて一時間以内で帰って、一人につき料金六千円

というシステムだ。

 酒の種類は選べない。

 サントリー・レッドだけである。

 いくら飲んでも一時間六千円である。

 ただし、ホステスにジュースを奢ったり、別のオードブルを注文すれば、その分は別に

かかる。

 このコースは主に、大学生が利用する。

 森田は器用にグラスを拭く。

 普通、素人がグラス拭きをやったら一個や二個割って、おれに怒られて交替となるのが

関の山だが。

 それにしても、自分の仕事を人に割りふってやらせるのは楽でいい。

 しかし、本来おれ一人でできる事を分散しているのだから、金もうけという意味ではマ

イナスか。おれは、そんなことを考えながら開店を待った。

 一段ひくいステージにバンドのメンバーが集まりはじめた。

 今日は丸山トリオの日だ。

 ピアノの丸山さんと、ベースの久米島さんが話し込んでいる。

 ドラムはいつも店にセットしたままになっている。

 ドラムは胴が木でできているので長い間ケースに入れて収っておくよりは、この店のよ

うに毎日、誰かがたたいてやって、その度に革の締めなおしやポジションの調整をやって

いるくらいの方が楽器自体にいい。

 実は去年の九月にこの店の大御所のドラマー堺とおるさんが亡くなって、今は二十歳の

大学生を雇っている。

 キャバレーでも、一応金をとるわけだしプロだから、大学生のドラマーには急成長して

もらいたいと思う。

 佃というその子は、曲の途中のフィルインで、つっかけを履きかけてよろけたように崩

れることがある。

 丸山さんも久米島さんもベテランだからどうにか大学生の失敗をカバーしている。

 もう一つのバンド、ドランカー・クインテットにも同じ大学生が参加している。

 堺さんの抜けた穴は大きい。

 ドランカー・クインテットの方はBGM的なライト・フュージョンや歌のないポップス

をやることが多いので、大学生にも負担は大きくないが、丸山トリオは、スタンダード・

ジャズ、バップ・ジャズ。ボサノバ、チーク、それに丸山さんのオリジナルのフリージャ

ズなどをやるので、今の大学生では心許ない。

 ウエスト・ムーンでは音は生演奏しかない。

 カラオケは客同士がもめる基になるので置かない。本條令子社長の方針だ。

 雇われママの佐江子が出勤してきてミーティングがはじまった。

 寒いけれども、どんどん動いてお客さんにサービスするようにと、佐江子がバンドマン

以外の全員に言った。

 おれは大理石づくりのカウンターの後ろにスタンバイする。

 ホールの柳本良一が台が十五センチというぶ厚さの糸ドライブのターンテーブルに針を

下ろす。

 心地よい中音のテナーサックスとトロンボーンのユニゾンメロディーが起ちあがる。

『A列車で行こう』で、今日もウエスト・ムーンは開店した。

 学生やサラリーマンたちが次々に入店する。

 生田神社などに初詣に行った帰りらしい二人連れ三人連れが多かった。家族で来たり女

づれで来たりする客は流石にいない。

 神戸在住の小説家の小岩章吉がピアノ弾きの吉川先生をつれてはいってきた。

「お目出度う。今年もよろしくね」

 小岩はカウンターにすわっておれにそう声をかけた。

 おれの一年上の五十歳。三年まえに新人賞デビューしてから精力的に本を出しつづけて

いる。純文学の新人賞受賞だが、最近はハードボイルドな中間小説も書いている。神戸の

街が舞台になることが多い。口髭と顎髭を伸ばし、髪には半分、白いものが交じっている。

武闘派ではないが目つきは怖い。相手の核心を見ぬくような目だ。

「やってますね」

 ピアノ弾きの吉川先生が、ステージで打ち合わせをしている丸山トリオの方を見てから

おれを見てそう言った。

 吉川は主にシティーホテルのラウンジやレストランで独りで弾く。初見が利くのでそう

いう店で重宝されている。独りで飲食店でBGMとしてピアノを弾く仕事をしている人を、

業界では先生と呼ぶ。ピアノ専攻で音楽大学を出たが、クラシックの奏者にはならず、店

のピアノ弾きをかけ持ちでやっている。たまに、アルバイトで、自宅でピアノレッスンも

やっている。二十代後半だが、皆に一目おかれている。肩書きという意味ではオーケスト

ラやソロでクラシックを奏するプロには内心侮蔑されているだろうが、本人はそういうこ

とは意に介さない。

 吉川も大学生の演奏を励ましている。

 森田にはお運びをやらせた。

 藤川や柳本が手すきになってしまうが、森田に優先的に運ばせた。

 おれはカクテルをつくり、ウィスキーをグラスに注ぐ。

「メタル・ジンジャー一つとコーン・ベースのボトル一つ。それから、三番のお客さんが

『一時間コース』と言われてるんですが」

 森田には分からない言葉だらけだろう。特に、カクテルの名前は、森田が言うと全部ひ

らがなで喋っているような感じだ。

「はい、分かった」

 おれは返事して仕事にかかる。

 森田が中途半端な笑みをつくってまた戻ってくる。

「まっか、まっから?」

「マッカランだな。ボトル一だな?」

「はい」

 カウンターの小岩が噴き出す。

 小岩章吉と吉川の横にもそれぞれ池沢瑞樹と藤本栞がついているのだが彼らは女の子を

触らない。それどころか会話もあまりしない。

 小岩はウィスキーの山崎を水割りで飲み、吉川はジョニー・ウォーカーをロックで舐め

る。

 佃くんの拙いフォウビートで第一ステージがはじまった。

 曲は、『朝日のようにさわやかに』だ。

 ドーン・ドーンと太いベースの長音が重しに効いている。ドラムの短いフィルインにつ

づいて久米島さんの長いベース・ソロになった。流石はベテラン。ぐっと聴き耳をたてさ

せるボリュームコントロールと苦悩するような短い音符の連続をハンマリングとプリング

オフ、グリッサンドを交えてつづける。

「そろそろやね」

 小岩章吉が裏の意味を込めておれの目を見てそう言う。

「大変やな。お手並み拝見」

 今度は左にすわった吉川がおれの方を見て意味深げに呟く。

 久米島さんが、四小節まわりの終わりの導音を強調して、はいってくれという合図を送

りだした。

 もうひとまわりまわると、丸山さんが短い和音を刻みはじめた。

 次ではいるかと思ったが、佃くんはまだふん切りがつかない。

 だんだんベースとピアノの音が大きくなってくる。

 やっと、三人になった。

 テーマを奏しだす丸山さん。

 長い。

「嘘? エイト?」

 吉川先生がグラスを持ったままとがらせた口を開けたままにしている。

 八小節まわって、ついにドラムソロがはじまった。案の定、佃くんのドラムはつっかけ

を履いてくずれかける。どういう風にたたこうかイメージが出来てないので行きあたりば

ったりに手数を打つ。左足での二拍、四拍のハイハット踏みも完全になくなっているので

時間の流れが本人も分からなくなる。手数だけ速く打ちすぎて妙な間ができる。その間の

後に、丸山さんと久米島さんが戻ってくる。命拾いして全体でテーマを八小節。

 8バスという方式は、八小節全体でプレーして、八小節ドラムがソロをやる。それが四

回あってもう一度テーマに戻って、曲の終わりとなる。

 二回目も三回目も佃くんはつっかけを履いた。

 四回目もつっかけを履き、間が長く残りすぎたので自分からスティックを四回打ち合わ

せて新たにビートをつくり、テーマに戻ってやっと曲は終わった。

 テーブルの客たちは静まりかえって嫌な空気が漂った。

「下手くそ! それでもバンドマンか!」

「引っこめ! 酒がまずうなる」

 野次につづいてどよめきが起こった。

 丸山さんがアップライトピアノのまえに立って客の方を向いて頭をさげる。

 肩をおとして顔を下に向けている佃くん。

