So-net無料ブログ作成
検索選択

『意識としての自己(自己意識研究序説)』読了(追記あり) [最近、読んだ本]

 梶田叡一さんの、『意識としての自己(自己意識研究序説)』を読みました。

意識としての自己―自己意識研究序説 (自己の探究)

意識としての自己―自己意識研究序説 (自己の探究)

  • 作者: 梶田 叡一
  • 出版社/メーカー: 金子書房
  • 発売日: 1998/11
  • メディア: 単行本

 例によって、感想は、追記をお待ちください。

 

   追記・感想

 

 ますは、どこまでが「私」と言えるのか。

 私に関わっている家族・友人を貶されたとき、わがことのように心が痛む。また、私が

所有している物を毀されたときもショックを受ける。「私」のこだわりが及ぶ心理的領域

全体を、「私」と定義することができるのではないか。しかし、これは結論が出ていない。

 私自身の意識は、本当に私自身が作りだしているのだろうか。何か大きな力が自分に働

きかけて、さまざまな思いを自分の頭にもたらしているのではないか。

 私とは、「一般者」を構成する一つの装置にすぎないのではないか。「一般者」とは、

大自然とか、世界とか、神仏と仮定できる。

 幻想としての主体性。風鈴が鳴っているのを聴いて、その音が存在するという現象は、

風が鳴らしたからではなく、鈴が鳴っているからでもなく、「私」の耳が聞いているから

でもない。風と鈴という事象と、「私」の意識と名づけられた心象との出会いの世界にお

いて「鈴の音」という現象が成立している。禅宗では、これを、「鳴鳴なり」と言う。

 

