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『光あるうち光の中を歩め』読了(追記あり) [最近、読んだ本]

 トルストイの『光あるうち光の中を歩め』を読みました。


光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

  • 作者: トルストイ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/05
  • メディア: 文庫


 原始キリスト教が理想とする生活とは、どういうものなのか、小説形式で語られる哲学です。


 読了とは言うものの、トルストイが述べたい内実はどういうことなのかは、僕には咀嚼しきれませんでしたが、感想として書きたいと思います。


 例によって追記で感想を挙げますので、しばらくお待ちください。


 


 追記・レビュー


 キリストの弟子の弟子が存命で、キリスト教徒が共同生活をしていた時代。各地に伝道に明けくれた時代。物語は、そういう時代設定です。(ローマ皇帝トラヤヌスの御代)


 キリキヤの国(ちょっと現在の国名がギリシャなのか違うのか、浅薄な僕には分かりませんが)、タルソの町にユヴェナリウスという裕福な宝石商が住んでいた。キリキヤの国はローマの法の下にあったがユヴェナリウスにとっては、その法も皇帝の行動も正義とはかけ離れており、納得のいくものではなかった。しかし、同時に身の安泰のために敢えて既成の秩序に生きていた。


 ユヴェナリウスは四人の子をもうけたが、三人は幼い頃に病死し、残ったのは、ユリウスという一人息子だけだった。


 このユリウスが主人公。


 彼は、十五才のとき、父親の導くままに哲学の門をくぐる。(或る哲学者のもとへ修行にいく)その時、父が或る奴隷の倅、パンフィリウスを供につけてやる。


 二人とも品行方正で学問は優秀だった。


 あと一年で学業を了えるという時期、パンフィリウスは、家庭の事情で引っ越すやもめの母の面倒をみなければならなくなったので、ダルナの町へ引き揚げる。


 二年たったある頃、ユリウスとパンフィリウスは偶然に再会する。


 聞けば、パンフィリウスは、キリスト教信者となり、信者同士で共同生活をしているという。この時代、キリスト教徒は、大いに迫害されていた。信じているのが露見するだけで、獄に入れられ、改心しないと死刑に処された。


 だが、ユリウスは彼の話を聞くうち、その共同生活が人間の理想を現実化した生活のように思われた。しかし、同時に欲を否定して自己欺瞞を貫いているものにも思えた。(この辺は、僕の解釈ですが)


 そして、パンフィリウスの共同生活をしている所に一度伺うよ、と言ったが、実際には行かなかった。


 全編を通して、四度(自己の内心だけの決意を含めて。*正確ではないかもです。原文をお読みください)、ユリウスはキリスト教信者たちのもとへ行こうと、心揺り動かされるが、四度目にやっと行くことになる。それまでの彼の人生の変遷を追ったのが、この作品です。


 キリストの御言葉どおりに生きるのか、そうでないのか、という、極論的な展開になっています。


 共同生活では、私財を誰ももたない。全てのものは教会の人間のもので、個人の持ち物ではないという考えであります。これは、良き心が宿っているなら、もっとも理想的な共産制の社会です。


 キリスト教に共感した者が、信者になるとき、一切の財産を共同体に寄付する。


 家族の一人が信者となっている場合、家族は息子や夫、或いは妻を不憫に思って物を持ってくる。当人のために。しかし、信仰が確立している当人は、それを全部、共同体に与える。


 そういう訳で生活が成り立っているのです。


 共同体の伝道以外の面は、野菜や果物を栽培して、一般の人に売って、必要な財貨とする。


 しかし、今の僕には、少し極論的に感じました。全ての人がキリスト教に改宗した場合(もちろん、この共同体の時代の伝道でですが)、商品や製品として精度の高いものを作る人が居なくなります。それも、共同体に工場まで作るやり方もありますが。


 物語は、ユリウスがキリスト教徒のもとへ行こうと、二回目、三回目に決心したとき、或る壮年の紳士に出会い、ことごとく説き伏せられ、気持ちを変えさせられてえしまう、という事を繰り返します。


 ユリウスというのも、宝石商の息子で、学業を修めてからは、数年、享楽に耽ります。


 父が懸命に貯めた財産も、息子の手からこぼれおちていくという始末です。


 この時代、社会的には労働というのが全ての人の義務ではなかったのかも知れない、と読みとれます。


 二回目の決心を妨げる壮年の助言によって、彼は、父の勧める相手と結婚し、事業に精を出します。


 そして、今度は息子の反抗です。


 父と同じ轍を踏んでいます。


 社会的に成功しても、結婚して子供を育て上げても、実は、自分が望んでいた世界はそんなものではなかった、と分かって、4度目の改心のときに、共同体に行きます。


 パンフィリウスと再会して、何か自分の手に合う労働をさせてください、と頼むと、当分、他の人達のやっていることを見ていればいい、(と共に、今までの人生を悔い改めるように、とも)言われます。


 共同体にはぶどう園があって、彼も収穫を手伝おうとしますが、第一の園(立派な房が沢山実っている)も、第二の園(少し質は落ちるが実がたくさん実っている)も、信者が対になって仕事をしていて手伝わせてもらえません。第三の園に辿りつくと、そこは実のない荒れた蔓だけの園。「ああー、俺の人生もこのぶどう園と同じだ。若いうちにここに辿りついて(自ら求めて)来ていれば、収穫は有ったかもしれない。しかし、もう遅い」と言って嘆いていると、老人が出てきて、そんな事はない。神の役に立ったかどうか等、神の前には誰も大差ない、というような意味の事を言います。「働きなさい、労働は喜ばしいものじゃでのう」(本文引用)と諭され、園をよく探してみると、数は少ないが立派な葡萄があるにはある。


 そして、彼は、その後二十年、兄弟(キリスト教徒同士(同志でも意味が重なってこの場合同じことですが))の為に労苦し、喜びの中を生きた、というお話しです。


 ユリウスが数度、信者たちのところに行こうとして、心変わりしてやめてしまう、というのは、それと、ぶどう園の実の描写は、聖書のキリストの言葉、よき土に落ちたよい種、という喩えからきていると思われます。すなわち、かたくなな心の為に神の言葉を聞いても悟らなかった。世の愉しみから離れられず信仰を全うできなかった。人の声に説得されて自分の正しいと思う方向に行けなかった。


 最後に、使徒行伝を現在読んでいますが、このトルストイの『光あるうち光の中を歩め』で描かれているのと、決定的に違うところは、神癒のことが出てこない、もし書かれてあったにせよ、記述が弱い、という事です。


 


 キリストが生きて居られる時代のキリストご自身も弟子も、数々の神癒と奇跡を行いました。


 キリストが磔刑に処されてから、復活の姿で弟子たちの前の現れなさった。その後、四方八方に散り広がりながら、弟子達は伝道します。それが成功したのは、病人を癒し、悪霊を追いだす、ということを神の力によってやったからです。長年、歩けなかった人が歩けるようになった、その喜びはいかばかりでしょうか。それだから自ら寄付や献金や財産を与えるなどという事が自発的になされたのです。
 そこに、言及していない点が、少し残念ではありました。


 以上、僕に纏められるかぎりの書評でした。


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世界古典文学全集 24‐A
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