 佃くんの横にはチョッキを着たホールスタッフの一人が立ち肩を叩いてなだめている。

 そのホールスタッフは佃くんに退くようにうながして袖へ二人して消え、また戻ってき

て丸山さんと久米島さんに耳うちしてスティックを持ってドラム椅子にすわった。

「あの莫迦」

 おれは、舌うちした。

 それは森田彦一だった。

 店内が別種のざわめきにつつまれる。

「え? マスター、新人?」

 吉川先生がおれのまえですっとんきょうな声をあげる。

 丸山さんの硬いメロディーのさわりが奏でられてすぐ、ベースとドラムのぴったり一致

したバシンッとくる音がリズムを固めていった。

 タッタタッタと付点の効いたスネアのおかずも心地よい。特に頭を抜いた八分音符や十

六分音符のスネアのおかずがおいしい。

 曲は『枯葉』だった。

 久米島さんのソロになるとしっかり締めたハイハット・シンバルで、森田は小さくリズ

ムキープした。

 やがて久米島さんだけのソロとなり、全体のテーマに戻った。

 カウンターの小岩と吉川は首を固定して注目している。

 8バス。

 タ・ドゥン・タとはじまり歌うようにタムタムの音がのびる。聴いている方にも枯葉の

メロディーが同時に浮かんでくる。

 タタドタタド・タ・ドゥンタと歌っている。特に、スコココココ、と鳥がはしゃいで啼

いているように聴こえるヘッドに押さえたスティックを押さえる力を変えながら別のステ

ィックで叩くプレーは見事だ。

 8バスが全ておわると意表を衝いてフリーソロにはいった。

 ロールの粒が細かい。そこに、タムタムやバスタムの胴がしっかり鳴っている音がはい

る。

 シンバルのレガートは品を感じる。

 バスドラムはあまり大きくなく要所々々でシンコペイションしてスドド・スドドド、と

鳴る。

 六連符の頭と後ろにサイドシンバルのアクセントがはいって目がまわる感じになり、バ

スドラムとタムタムを交ぜて打つ六連符が最高に速くなり、バスドラムが強めの音で四つ

つづけて鳴ると、テーマを意識したソロに変わった。

 森田は笑っている。少しエロチックな笑いだ。

 丸山さんと久米島さんが難なく戻って十六小節演奏して、最後に森田の何を叩いたらそ

んな音が出るのか分からないが、コロンコロンコロンと笑っているドラムの音で演奏は終

わった。

「ブラボー!」

 テーブル席からそんな声が挙がった。

 キャバレーでブラボーなんてとおれは苦笑した。

 妙な間があってから大きな拍手がおこった。

 小岩も吉川も手をたたいている。

 吉川がおれに何か言っているのだが、拍手が大きくて聞こえない。

「マスター、マスター。あいつは何者なんだ」

 やっと吉川の声が聞こえた。

「いや、その、昨日…」

 おれが説明しあぐねているところへ、

「千田くん、あの子、正式に雇うわ」

 令子社長がカウンターにすわっていた。

 令子社長は店のはじまるまえに顔を出すだけなのだが、何故か今日は店に居た。

「一日、一万。アパート代ただ。早く交渉してきなさい」

 おれはステージに寄っていって、次の演奏にかかろうとしている丸山さんに、手で合図

して待ってもらってドラムの脇に行った。

「森田、いや、森田さん。ウチの専属になってくれんやろか。ギャラは一日、一万円。ア

パート代は、ただで」

 森田はスティックの端を両手でもって立って前屈みになり、

「いやー、僕は未だ、酒代もはらってないし」

「それは、なかった事でいいわ」

 いつの間にか令子社長が来ていた。

「だって、これだけの演奏をしてもらうんですもの」

「済みません」

 森田は俯いてぼそっと答える。

「やってくれるの?」

「はい」

「そんなに恐縮してちゃ駄目。もっと無頼でやってよ。ドラマーなんだから」

 それから森田はつづけて演奏した。

 吉川先生が途中で二曲、丸山さんと交替した。

 上手い奴とは一緒にやってみたくなるのだろう。

 吉川は『クレオパトラの夢』のとき、決めのシンコペイションを弾く度、快活な笑みを

湛えていた。

 吉川のあんな表情をここ数年みたことがない。

 店は十二時で終わり、客を帰した。

 ホステスを帰し、残った者だけで飲んだ。

 小説家の小岩と吉川先生と、本條令子社長とちいママの佐江子、丸山トリオの丸山さん

と久米島さん、森田彦一。それに何故かアキという源氏名で呼ばれている池沢瑞樹が残っ

た。

 森田は初め恐縮していた。

「飲んでいいのよ。何がいいの? 森田さん」

「僕は、ビールでいいです」

 令子社長に訊かれて、森田はそう答えた。

「佐江子ちゃん、アンタ、この人、大事にしてよ。見たでしょ? 今日の演奏。あれだけ

叩ける人は居ないんだから」

 佐江子は社長に頷いて森田に酌をする。

「ほんまですわ、令子さん。堺さんより上手いかもいうぐらい凄いですわ。この人のドラ

ムは」

 ピアノの丸山光一が正直にほめる。確か六十五歳だ。白髪が半分交じる髪をバックへ寝

かしている。毛穴の目だつ脂ぎった肌は、キャバレー一筋にピアノ弾きをしてきた男の年

輪を感じさせる。

 森田は少しまわってくると途端に飲むペースが上がった。ビールばかりを豪快に飲む。

「千田くん、佐江子ちゃん、あんたら、絶対に、この人からお金とったらあかんよ。この

人だけはフリーパスでね。分かった?」

「はい」

 令子社長に言われて、おれと佐江子は同時に返事した。

「社長、私も惚れとるから、絶対にそんな事せえへん。痺れるわぁ、森田さん」

 佐江子は科をつくりながら、森田の手をさわった。

「ボ、ボクは、いいんですかね、僕なんかで。夢みてるみたいです。ドラムで雇てもらう

なんて」

 呂律があやしくなりながらも森田は佐江子の手をさする。

「森田さん、何で。今までどんな仕事されたんですか」

 三十六歳の久米島が言う。

「ボ、僕は、中江市でセールスとか工場とかしました。東京へ出ても派遣の寮暮らしで、

流れ作業とかしてました」

 森田が返す。

「プロへのオファーとか、なかったんですか」

 吉川が訊く。

「なーんにも有りません」

「勿体ないなぁ」

 吉川が溜め息をつくように言った。

「アンタ、やっと天職につけたね」

 丸山さんがそう言って、森田さんの肩をたたく。

「森田さんの加入を祝って、も一回、乾杯しよ」

 久米島の声でグラスを合わせた。

「アキちゃん、森田さん、まだアパート手配してないから、少しの間、アンタんとこ泊め

たげて。いいわね」

 池沢瑞樹は快く返事をした。

 令子社長からは死角の自身の左側で、森田は佐江子の胸をもんでいた。

 猫背で長身の冴えない中年男だが、おれは憎めなくなっていた。

 この男は、おれたちのせいぜいこんなもんだという常識を毀してくれるかもしれない。

 四日。

 おれは開店準備をしていた。

 アルバイトの竹川浩之と木村真治をつかって、店の掃除をした。

 森田さんはバンド専門となったので、まだ出てきていない。

 女たちが出勤してきた。

 その内に、三人ほどが掴みあいの喧嘩をはじめた。

 おれは、三人の女の頬を順番に平手うちした。

 不動産屋の長谷川という老紳士をめぐって、誰それが余計なちょっかいをかけた、など

ということで揉めたらしい。

 Chikaという源氏名の吉田とし子と、明菜という源氏名の松本若菜と、久美という源氏

名の今井満純がもめている。

 長谷川は吉田とし子を妾のように可愛がっている。それは、既に皆に知れたことだった。

吉田とし子は三流だが四年制大学を出て、教養がある。利発で機転の利くところが長谷川

に好かれていたのだが。

 今井満純は二十代後半で妖艶な美しさがある。松本若菜はがさつだが、色白で若い。二

十三歳だ。