 アイデンティティの基礎となっているのは、何よりもまず、その人の記憶。我々の記憶

は、それを自分自身を主人公とした一つの「物語」に仕上げている。【本文引用】

 アイデンティティ=基本的自己規定。

 個体識別にかかわるラベル。名前、性別、年齢、性格や行動特性など。

 社会的な位置づけ・役割にかかわるラベル。家庭内での位置。地域社会での役割。趣味

やボランティア活動等にかかわる位置・役割。職業と所属組織・階層。政治組織、宗教団

体等々といった社会的集団とのかかわり。

 この著作以前の他の著作物では、アイデンティティを語るとき、上記二つの概念までで

終わっていた。しかし、この本の著者は、さらに一つを付け加える。

 それが、「宣言としてのアイデンティティ」である。

 本来、自分「私」は、こうありたい、という姿を、周りに打ち出していく。職業などで

も、自分から宣言する。しかし、現実と乖離しすぎていれば、それは誇大妄想と周りに受

けとられるだけになるので、自身を見極めることも大事であり、スキルを先に身につけて

おくことも大事である。性格などでは、本来の自分のありたいように周りに宣言して、宣

言することによって、ありたい性格に自分を変えていく。そういうアイデンティティだ。

 宣言としてのアイデンティティでは、しばしば周りの求めるアイデンティティと齟齬が

生じてしまうことがある。主婦でありビジネスパーソンでもある女性の場合、子供のこと

を第一としないで仕事を優先させていると、世間は、「あの人は、やるべきことをやって

いない」と評価したりする。子どものことはホームヘルパーに頼んでいる場合でも、そう

いう批判を受けるのだ。宣言としてのアイデンティティでは、周りに理解してもらうこと

も重要だし、難しい。

 他者の「まなざし」は、単なる行きすがりの人からのものなら、そんなに気にならない。

親、教師、上司など尊敬している人や世話にならざるをえない人の持つまなざしは、非常

に気になる。そのような人のことを、「重要な他者」と呼ぶ。

 本文では、こう語られるが、私の場合、重要な他者のまなざしも、さほど気にならない

が、と思った。大切なのは、自己を客観視して査定する目であり、認めてもらうべきは、

人ではなく神、と日頃から思っているからだ。

 自分とは何者なのかとか、他者が自分をどう見ているかといったことがまったく問題に

ならない時がある。気持ちに充実感があって、そうなるときのことだ。本来の自分に落ち

ついた感じがあって、自然な形での自信があり、内奥に力がこもっている。

 人の心も、その外側の表情だけでは見抜けない。

 人とのコミュニケーションをとる場合、客観世界というのは、実はない。「銘々持ちの

現実」と「銘々持ちの客観世界」があるだけなのだ。つまり、五感をつかって脳に再現さ

れた、それぞれの世界しかないわけである。内面世界であっても、外的な世界であっても、

人の意識によって捉えられた世界なのである。

 生命の受け継がれる大きな流れのなかで、個人の生は、小さな泡とも言える。

 

 同じ物事を見ていても、個人によって捉え方が違う。話してみると、他人と自分との世

界の捉え方の違いに気づくこともある。あくまでも、自分の認識する世界こそが正しいの

だとして、他者の認識する世界を拒絶する。これが第一段階。

 自分の理解と他者の理解とに差がある場合、「皆の世界」というものを、理屈では納得

いかなくてもその通りに受け止める。そういう生き方もある。しかし、自分にピンとくる

もの、自分を充実させるものが毎日の生活の中で積み重なっていくことがないと、味気な

い生活になる。「私の世界」か「誰か特定の人の世界」か「世間とか社会一般と言われて

いるような世界」かに、依拠して考えていこうとする。これが、第二段階の生き方。この

場合、自分の認識する世界に依拠する場合はいいが、相手や社会の認識する世界に、理屈

なく依拠する場合は、虚しさを覚えることがある。

 第3段階は、各自の多様な世界をそのまま認めて生きていく、という生き方。

 「私の世界」を大事にするということは自己主張することである、「あの人の世界」「皆

の世界」を大事にするということは自己主張を捨てることである、と単純に考えるとすれ

ば、それは全くの誤りである。例えばここでの第3段階、自分と他の人の世界との異質性

を鋭く意識している場合、それだけ余計に、自分なりの見方、考え方を語っていかないと

いけない、というパラドックスもまた存在するのではないだろうか。【本文引用】

 上記の三つの段階は、どれが成長した姿だと決めつけることはできない。

 異質な世間や社会の共同体的なイメージを意識せざるをえないにしても、それと同時に、

自分の中にある自分自身に固有の実感・納得。本音の世界を強く対置することを怠っては

ならない。そうでないならば、外的な他の人の世界、一般的な世間の世界に追随していく

だけになって、どこにも「私の世界」が生きてこないということになる。【本文引用】

 音楽でも、スタンダードなクラシックこそが高級で、という世間的な思い込みに踊らさ

れて、無理してそういう物ばかりを聴くというのも、気の毒だ。音楽は単なる教養ではな

く、自分に内的充実のある時の流れを与えてくれるもののはずだから。自分のピンとこな

くては、自分をワクワクさせるのでなくlては、どんなに評価の高い音楽でも無益である。

「皆の世界」ばかりでやっていくと、自分自身の内側の「私の世界」が見えなくなってし

まう。【一部本文引用】充分に納得のできる「私の世界」をまず、土台として持ち、それ

から「あの人の世界」「皆の世界」をも受け入れることが大事。

 

