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『癈人つくりて…』上巻 [自作原稿抜粋]

【この作品は、サイマリンガル社の『第3回世界で一番読みたい小説グランプリ』の最終選考に残り、審査対象となりました。「該当作なし」という結果で、惜しくも受賞には至りませんでした】

【この作品はフィクションですが、多分に、著者の実体験に基づいています。精神科に入院するということを考えられている方、やめてください。酷い目に遭いますよ。
受診・通院は善いのです。きちんとした処方を受けることは大事です。

でも、入院だけは避けてください。

一旦入院すると、二年から五年は出てこられません。誇張でもなく現実です。医師と家族の意志によって、入院期間は決められると表向きにはなっていますが、実際は医師の一人舞台です。眠れないからと精神科を受診する方も、「自分を認めてくれない他人が多いから、遠くの親戚もないから」そういう理由で精神科のベッドに逃げ込もうとする方も、その選択は大きな間違いです。長く出してもらえませんよ。実質上、拉致監禁と同じです。自傷他害の懸念がなくなるまで回復していても無駄です。だって、一人の医師の判断ですから。言いくるめられてしまいます。絶対に入院措置はとらないでください。20年以上入院なんてざらです。そうなると、生きる意欲も薄い人間になってしまいます。何故なのか、それは医療費のパイが、医師が欲しいからでしょう。本作品中に書かれているエピソードは一部事実です。どこまでが事実かは述べるわけにはいきませんが、精神科に入院すると碌でもないという事を判ってください。刑務所や拘置所よりもきついですよ。】

 注意! この作品は、十八歳以上の読者を対象にしています。

   『癈人(はいじん)つくりて…』ーーー上

「賢治! やめるんだ!」

 

 

 俺は、そう言って弟の腕を剛く掴んだ。

 

 

 兄に従った弟だったが、その顔色は蒼白で覇気をすっかり失っていた。

 

 

 俺の弟、黒岩賢治は、俺とは四つ違いの社会人で、この四年間地方都市であるこのT市でゲリゲ

 

ンという製薬会社の地方工場で製造ラインの課長職につき、その実質的責任者を入社三年目の昨

 

年からしている。

 

 

 その彼に、一体何が有ったのか? 家族である俺にも推測しかできなかった。昨日の夕方、やけに

 

静かだと思って彼の部屋を覗くと、天井に荷物梱包用の紐を括り、まさに首を吊ろうとしていたのだ。

 

 

 総てを後回しにして、俺と母は、今、彼を病院に運んでいる。

 

 

 会社が、会社に、……兄さん! 会社に連絡を……、今、休む訳には……等と、賢治は、俺の車

 

のなかで洩らし続けたが、そんなことは事後処理で充分なのだ。死ぬ程、苦しんでいるのに仕事も何

 

も有ったものでもない。

 

 

 精神科に診察を受けに行く、という事が、自分達とは一生関わりがないほど遠い世界の事と思って

 

いた俺だが、世間的体裁などもうどうでもよかった。

 

 

 賢治は、ときどき俺に停車を催促した。三十分に一度くらいの割で嘔吐するのである。この半年ほ

 

どの間に10キログラム近く彼は痩せた。昨夜は、一睡もできなかったらしく、水分だけでも嘔吐を繰

 