 長谷川老人が若い方へ乗りかえを企ったということだろうか。

「お前ら、ともかく、店以外で、じっくり話せ」

 惚れた腫れただの知ったことじゃない。

 ピアノの佐藤正吾がきて、ベースの田之上力がきた。

 今日は、ドランカー・クインテットの日だ。

 森田彦一が顔をだし、トロンボーンの中野久作とサキソフォンの神堂留壱がきて、おれ

が、バンドマスターの佐藤に森田彦一を紹介した。

「そうか、佃くんは馘か」

 と、佐藤は言って、事情を解したのかすぐに肯いた。

「森田さん、ちょっと、叩いたって」

 と、おれは森田さんに腕を披露するように促した。

 森田さんはドラム椅子にすわって4ビートをたたいた。

 佐藤が難しい顔をしながら、

「ちがうちがう。上手いのは分かるけど、僕らは、ジャズ・メインやないねん」

 と言う。

 それを聞くと森田さんは、右足で四分音符を踏みだし、スネアでアフタービートを叩き、

右手でクローズとハーフ・オープンを交互に刻みだした。それから、ボサノバに移り、16

ビートを刻み、足のアクセントを様々な位置に変え、最後はサンバを叩いた。

 佐藤と田之上の目に色がはいった。

 中野と神堂もドラムの傍に寄ってくる。

 トロンボーンとエレキギターをかけもちでやっている中野がストラトキャスターをアン

プにつないでダウンストロークでディストーションの効いたコードを弾いた。

 森田がハイハットを刻む。

 田之上がエレキベースで加わる。

 ピアノの佐藤が短い音のコードを当てる。

 神堂がアルトサックスで歌いだした。

 ディープパープルの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』だ。

 腰を持ちあげられるような快いスネアドラムのフィルイン。

 中野のギターが泣く。

 森田の絶妙なハイハットのハーフ・オープン。一音いちおん締まり具合のちがう貝を上

から下から刻む。

 後半のピアノ・ソロは佐藤が苦しそうだった。細かい粒のつまったメロディーなど最近

ひく場面がなかったから。

 繰り返し部分を大分、省略して曲は終わった。

「いけてる、いけてる」

 中野が微笑してそう言った。

 ドランカー・クインテットは大阪のH大学のOBの同期生ばかりがメンバーだ。

 全員、三十代後半だ。

 神戸に実家のある者と神戸に仕事先がある者たちだ。

 令子社長がオーディションみたいなことをやって、三年まえに採用した。当時は、仲間

のドラマーがいたのだが、演奏が心許なく、令子社長はそのドラマーを外した。令子社長

の方針で、丸山トリオでたたいていた堺とおるさんがかけ持ちとなった。

 堺さんは六十八で死んだ。

 肝臓癌だった。

 あの震災での疲労が誘因だと思う。

 神戸の楽器店でインストラクターをし、四十くらいまではもっと上品なレストラン・バ

ーで叩いていた。

 柔らかい澄んだ音を出す人だった。

 突然芯のこもった強いバスドラムのアタックを効かせることがあり、抑揚に富んだ演奏

で定評だった。

 キャバレーでは客に聴かせる趣旨で演奏することは少ない。殆どの場面でBGMとして

弱い音で奏する。堺さんのワイヤーブラシも絶妙だった。

 さあ、そろそろ店を開ける時間だ。

 ドランカー・クインテットは、森田に譜面を見せて、森田のやれる曲を選んでいた。

 柳本良一がターン・テーブルに針をおとす。

『A列車で行こう』

 今日も店がはじまった。

 客は誰もはいってこない。

 今日から仕事はじめの所が多い。

 サラリーマンは未だデスクにかじりついているか、営業先を跳びまわっているのだろう。

 一時をすぎて、小岩章吉がはいってきた。

 小岩は夜中じゅう起きて書いている。

 小岩にとっては、今、夜が明けたというところだ。

「焼き蕎麦でも創りましょうか」

 おれは、カウンターにすわった小岩に言った。

「ああ、頼むわ」

 柳本良一がカウンターの奥の狭い厨房で冷蔵庫から出したつくりおきをフライパンで炒

める。

「先生の新刊、よかったですよ」

「おい、先生と呼ばんでくれ。小岩さんでいい。『あいつのおかげで』か」

「ええ、あの行き止まりみたいな四十すぎの連中がラーメン屋台に奮闘する」

「あんなもんが売れるようではいかんのだがな。あれは現実にありそうな話しの積み重ね

だから」

「いえいえ、だからいいんですよ」

 小岩は、マルボロのメントールを喫う。

 山崎の十二年ものの水割りを出す。

 註文を訊くまでもなく、カウンターに座ればまず山崎の水割りなのだ。

 浮腫んだ顔で柳本が焼き蕎麦を持ってきた。柳本は不健康が常になっている。こういう

仕事をしていると、柳本のように常に疲労した状態になりがちだ。

 小岩が麺を吸いこんで噛み、一旦呑みこんでから口を開く。

「あの人、やってるね。森田彦一さん」

「小岩さん、名前覚えるの、早いですね」

 小岩は、左手で皿をもってどんどんかき込む。その手首には黒い文字盤のダイバーズ・

ウォッチが嵌っている。ベゼルがニッケルで鋭く光っている。

「いや、あの人が凄いから。それに、腕前と風貌とのギャップが」

 おれは、笑いながら黙って肯いた。

 エキセントリックなように拝察してしまうぎこちない所作。肩幅のない長身で背がまる

まっている。童顔で人が好いが、飲みっぷりに表れているように豪快な一面もある。それ

が、ドラム椅子にすわるとシャキッとした別人になる。決して崩れないタイムキープのな

かに歌うようにフィルインを入れてくる。

「ただもんじゃないね」

 小岩がそう呟いた。

   *   *

 私、森田さんとエッチしちゃった。

 ベッドの横にお布団しいてあげたんだけど、明かりを消してから二十分くらいたって森

田さんが私のベッドにはいってきた。

 実は、私、抱かれたかったの。だから抵抗はしなかった。

 ああ、二人だけの秘密。

 彦ちゃんたら、どうしようもなく上手なんだもん。

 初めは私、森田さんがすっきりしてくれればいいとだけ思って目を閉じてた。だけど、

森田さん、長いからだんだん私、気持ちよくなってきて…。いやん。もう我慢できない。

今も。

 森田さんは、もう一個のバンドのメンバーと何か打ちあわせしてる。

 高校中退の女の子にも、神様は幸せ、くれるんだ。来年なったら、私も大人になるのよ。

森田さん。ついて行くからね。秘密のおつき合いつづけてね。

「何だ、アキちゃん。とろんとした目ェして」

 もうやだ。

 何でこんな奴のお酌しなきゃならないの。

 定年退職したてっていうオヤジ。

「アキちゃん、さては、好きな人でも出来たかな」

   *   *

 三時をすぎて、それでもそこそこにテーブルが埋まってきた。

 中野がマイクに向かう。

「ワン・ステ目をお送りします。ドランカー・クインテットです」

 それだけを言うと、中野はおもむろに吹きはじめた。

 ボズ・スキャッグスの『We're All Alone』だ。

 すぐに他の楽器が加わる。

 中野久作の音はいつ聴いても柔らかく、甘いけれども決してこもらない。

 おれが女だったら痺れてイチコロだな、と思う。

 16小節まわると静かなピアノがメロディーを引き継いだ。

 こういう曲はやはりエレキベースだ。

 減衰が遅いので全体ののっぺり感が出る。田之上は五弦のロングゲージを使っている。

 おれは、シェーカーをふる。

 その音に引きずられずに、森田さんの十六分音符の後抜きのタムタムが低音タムへとま

わっていく。

 五時をすぎると会社帰りの男たちがぱらぱらと来かけて、反対に隠居老人たちが帰り、

客層が入れかわった。

 五時半に、中野がマイクに立ち、

「ツー・ステ目をお送りします。ドランカー・クインテットです」