 自分が本当に一貫して自分である、自分は独立の主体として確固として存在する、とい

った点について揺るぎようがない確固とした根拠があるのかというと、本当は根本的な疑

問がある。見方を変えて考えてみると、こうした思いこみは全部打ち破られてしまう。

 言葉は、大脳中枢によって自動的に紡ぎ出されている。大脳中枢も声帯も、自分でつく

ったものではない。

 ゲマインシャフトとゲゼルシャフトがある。親しい家族や友人といった一次集団のなか

のアイデンティティと、その範囲を超えたもっと広い社会でのアイデンティティがある。

 社会的アイデンティティだけで生きていると、例えば大会社が倒産した場合、その社員

と家族はアイデンティティを失う。

 高い社会的立場にある人が、生きていく意欲を失って自殺する。これは、アイデンティ

ティの主体的根拠がないから。第3段階の宣言としてのアイデンティティを打ち出して生

きていくことが出来なかったからだ、と。

 垂直の軸とは、真・善・美・聖など、絶対的な何かの価値に触れあっているということ

で自分に意味を持つ。

 水平の軸というのは、人との関係のなかで得られる充実感、意味感ということ。

 このどちらかが、まったく無い状態では、自己のアイデンティティに充足感を得られな

い。

 あらゆる肩書き抜きに、コミュニケーションをとるのが、茶道の茶室。一人の人間とし

て、向き合う、一期一会を愉しむ。

 前アイデンティティ、超アイデンティティ、脱アイデンティティ。

 「私は**である」ということを全然考えない状態が、前アイデンティティ。

 「私なんて何者であってもええやないか」という気持ちになっている状態を、超アイデ

ンティティと言う。

 何かに没頭したり、大恋愛をしているときに、自己概念が脱落してしまう。これが、脱

アイデンティティ。

 人間というのは、個人は、いずれ忘れ去られる。脈々とつづく血族のほうが、生命の流

れとして確実につづいていく。一個の人間は、そのなかの泡だと考えるとき、超アイデン

ティティの気持ちになれる。

 困ったアイデンティティとは、外側との関係ばかりで自分のアイデンティティを作る。

とか、複数ある自分のアイデンティティの、どれが自分のコアになっているアイデンティ

ティかが分からなくなる。など。

 望ましいアイデンティティとは、「自分は、**である」と考えたとたんに、全身の力

が奮い起こされるということでなくてはならない。内的エネルギーが出てくるということ。

それは、外側からの社会的立場の位置づけによるアイデンティティの場合もあるし、自分

からの宣言としてのアイデンティティの場合もある。

 アイデンティティは、もともとは物について言われていた。A=Aであること。これの

証明が、難しい。ぬいぐるみを例に出して、そのことを語られる。そこから敷衍すると、

人間の場合のアイデンティティも、正確には証明しにくい場面があると言える。

 自己概念にはいろんな領域があって、簡単には統合しないほうがいいだろう。【リンヴ

ィル(心理学者)】たくさんの領域を自由に持っていると考えると、例えば社会的に拒否

されたり挫折したりした時に、ストレス拡散になって全体に影響を及ぼさないで済む。

 

 後半には、対談も掲載されていて、本編ともに考察が深く、常人では、著者がやっと掴

んだ答えと同じ地点を理解することが難しいので、本編紹介の詳細は、本編に譲る。

 三つの種類のアイデンティティ。個体識別として、社会的立場を表すものとして、自己

による宣言として自己の在り方を規定するものについて、も、そういうものがないと、人

間は自尊心を保てない。また、幸福かどうかも、アイデンティティの在り方にかかってい

るとも言える。

 超アイデンティティは、様々な事柄を経て人生を半ば生ききったあとに、自然な形とし

て持てるものだろう、と思う。

 また、クローン人間をつくって、そこに、その人の記憶をすべて植え付けると、元の人

とのアイデンティティの差は、あると言えるのだろうか、という問題もある。

 地球上に居る人間に、それぞれのアイデンティティがあり、アイデンティティがまった

く同じ、という人間は居ないのだ、と改めて思った。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 2

さざんか

いい天気だね。最近人間関係はどうなのかね。うまくいってるのかね。
by さざんか (2013-03-07 20:15) 

山雨 乃兎

>さざんかさん
つき合いを切った人たちとは、それっきりですね。
家族とは、良好。図書館職員やスーパーの店員とも良好ですね。
by 山雨 乃兎 (2013-03-07 21:27) 

トラックバック 0