り返す始末だった。現に、さっき喜んで飲んだペプシコーラも吐き出している。スペシャルGTカーのシ

ルビアの助手席布シートは、きぶい匂いの溶液に侵され、一瞬で女を誘えない車になってしまった。

 車で一時間懸かって栗山病院という大きな精神科の病院に着いた。

 電話であらかたの予約めいた事をしていたにも係わらず、診察の呼び出しが掛かるまで

二時間強待った。

 その医者は、まず、自己紹介した。

「精神科医の吉川と言います。」

 四十代前半といった処だろうか、体力を使わず、学問的な仕事ばかりやってきた人間に、

俺の目からは見えた。躯は細く、顔も面長で、青白い。

「こちらには、どなたかのご紹介で?」

 と医師は訊いた。

 俺は、昨日、弟が、急に首を吊ろうとしているのを見て驚き、旧知の先輩の萩原さんか

ら彼も通っていたこの病院を思いだしてここに連絡をとってやってきた、と手短に話した。

「弟さんの病状に最初にお気づきになったのはいつ頃ですか?」

 俺は、家族には、昨日の発作的な自殺未遂があるまで、全然判らなかった。彼の悩み自

体は、もう少し前から有ったのかも知れない、と言った。

「失礼ですが、お兄さん。ご家族に精神的なご病気になられた方は、例えば、お爺さんや

お婆さん、または、従兄弟や叔父さんとかにいらっしゃいますか?」

 俺は、居ない、と言った。しいて言えば、病気ほどではないが精神的に弱いのは、この

俺自身くらいだ。

「それでは、色々とテストやカウンセリングをしますので、お兄さんとお母さんは、待合

い室でお待ちください」

 と、吉川医師は言って、俺たちに退室を促した。

 他にも大勢の通院患者が居たにも係わらず、賢治の診察には、約一時間半ほど掛かった。

 その間に、看護師が、俺と母の処に来て、時間が掛かりますので、よろしけば昼食を摂

って来てください、と言った。

 俺たちが、近くの食堂で親子丼を食べて帰ってくると、やっと賢治の診察は終わり、俺

たちは、診察室Bに通された。

「弟さんのご病気は、鬱病です。ただ、何が根本的原因になっているのかがはっきりしま

せん。お仕事の事は大きいと思います。しかし、直接の原因がそのお仕事の事とは、思え

ませんし、……勿論カウンセリングもしましたし、……けれども、今の処は、原因がはっ

きりしません。……ご存じかも知れませんが、鬱病の場合、ご本人も気づいていない事が

原因で、それが判らない事も多いのですよ。」と言って、医師は、今書き込んだばかりの

カルテに、一旦、目を移し、それから、ゆっくりと顔を上げて、俺の方に視線を合わせて

続けた。「どうでしょう。一旦、入院されては? ご本人も死のうとなさるくらいですか

ら、決して病状は軽くはないのです。幸い、今は、向精神剤という薬も殆ど副作用の無い

ものが主流ですし、鬱病は、緊急避難的な意味では投薬治療は、功を奏するのです。・・

・そして、入院中に原因がはっきり掴めれば、根本的にも治す事はできます。」と言った。

「そうですか、それなら、そうさせてもらおうかなあ、お母さんもいいだろう。……それ

より、賢治は、それで、いいのか?」

 と俺が言うと、

「僕は、会社の事が……」

 と、弟は言った。

「仕事は、治ってからでも、何とかなる。健康に成れば、他の仕事にだって就けるかもし

れんし」

 と言って、俺は、賢治を宥めた。

「焦るな。まだお前は若い。」

 と、俺は賢治を諭した。

 賢治は、今年の誕生日で二十九で、まだ独身だった。

「それでは、こちらの任意入院同意書に、賢治君と、身元保証人の所にお兄さんの署名を

お願いできますか」

 と、細い医師は言った。

「それでは、病室に行きましょう」

 と、吉川医師が言って、俺も母も賢治と一緒に付いて行った。

 新館棟は、五階建てで横に広くかなり大きかった。俺たちは、その途中で九十度に折れ、

旧館棟に入って行った。二階の渡り廊下を過ぎて、エレベータに乗り込む。看護師一人と

医師と賢治と俺と母が乗れば、そのエレベータはもの凄く窮屈になった。

 三階で降りる。

 人が一人しか通れない通路を通って、三階病棟のナースステーションに入った。カルテ

が営業台帳のような厚さで作られていてそれが丸テーブルの上に回る三百六十度から差し

込む本棚になっているところに詰め込んであった。

「ここからは、ご家族は入れません。」

 吉川医師は、そう言うと次の透明なドアを押して、賢治と一緒に次の部屋へ入っていっ

た。

 今まで俺たちと一緒に来た看護師が、身を返して、

「ここは、閉鎖病棟なんですよ。どなたが入院なさっても、初めはこの閉鎖病棟から、さ

らに、初めはその奥の保護室からスタートして戴きます。」

 と、言った。

 二十代後半の柔道家のように屈強そうな体格の看護師だった。

 その看護師は、ナースステーションに前から居た女の看護師と一旦、目を合わせた。そ

の途端に二人は、同時に嗤った。口の端を少しだけ下に曲げ、目も同時に虚無的な嗤いを

浮かべた。かわいそうな人間を哀れむのと同時に蔑む、また、社会の落伍者が入って来た