 と言った。

 しばらく中野はもそもそと屈んだりしていた。

 レスポールを提げた中野は弦をピックでひっかいた。

 ディストーションの効いた短和音の二弦が鳴りひびいた。

『六本木心中』だ。

 店の雰囲気が一転した。

 生ビールがどんどん出る。

 木村真治がサーバーのコックをひねって次々に入れる。

 藤川と竹川がそれを運ぶ。

 柳本はチーズを切ったり、焼き蕎麦を焼いたりと忙しい。

 おれはシェーカーをふる。

 女に抱きつく男。

 手をさすり合う男女。

 頬にキスする男。

 ビールが食道を流れる。

 カクテルが唇に吸い込まれる。

 情欲に合いの手をいれる、森田彦一のフィルイン。

 真冬でも生ビールは出る。

 時代は変わったものだ。

 アキ(池沢瑞樹)は長谷川老人の相手をしている。別のテーブルから、今井満純と松本

若菜がそれを見ている。

 吉田とし子もさらに遠いテーブルからときどき盗み見ている。

 このキャバレーに勤める女は、ここしか働くところがないか、こういう商売が好きかだ。

こういう商売というよりも、この『キャバレー・ウエスト・ムーン』が好きなのだろう。

 今や、東京や大阪では隆盛の「キャバクラ」という種類の店ではない。

 キャバクラはもっと商売に狡猾で、さわいで、客を浮かれさせる。

 客は好い気分になったと思っているが、ただ金を落としにいったようなものである。カ

ラオケを歌ったり、一気飲みをすすめたり、とにかく下品だ。

 ウチの店には、バンドとレコードがある。

 聴く耳をもたない者は寄りつかない。

 名画を観るよりTVゲームをしていた方が有意義だという輩も居る。

 店が客を選ぶということだ。

 女の乳を揉むのは、誰にとっても大事なことだ。しかし客は、音楽も聴いている。

 堺さんが抜けたあと、客脚が鈍った。

 女たちのなかで、結婚しているのは社長をはぶくと吉田とし子(Chika)だけだ。

 夫は、新聞の拡張員をしている。仕事をする時間は特に決まっていない。狩猟型のセー

ルスマンで、成績は優秀だと聞いたことがある。夫は店には顔を出さない。パチンコが趣

味で、酒は家で飲む。

 他の女たちの内、若い者は気楽な一人暮らしだ。

 桜井明子が三十八。山本淳子(ジュン)が四十四。伊集院かなえ(カナ)が四十歳。さ

すがにこの三人は寡婦のような惨めさがにじみ出ている。

 定年はないが、さすがに五十になれば、店に出られないだろう。

 最近の五年間に入れ替わったホステスは二人だけだ。

 (アキ)池沢瑞樹のまえに一人いて、河合愛(アイ)のまえに一人いた。

 どちらも入ってきた娘に押しだされた形だった。令子社長が肩をたたいた。二人とも三

十代前半だったから、今頃別の仕事をしているだろう。

 ホステスが十二人。バーテンダーがおれ。ホールが四人の男でこの店はまわっている。

 建物も土地も令子社長の所有だからテナント料はかからない。

 酒はそれなりに高い。

 ビール大瓶が千二百円。大ジョッキが同じく千二百円。ショットの水割りが大体八〇〇

円から千円だ。

 入店したら自動的にテーブル・チャージがつく。三千円だ。

 ホステスにジュースを奢ったら、一杯、八〇〇円。

 その他に、入店中に演奏があったら、一ステージあたり千円のステージ・チャージがつ

く。

 正午から深夜零時まで開けて、六十人の客があればトントンである。

 三年に一回、内装を少し変える。

 改装するのは、店が生きてる証よ、と、昔令子社長が言った。

 森田の後ろの窓に黄色いライトに照らされて積もった雪が見える。

 この店は坂の途中にある。

 地下一階だが天井が高く、一階部分にあたる位置に格子戸くらいの窓がある。

 翌五日は店は休みだった。

 おれは一人、店に出て食材の仕入れや床のワックスがけをやった。

 休みの日に出勤をたのむと今の若い奴はいやな顔をする。竹川や木村にたのんだら覿面

だ。

 床は燻された木材でできている。適度にしめって黒い。

 昨日ドラムが箱に入れられた。月に四日、まえの月に決められた休みがあって、その前

日、ドラムは一旦、箱に入れられる。

 ボーカル用アンプが、ステージの左右に立っているだけだ。アップライトピアノも布が

かぶさっている。エレキベースやエレキギターはそれぞれ当人のアンプを使う。今は、ス

テージの裏の小部屋に収ってある。ウッドベースもドラムもピアノもボーカル用アンプが

拾う。モニターは使わない。小編成で距離がちかいので充分に聴きあえる。

 三ヶ月がすぎ、四月になった。

 ある日、開店準備中に一人の男が訪ねてきた。

 おれが応対した。

 店で、バンドマンとして雇ってほしいということだった。

 バンドは箱になってるし、メンバーも今は欠員がない、と、おれは話した。

 そちらがバンドとして揃っているならオーディションだけはしていいが、と、おれはさ

らに付け加えた。

 男は、独りだという。

 パートはドラムだという。

 それでは無理だと、おれは言った。

 男は、店は何時に開くのか、バンドのステージは何時にあるのかを聞いて帰っていった。

 丸山トリオの日だった。

 二ステージ目がはじまった九時すぎに、男ははいってきてカウンターにすわり、ジョニ

ー・ウォーカーの水割りを飲んだ。

 吉田とし子(Chika)が男の横についた。

 男はジーンズにチェック柄のシャツ、その上にアイボリーのカーディガンを羽織ってい

た。顔は面長で肌は浅黒く、神経質そうな表情をしていた。目が細くときおり眉間に縦皺

をつくりかけては、それに気づいて意識して表情をやわらげた。

 丸山トリオはチック・コリアの『Return To Forever』を演っている。

 丸山トリオは、第二楽章からはじめた。第一楽章は不気味な旋律で一般には好かれない

からだ。

 第三楽章がはじまると、男はバンドの傍のテーブルに移った。吉田とし子が男について

移動する。

 男はバンドに向かって右手から、森田彦一の手許ばかりを見る。

「お客さん、ジャズ好きなんやねェ」

 吉田とし子がそう言って男の手の平の上に自分の手を重ねる。

 男はテーブルから手を退く。

 店は談笑につつまれている。

 バンドの音は、アンプを通っているのでその談笑が邪魔になることはない。サラリーマ

ンが多い。スーツの上衣を脱いでくつろぐ男たち。

 おれのまえには小岩章吉がいる。書かない日はラストまで居る。

 小岩はフリージャズが好きだ。

 苦悩するように顎で拍子をとりながら山崎の水割りを口中に泳がせている。

『Return To Forever』が終わると、丸山光一作曲のフリージャズを奏した。

 十一時半に演奏が終わり、客はばらばらと帰り、おれはホールの照明を落とした。

 カウンターの照明とホールの弱いナトリウム灯だけになったが、男はまだ帰らなかった。

 男は片づけをしているメンバーたちに寄っていき、森田彦一に向かって声をかけた。

「前島といいます。メンバーにしてもらえませんか」

「楽器は何なの」

 と、森田さんが訊く。

 おれは、カウンターから出てステージに行き、男の肘をつかんだ。

「アンタ、その話しは昼間しただろう」

「いや、いいよ、聞くよ。千田さん」

 森田がそう言う。

「俺、アンタより上手いよ」

 何てことを言う男だ。

「ほなら、一寸、たたいてみて。丸山さん、久米島くん、一寸、この人と合わしたって」

 丸山光一は眉間に皺を寄せる。

 久米島和夫は口を半開きにした。

「何?」

 と、森田さんが訊きながらスティックをわたす。

「ソフトリィー」

 前島がそう言った。

 丸山光一は譜面をめくり、アップライトの前にすわる。

「テンポ?」

 久米島和夫はコントラバスを起こしながら前島とアイコンタクトをとる。

 前島が膝にスティックを打ち降ろし、そのテンポをとって久米島がアフタービートを指

で四回鳴らすと、三人同時に出た。

 しっかりと粒がそろった音だった。

 おれは、なかなかやるな、と思った。

 穏やかにメロディーが流れ、ベース・ソロのまえのドラムのフィルインにはいりかける

頃、森田が手をたたいて止めた。

「はい、やめやめ」

「なかなかやるなァ」

 と、久米島が言った。

「丸山さんは、どう思てです?」

 と、森田さんが訊く。

 丸山光一は、左手で頭をかき、譜面台に右手を当てて肩を張らせながら、

「うーん。上手いのはうまい。けど…」

 森田が、前島のスティックを受けとって入れ替わる。

 椅子にすわった森田は、立った前島を見あげながら、

「アンタ、プロでやっとったったん?」

「はい。東京で、スタジオ・ミュージシャンしてました」

「ポップスとかロックの?」

「そうです」

 森田はタムタムの頭にはいったスネアロール中心のフィルインの一部を叩いて、すぐ止

めて、

「アンタの音は、皆、止まっとんねん。そら、難しいことも出来とるけど、……それはな、

アンタのグリップが握りっぱなしやからや」

 森田彦一は、左手をレギュラー・グリップにしてスネアを一つ叩いた。

「これな」

 もう一回、叩く。

「これな」

 久米島が不思議そうに見ている。

 確かに、一つ目の音は止まっていて、二つ目の音は伸びていた。

「アンタもな、レガートやフィンガーは使いよんねんけど、指三本そえても、二本にして

も、アンタの場合は全部スティックにくっついてもとる。あそびがあれへん。それに、ス

ネアたたくときは最悪や。握りっぱなしで手首で打っとる。昔なァ、おれの先輩にフュー

ジョン畑の人がオッたけど、その人も『打ち抜けてない森田』とか、ずっと、おれにヨッ

たんやけど、打ち抜くんやないんや、ドラムは。打ち抜くんは和太鼓たたくときや。それ

と、意識的に止まっとる音使う場合はある。せやけど基本的に伸びる音で叩かな。ジャズ

はドラム、歌わなアカンわけやから。ホンマの『打ち抜く』いうのは、伸びる音で打ち抜

くんや。アンタの音はデッドや。皆、死んどる」

 前島はジーンズのポケットに親指がかかっている左手を握りしめた。ジーンズに横の皺

ができる。

「俺は、そうは思いません」

 反論できない空気のなかで、前島は言葉をふりしぼった。

「そうかもな」

 そう言って森田さんは椅子から降り、ステージフロアに直にすわる。

「そうかも知れへん。極論いうたら、本人の自由や。好みの問題かも知れへんなァ」

 森田さんのその言葉をうけて、丸山さんが前島の方をみてつづける。

「色んなドラマー、居んなァ。フリージャズとかフュージョンとか。どっちかと言うと、

この人の音は、スティーブ・ガッドっぽいなァ」

「ピーター・アースキンとかな」

 久米島が合いの手をいれる。

「そいでも、ガッドでも、こない音硬いないな。僕はやっぱり、森田のドラムの方がええ

な」

 と、丸山光一が言って、一段落した。

 その後、「まあ、一緒に飲むか」と森田さんが言って、おれと丸山トリオと、前島とで

カウンターにちかいテーブルで飲んだ。

 東京の音楽レーベルに所属し、一流の歌手のレコーディングに参加していたと言う前島。

演歌やポップスの大物の名前も挙がった。

 しかし、或るとき、メンバーにドラムとベースが居ないスタイルの女性ボーカルの有名

バンドのレコーディング費用を魔が差して横領し、金を持ったまま海外へ逃亡。シカゴで

隠れながらも豪遊し二千万を超える金を使い果たしてしまった。

 帰国後すぐ逮捕され、一年間服役。

 刑務所を出ても、東京に行く訳にもいかず、神戸へ流れついた、ということだった。

「苦労しはってんねェ」

 と、おれは月並みな科白を言った。

「寝るとこはあんの?」

 と、森田さんが訊いた。

「まあ、なんとか、ビジネスホテルに」

 うつむき加減に前島がそう言った。

「マスター、ホールで雇たられへんのか」

 森田さんがおれに訊いてくる。

「さあ、本條社長に言うてみな分からないです」

「ホナ、ともかく、明日から、おれの部屋に泊まりィ。ホテルは高うつくから。黙っとっ

てなマスター」

 森田さんは、店とアパートの番号を書き、ビジネスホテルの番号のメモと交換した。

 翌日、おれは森田さんのアパートに泊めることになったことは伏せて、前島のことを令

子社長に相談した。

「会うだけ、会ってみるわ」令子社長が言って、翌々日、朝十時に前島を呼んだ。

 ホステスがぱらぱらと出勤するなか、おれと前島と令子社長はテーブルを囲んで談話し

た。

「貴方、ドラムの他の仕事は、した事がないの?」

「ええ、専門学校でてから、先輩に誘われてレコーディングの仕事をして、それがレーベ

ルのプロデューサーに認められたので、ずっと、この道でやってきました」

「今度は、そういう訳にはいなかいわねェ。東京には戻れないし、森田くんには酷評され

るし」

「そうです」

 前島は背をまるめて小さくなっている。

「前島さん、車の免許は」

「切らしてしまいました。更新、行ってなかったからです」

 令子社長は喫っていたラークを持つ手の親指を頭に当てて少しの間、首を傾げていた。

「よし、それでもいいわ。貴方、ここへお酒入れてる店のトラック、運転しなさい。無免

許がバレないように、やるのよ。教習所に通いながらでもいいわ」

 おれは、心配になって口を挟んだ。

「社長、それ、警察にバレたら」

「バレないようにやってもらうのよ。万が一、バレたときは、ウチが仕事を斡旋したこと

は、絶対に言わないこと。分かったわね」

 前島は手許のコーヒーカップを見て動かなくなった。

「前島さん、この時代に、その歳で雇ってくれるところなんてないよ。四十歳でドラム以

外の仕事ひとつもやった事がないんじゃ、どこも雇ってくれないの、当然でしょ。男はシ

ャキッとする。今、ここに、ロープが降りてきてるんだから、それを掴まなくてどうする

の」

 次の日から酒の配達には前島が来るようになった。

 濃紺のブルゾンを着て黄色いエプロンをつけて中背で骨格のがっしりした前島はビール

ケースを奥へ運んだ。

 おれは不条理を思った。

 おれの様にやくざな仕事でも、おれの場合は不思議と職からはじかれることはなく今ま

でやってこれた。

 森田さんのように、社会の底辺の仕事ばかりやってきた人が、突然、腕を見込まれて好

きなドラムの演奏の仕事に就く。

 片や、前島くんはずっとプロでスタジオドラマーをしていたというのにはじき出されて

酒屋のご用聞きだ。

 おれには、前島くんのドラムが下手だとは思えないのだが。

 森田さんのドラムとは叩き方が違う。だけど、前島くんが下手という訳ではない。

 なのに、令子社長は前島くんのドラムをまったく聴かないで、森田さんの話しだけで評

価してしまった。

 店を終えると岡村多恵という丸山トリオにときどき加わるボーカルの女と外で会った。

 誰にも内緒でおれたちはつき合っている。

 多恵の核心をおれは往復する。

 ときどき多恵の悩みを聞いてやる。

 ーーー私、もう駄目かもしれない。

 丸山さんが「ジャズの世界は、年齢には関係がない」と、多恵を励ます場面を何度も見

てきた。

 身長が百六十は少し切れる骨の太い身体。歌声はアルトで、妖艶な刺激がある。

 ーーーそんな事ないて。

 おれは、そう言って多恵を慰める。

 ーーーメジャーになれなくても、店で歌っていけばええやないか。

 ーーー私、お婆さんになっちゃう。そうなる前に千田さん、結婚してくれる?

 多恵は、おれの上で階段をかけ昇る。

 おれはわざと停まる。

 多恵の眉が中央に寄る。

 苦悩と悦び。

 二十代前半に、単身ニューヨークへ渡り、独学修行をする。が、本番の機会は得ず、シ

カゴに流れつき、さらに田舎のシカゴ近辺の地方都市でバーのウェイトレスをしながら、

ときどき歌う生活を送った。

 とりたてて声量もなく、音程の一部に曖昧な所がある岡村多恵の歌唱では、若さゆえの

美しさが失われれば、メジャーデビューなど無理だというのが現実だ。

 ーーーそんな事はないて。

 おれも、丸山さんも、そう言うしかない。

 多恵は今年、三十四歳になる。

 今日も、『A列車で行こう』で店ははじまった。

 六時をすぎてから、店が混みはじめた。

 バンドは丸山トリオ+岡村多恵だった。

 多恵は、ホリー・コール風に『Round Midnight』などを歌った。

 二組の客は、新人歓迎会のようだった。

 私服の女子社員も数人いる。

 他に個々で来た会社帰りの男が十人ほどだった。

 池沢瑞樹(アキ)は長谷川老人の水割りをつくっている。

 佐江子と若菜(明菜)はサラリーマンの相手をしている。

 吉田とし子、桜井明子、山本淳子、伊集院かなえという年嵩の者たちが新人歓迎会の団

体の相手をしている。

 丸山トリオ+岡村多恵のワン・ステージ目が終わった頃、佐藤正吾、田之上力、中野久

作、神堂留壱が、どかどかとはいってきた。

「珍しいねぇ、非番の日に来るなんて」

 おれはカウンターにすわった佐藤正吾に切りだす。

「いやー、今日は妙なんですよ。仕事帰りにヤマハ(楽器店)に寄ったら田之上と中野が

居てさ、それで、すぐに神堂ともばったり会って」

 十二時に客を帰して看板の灯りを消した。

 ホステスたちがぱらぱらと帰るなか、バンドのメンバーが勢揃いして丸テーブルを二脚

寄せてソファーの配置を変えて全員で囲んだ。メンバーの他にはおれと、柳本と吉川、そ

れにちいママの佐江子が混ざった。

「春はジャズの季節」

 久米島がビールを呷り、中ジョッキを置いて言う。

「何を言う。春は、ポップスの季節やろ」

 田之上がそう対抗する。

「夏になっても冬になっても同なじこと言うやろね」

 森田さんがそうとりもつ。

「あーあ、お宅らええわねェ、専業で。僕ら毎日くたくた、なあ、佐藤さん」

 中野久作が久米島さんと丸山さんの方を向いてぼやく。

「専業いうても」と丸山さん。

「そう、僕らお宅らより貧乏やで。専業なりたかったらなったらええねん」

 久米島がそう返す。

「僕ら、この店でも、週二回しかやらしてもらえへんし」

 と、中野。

「専業いうても、たかがキャバレー」

 丸山さんが呟く。

「音楽で食べていく人は少ないですよ。クラシックでも、N響と読響ぐらいやないですか」

 と、吉川。

「ポップスでも、サザンぐらいか、あと、矢沢さんとかユーミンとか」

 と、神堂が自分の譜面を捲りながら言う。神堂はいつも、楽器(サックス)か譜面をさ

わっている。

「キャバレーの箱バンドでも、一生やれたら僕は本望やね」

 森田さんがエロチックな笑みを浮かべてビールを呷る。

「そう、たかがキャバレー、されどキャバレー」

 久米島さんがそう言った。

「お宅ら、新譜は?」

 中野が丸山トリオの方にそう振ったが、新しく作曲した曲という意味ではなく、レパー

トリーに違う曲を増やすかどうかという意味だ。

「ウチは、スタンダードを増やすだけ。ジョン・コルトレーンとか、ジャンゴとか。そっ

ちは」

 と、丸山さんが中野に訊く。

「ウチは、マイルスとかやろうと思てますねん」

「何、トランペット?」

 と、久米島。

「大丈夫か。止めた方がええよ。マウスピースが小そうなるんやから」

 と、丸山さん。

「森田さん、知ってた?」と、久米島。

 森田さんは笑いながら頷く。

「もう俺、楽器買っちゃったもん」

 そう言いながら中野は足許からケースを出し、金色と赤金色に光るトランペットを腕に

抱える。

 池沢瑞樹と佐江子が瞳を輝かせて身を乗りだす。

「えっ」

 と、丸山さん。

「どこ?」

 と、久米島。

「バック。三十万」

 と、中野は言いながらクロスでベルを拭く。喜色満面だ。

「吹いてみて」

 と、久米島。

 スラーで上がる十六分音符。

「鳴るやん」と、久米島。

「当たり前やん。ペットとボーンは、原理は一緒」

 そう言った中野の後ろでは、神堂が頭を抱えていた。

 全員、大分酒がはいってきた。

「丸山さんの指って、凄く動きますよね」

 と、佐藤正吾。

「僕はジャズ畑やからね」

 と、丸山さん。

「ポップス中心だから佐藤さんのレベルでいいんですよ」

 と、吉川。

「何、レベルとは何だ。仮にも俺は歳上だぞ」

「いや、私は別に、佐藤さんが下手だとは…」

「何? 下手」

 しばらく誰も喋らなかった。

「丸山さんは、突っ込みますよね」

 森田さんが言った。

「ジャズは即興だから」

 と、丸山さん。

「おれ、佐藤さんとやってると楽」

 と、森田さん。

「私は?」

 と、吉川。

「貴方は上手いけど、グルーヴできないねェ」

「そうか」

 吉川は怒らなかった。

「吉川さんは、未だ若いから、技術はあるんだから、経験していけばいいですよ」

 と、森田さんは言った。

 皆、するめイカ等を噛んでいる。

「俺、凄いなぁと思うのは、中野さんだよ。アンタしか居ないもんねェ、メロディー楽器

と和音楽器、両方ともやれる人」

 久米島が酔いで上体が崩れながら手の平を上にして腕を伸ばして中野を示した。

「そうそう」

 と、おれが口を挟んだ。

「丸山さん、佐藤さん、吉川先生はピアノ。久米島くんと田之上くんはベース。神堂さん

は、三本吹くけど全部木管のリード。森田さんはドラム。……考えてみれば、中野さんだ

けですわ。トロンボーンとエレキギターなんて両方やる人」

 と、おれはつづけた。

「おいおい、そんなに持ち上げられたら恐いなぁ。珍しくないよ。だって、他の人も家で

はギターぐらい弾くでしょ」

「プロレベルで、その両方いける人は少ないね」

 と、丸山さんが言った。

「中野さん、コードでも難しいの使うてやし、僕らなんかより曲の飲み込みが早いと思う

ね」

 と、吉川。

「中野さん、曲つくってあげてよ。多恵ちゃんに」

 と、森田さんが言った。

 岡村多恵は上目づかいに中野の方を見る。

「いやぁ、俺は、作曲なんて」

 中野はぎこちない動作でトランペットをケースに収った。

「僕は、森田くんを尊敬してる」

 丸山さんがおれが入れたコーヒーを口にしながら言った。

「森田くんは、タイムキープがしっかりしてるし、細かいスネアもできる。あの前島ちゅ

う奴と比べても、音に命が乗ってる。しかも、二つのバンドの、これだけのレパートリー

にも全然、困らないんだもの」

 と、丸山さんはつづけた。

「森田さん、聞かせてよ。どういう修行をしたんですか」

 と、吉川。

「僕は、別に」

 と、森田さんは照れてうつむきがちに水割りを飲む。全員がほぼ酒は口にしなくなった

というのに、この人は何て酒に強いのだろうか。

「森田さん、お話しして。何かエピソードを」

 と、池沢瑞樹。

「私も、森田さんの話し聞きたい。だって毎回、面白いんだもん。森田さん」

 と、佐江子。

 森田さんは、水割りをテーブルに置くと、煙草に火をつけ、ひと息はいて語りはじめた。

「僕は、ドラムは初めは独学でした。猪俣猛さんの教則本で高一のときはじめました。そ

ん時、同級生からバンド組もうて誘われて、はじめたんです。楽譜は、中学でブラバンだ

ったから読めた。ドラムは初めてやったけど。他の連中がディープ・パープルとか、イー

グルスとかのコピーやってる頃、僕らは、甲斐バンドのコピーからはじめました。そいで

も、高二のとき、僕、大事故やって入院して、そのバンドは一回だけのステージで終わっ

ちゃいました」

 森田は水割りを舐める。

 皆は静まりかえっている。

 久米島は、巨体をソファーに預けて目をつむっている。

「留年して、次の年また留年しかけて、定時制に編入して。そいでも、余計、ドラムは練

習するようになりました。せやって、同級生は大学へ行ったりしょんのに、学力の落ちた

僕は、大学は無理なんが判ってきかけてましたから、フュージョンのコピーなんかするよ

うになって、絶対、何とか音楽で食べていったろう、て、底意地はってました」

 吉川は森田さんの横で煙草を喫って、目は合わせないで何度も肯いて相槌をうっている。

 神堂は、譜面のノートをテーブルに置き、眼鏡をはずしてクロスで拭っている。

「そないしてると、地元の社会人のフュージョンバンドから誘いがかかって、三つほどス

テージ、やりました。結局、半年ほどで辞めたんですけど、そのバンド。ねちねち言う人

がおったから。大体、その頃は、家ではカシオペアのコピーやって、バンドではスクエア

のコピーやってました」

「凄いねェ、それ。まだ十九か二十歳でしょ」

 丸山さんが森田さんの斜向かいからそう言った。

「いえ、カシオペアの方は完璧やった訳ではありません。それに、神保さん自体が、大学

生の頃からあれだけ叩けたんですから。『サンダー・ライブ』とか、凄いでしょ。あれ、

二十歳のときの録音ですよ、確か」

「いやー、それでも、その歳でスクエア叩ける人も珍しい」

 と、丸山さん。

「今やったら、いっぱい居るけどねェ。親に英才教育してもろた、変な子供が」

 と、中野久作が隣のテーブルで水を飲みながら言った。

「そうそう、俺、ああいうの大嫌い」

 と、その隣で田之上が言った。

「何か勘違いしてますよねェ」

 と、吉川。

「小さい頃から詰め込みでやって、本人が嫌やなかったら凄い上手うなる場合はあんねん。

せやけど、それとプロとは違うよな。あいつらは、コピーのコピーして、しかも大人を舐

めてるし」

 と、田之上。

「口の利き方も覚えん内から有頂天になるのが、まず駄目ですね」

 と、吉川は言って、森田さんの方をちらっと見て、

「済みません。つづけて下さい」

 と言った。

 森田さんは自分のグラスに氷を入れながら、

「それから、社会人なって、一年目に家出したんですよ。田舎に居っても埒は開かん思て。

でも、結局、東京行っても、食うだけの仕事してドラムの進展もなくて、体壊して帰って

きました」

 森田さんは、グラスに水を注ぐ。

「田舎戻ってきて、ブルースのバンドに誘われて、あ、その前に、スプラッシュ今井とも

ストーンズのコピーとかやったんですけど。どうも、ストーンズいうのは、しゃくりがあ

るんで、当時の僕ではどう叩いてええのか分かりませんでしたんで、傾向が違う言われて

馘なりましたけど」

「えー、あの、スプラッシュ今井と」

 寝ていたのかと思った久米島が目を開けて掠れた声をあげる。

「まあ、一回だけ、ほんの小さいライブしましたけどね」

「凄いですねェ」

 と、田之上が言う。

 吉川は前を向いてコーヒーカップに手を伸ばす。

「それで、その次のバンド、ブルースのが凄い勉強になりました。ベースのリーダーの人

にえらいシゴかれましてね。音が弱い、言うて。その人、リムショットやないのに、当時

の僕の三倍くらい強い音、出すんですよ。『森田、専門がベースの俺が、こんだけ音でん

ねんど。ドラムのお前が、何で出えへんねん』言われてねェ。僕、その場で何十回たたい

たけど、その人の半分の強さも出んかった。それに、強うたたくと、仕舞いには、バシャ

バシャいうしね。その人のお陰で、半年後には強い音が出せるようになった。それと、後

乗り、いうのんを叩き込まれました。それまで、前乗りとか後乗りとか知らんとやってま

したから。その後、独学だけでは人に勝てんいうのが分かってきて、この神戸のヤマハに

も半年、半年、通いました。あ、僕、神経症があったんで、仕事した上に神戸までずっと

通学してて調子わるくなっちゃって」

「うーー。随分、苦労されてるんですねェ」

 と、吉川。

「君らとは、時代も何もかも違うからな」

 と、丸山さん。

「結局、三十四まで色んなバンドとやって。ジャズのも有りました。ジャズは、尾上市の

バンドと、神戸の教室で習うただけです。だから、未だに、ジャズは僕、不完全でしょ」

「そんなことありますかいなー」

 と、久米島。

「三十四からは、一寸、女の問題で家出して、それからずっと、東京で派遣や日雇いばっ

かりやってきました。僕は、或る程度、腕に自負はありますけど、世の中、上手い人は一

杯いてて、しかも音大出とかコネとか、そういうのないと無理やなァと思いまして辞めま

した」

「あー、勿体ない」

 と、吉川。

「でも、ここに来れて良かったねェ、森田くん」

 丸山さんがたまにしか喫わない洋モクをくわえてそう言う。

「僕の弱点は、左手のオープン・ダブルですねん」

「ええ? そんなん問題ありますか」

 と、久米島。

 森田さんは丸山さんの目を見る。

 丸山さんは見つめ返して微笑しながら、

「うん。だけどエエやん。君は、あのやり方で」

「やっぱり、丸山さんは、お見通しやったんですね。……僕の左手のオープン・ダブルス

トロークには、スピードに限界があります。フュージョンで一流のプレーヤーは、みんな、

ダブルストロークを交ぜたパラディドルがすごく速いんです。カシオペアの神保さんのコ

ピーができないのは、そこです。スティーブ・ガッドもビリー・コブハムも、みんな、オ

ープン・ダブルとか、オープン・トリプルが、両手とももの凄く速いんです。僕は、そこ

がどうしても無理なんで、プロを諦めたんです。せやけど、プロでも、左手のオープン・

ダブルが遅い人も居ます。そういう人は、或る程度の速さに来たら、クローズ・ロールに

切り替えてるんです。僕もそうです」

「だけど、クローズ・ロールで、あれだけ長くひっぱれれば、オープン・ダブルの速いの

が無理でも問題ないように、ワシは思うな」

 丸山さんが煙を吐きながら、そう言った。

 高い天井の、地上の位置にある小窓が色を持ちはじめた。

 壁の時計を見るともう少しで六時になろうとしていた。

「一寸でも寝に帰るわ」

 中野がそう言ってドアに向かう。

 佐藤、田之上、神堂も店を出た。

「僕も一旦、帰ります」

 と言う森田さんについて、池沢瑞樹も出ていった。

 佐江子は、

「あと、頼みますね」

 と、おれに言って出ていった。

 久米島は、ソファーに沈みこんで寝ている。丸山さんは紫煙をくゆらせながらぼおーっ

としている。

 丸山トリオは、今日は休みの日だ。

 おれは大きなゴミを片づけ、テーブルを拭いた。茶器は後だ。徹夜あけは神経が冴えて

いる。

 吉川は、膝に肘をついて前屈みのまま固まっている。

 此奴もフリーランスだなぁ、と、おれは思った。

 ドランカー・クインテットは、生業は勤め人の兼業バンドマン。丸山トリオは専業だが

キャバレーに囲われた飼い殺しのバンドだ。

 森田さんも同じことだ。

 一方、おれはバーテンダーだが、たまたま今はここに流れついてやっている。もし他か

ら話があれば動くかもしれない。

 吉川も、ピアノの腕一つで、頼まれればどこでも演奏する。

 森田さんはもっと横柄になるべきだ。

 あれ位の腕前ならば、世界旅行しても職に困らないだろう。

 九時まえになると皆どうにか起きだし、店を出ていった。

 店の玄関を閉めて、五十メートルほど坂を降り、薬局でリゲインを買ってその場で飲ん

だ。

 四十九という歳で徹夜はきつい。

 神戸の街はいつものように活気づいている。大通りを行き交う車。何重にも重なる話し

声。緑とアイボリーのツートンカラーのバスが走り、郵便配達の赤いバイクが坂の迷路を

縫ってはしる。ビジネスホテルから出てくる正体不明の人物たち。大人しい色の薄手のジ

ャンパーに、コールテンのズボンを穿いた五十代も居る。片や、オンタイムの営業マンた

ちはアイロンのぴしっとかかった濃紺のスーツを着てアタッシュケースを提げ二人一組で

歩いている。

 おれには、この喧騒が心地よい。

 桜の花弁が風に吹かれて舞う。

 その風には海の匂いが混じっている。

 九時半ごろから皆がぱらぱらと出勤してきた。

 柳本と藤川、それにアルバイトの竹川浩之と木村真治が掃除をはじめた。

 灰皿を片づけ、テーブルを拭く柳本はさすがに辛そうだ。

 ホステスたちも次々とはいってきた。佐江子が十一時直前に来てミーティングをはじめ

た。

 十一時半頃、ドランカー・クインテットの面々がどかっとはいってきた。

 中野は目をしばたたかせて自分の頬をたたいている。

 森田さんは意外に元気だ。

「寝てねェー」

 と、ミーティング中のおれの傍に来て言う。

 息が酒くさい。

 中野がトランペットを出して、バンドはリハーサルをはじめた。

 十分ほどして、森田さんがカウンターに来て、

「悪い、千田さん、水割り頂戴」

 と言う。

「迎え酒ですか。大丈夫ですか、演奏」

「大丈夫、大丈夫。俺は飲んでもビートは狂わへんから」

 ホステスの待機テーブルから佐江子が見ている。何か言いたそうだった。

 令子社長は、今日は来てないが、彼女が来てても森田さんの飲酒は止めたりしないだろ

う。

 森田さんの後ろから中野が来て、

「マスター、俺にも水割り頂戴」

 と言った。

 猫背になって、足許がふらふらしている。

「おい、大丈夫か、中野くん。森田さんは飲んでもええ思うけど、君はやめといた方がえ

えんとちゃうか」

 佐藤、田之上、神堂はステージで楽器をさわっている。彼らは特に酒好きという訳では

ない。神堂に至っては、ビールですら舐めるようにしか飲まない。

 バンドはその後、五分ほど打ち合わせをやった。

 正午になった。

 柳本がターンテーブルの針を降ろす。

 ーーー『A列車で行こう』ーーー

 今日も、キャバレー・ウエスト・ムーンは開店した。

 外の明るさが弱くなっていった。

 雨が降りだした。

 天井に近い小窓に雨滴が、内が曇ってきた。

 長谷川老人を含めて三組の客がはいっていた。

 森田さんはおれたちによく驕ってくれる。

 柳本とおれと中野をつれて、オフの日に焼肉店に行ったり、閉店後、深夜営業している

ラーメン店に行ったりした。いつも快活な森田さん。一度アパートへお邪魔したことがあ

るが、その時はすき焼きを創ってくれて二人で飲んだ。池沢瑞樹が、どうやら森田さんの

アパートに出入りしているようだ。瑞樹の森田さんを見る目はとろんとしている。

 瑞樹がたまに、森田さんのことをおれに話してくれることがある。性技が上手くもう離

れられないのだそうだ。

 森田さんは高校生のとき、体育の授業中に内臓破裂し、緊急に手術して大量に輸血した

らしい。その所為でウィルス性肝炎に罹り、今も肝臓の状態がよくないらしい。γーGP

Tという肝機能を表す数値が常に100を超えているらしい。おれは気になって医学書で調

べたが、その数値が200を超えれば仕事など出来ない位の体の怠さになるらしい。自殺未

遂をして腰の肋骨突起を二本折っているとも聞いた。神経症は今は治っているらしいが偏

頭痛がひどいらしい。右手の小指が第二関節より先がない。そのことについては正確な経

緯をおれは知らない。瑞樹にも話さないらしい。ステージが終わればいつも浴びるように

酒を飲む。大丈夫なんだろうか。

 三時になり、ドランカー・クインテットの第一ステージがはじまった。

『イパネマの娘』からはじまって、スタンダードを三曲、メドレーで通した。

 中野はギターを弾いていた。

 中野はごそごそと動いてアンプの電源を切り、トランペットを出してきた。

『Moon River』を吹きだした。

 流石に、いきなりマイルスをやるのは気恥ずかしいらしい。

 客が増えてきた。

 今日はどうも、会社員とは思えない趣味の団体が二組ほどはいっている。

 カジュアルの肩提げ鞄を持った連中がパンフレットのような紙束を出して喋っている。

もう一組は、肩提げ鞄のほかに首から写真機を提げた奴が多い。皆、レンズの大きい写真

機を提げている。一眼レフ・カメラというのだろう。観たところデジタルカメラが多いが、

スチール・カメラの奴も居る。誰も演奏なんか聴いていない。

 好い感じだ。中野。客がこれだけお前の演奏を意識しないということは、安心して流せ

るバックグラウンドミュージックになっているってことだ。

 その後も中野は、スタンダードな曲をつづけた。

 別に、トロンボーンでもいいのに、とおれは思う。

 トランペットに持ちかえてから四曲目で、中野は音が掠れだした。どうにか仕舞いまで

その曲をやると、ドランカー・クインテットは環になってわさわさと打ち合わせをしかけ

た。

 会社帰りのサラリーマンが続々と来て、店は人が動きにくくなった。

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今年もお世話になりました。(エエ~、まだクリスマスも来てないのに…) [近況…]

 家族に頼まれて、年賀状を印刷しています。

 表書きも頼む、と頼まれて、引き受けたはいいものの、郵便番号やら住所やら登録しなくてはいけないのでてんてこ舞いです。

 今年は、何と言っても、一時完全にブログを閉鎖してしまって、URLを変えてしまったので、その後お客さんを取り戻すのが大変だったということが言えます。

 年末の忙しいなかで、友人の家に寄る途中で、虹を発見しました。

 昨日か一昨日の写真です。

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 忙しいなかでの、心あらわれるひとときでした。

 来年は卯年。

「兎」の検索でいっぱいひっかかってくれると有り難いのですが……。

 

 原稿の方は、現行の執筆中のはまだ完成していません。

 来年の一月末ぐらいに、一応脱稿かな。。。

 

 コメントを、ソネットブロガー以外受け付けない設定にしていて済みません。

 みなさまから、沢山のコメント書き込みをされている状況をアクセス解析で確認しております。

 来年も、よろしくお願いしますね。(って、まだ早いか)

 では、また、年越しの折に。。。(^。^)


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