ぞ、というふうにその特別な仕事を愉しんでいるかのような嗤いだった。

 賢治を保護室に入れた吉川医師は戻ってきて、俺たち3人は、また診察室に戻った。

 ケースワーカーを含めて、俺と医師と母は、賢治の今後の診察プログラムやら、入院中

要る物の案内などの話しをした。差額ベッド代などは、ひと月10万ほどは掛かるらしい

のだが、それは、本人の入っていた生命保険で済みそうだ。

「大体、三ヶ月くらいで順調にいけば退院できます」と、吉川医師は言った。そして、お

もむろに俺の顔を覗き込んで、「お兄さんも、思わしくありませんね」と言った。

「何がですか?」

 と、俺は不審に思い訊く。

「貴方の目ですよ。それは、破瓜型ノイローゼの人の目です。ご本人には判らないのかも

知れませんが、私の今診る所、貴方のほうが弟さんよりも重篤だ。」

 俺は、医師の言っている事が理解できなかった。

 吉川医師が診察室から急に後ろのドアに出て行き、その数秒後、白衣を着た中背で細く

吉川医師よりは少し色の黒い男が、そのドアから出て来た。

「医師の中川といいます」

 と彼は言い、簡単な触診と打診をして、その後、吉川医師も診察室に戻ってきた。

「すぐ、入院しましょう。」と吉川が言うと、診察室の奥の部屋から男の看護師が二人出

てきて医師とケースワーカーと合わせて五人に俺は取り囲まれ、賢治の入れられた閉鎖病

棟の方へ引っ張られて行った。

「一寸! 先生!」と母が、その剰りにもの理不尽さに口を開いて抗議したが、これだけ

の人数では、俺も母も抵抗できなかった。

「おい! こんな事! 拉致監禁じゃないか! これは、犯罪だぞ!」と、そこまで言っ

た俺の口を看護師の一人がガムテープで塞いだ。

 数人残った通院患者達は、不思議そうに、その様子を見ていたが、医師達は少し彼らに

向かって愛想笑いをしながら、俺を連行した。

 

 俺は、賢治と同じ閉鎖病棟の、賢治とは違うフロアの保護室に入れられた。

「黒岩さん。ゆっくり治しましょう」

 と言って、吉川は保護室に施錠した。

 一回転させて掛かる鍵の音は、疲弊した機械の歯車の諦鳴となって部屋の無機質さを誇

張しつつ二回響いた。

 このフロアのナースステーション前の廊下で俺は、渾身の抵抗を行った。看護師二人に、

俺のフックがヒットしたが、その後すぐ俺の右腕は、例の柔道体型の看護師にねじ上げら

れ、肩が脱臼するかと思われるほどの痛みの為、俺は、戦意を喪失せざるを得なかった。

 医師達に対しての反撃、そして、今、どう自分が切り抜けるかだけに必死だった為、俺

は、何階フロアに連れて来られたのかも分からなかった。

 保護室の壁は、全面縦の柱の様な数十枚の羽目板に緑のペンキの塗装がしてあった。床

はコンクリートだが全面緑色にペイントされていた。天井も材質は木の板だが、ミントグ

リーンに塗られていた。

 俺は、相手より高い位置に自分を置こうと努めた。

 本当に困っている様子を看護師達に悟られるのは癪である。

 煙草でも吸おうと思った。

 それは、無いのだった。既に身に付けていた物は総て没収されている。

 北に面した窓は小さく高い位置にあった。鉄格子が入っている。その上、ガラスのない

吹きさらしだ。置かれているベッドの上に立てば病院裏のグランドと駐車場が見えた。そ

の奥は森のようだった。

 

 

   *   *

 

 

「待つんですよ。……仕方のない事ですから。我慢するんじゃないんです。忍耐でもない。

諦めて時間をやり過ごすんです」

 大阪で自動車教習を受けた、路上教習の踏切待ちで、当時四十一才の教官の高橋は、そ

う言った。駅の傍の踏切で、下りの矢印のランプが点いて列車が横切り、すぐ上りの矢印

のランプが点いて、また列車が横切った。そして、今度は上りと下りのランプが一遍に点

いた。遮断機は下りたままだったが一向に上りも下りも来はしなかった。

 

 

 小用でも足そうと思った。

 トイレが部屋のなかに剥きだしで有った。

 一寸、待てよ、と思って俺は天井を見た。円に円錐カップ型の透明のプラスティックの

なかで、俺の動きに付いてくるレンズが有った。

 別に構わんさ。

 俺は開き直ることにした。

 監視カメラ以外に外部から見られる窓は一つだけだった。直方体を横に置いた容積だけ

を壁から切り取った15センチ×30センチ位の大きさの窓が有るだけだった。俺の臍の位

置くらいに、その窓はあった。

 今の俺の勤め先の社長も、俺が収監のような事をされたとなれば放って置かないだろう。

 そして、母も、何か得策を講じてくれるかも知れん。

 それに、俺の友人二、三人も、こんな理不尽は放って置かない。

 法的手段に打って出る位の財力も腹も有る友人は、一人も居ないかも知れない。でも、

それなら、このスペースで悠々と楽しめばいい。

 そんなに永くなるとは思えない。今、ここでは無理だけど退院という形をとって外に出

てから、あの吉川という医師を訴えればいいんだ。

 俺は、腹を決めて、その剥き出しの和式大便器に小便をして、その後、陰茎を握り、鬼

頭の包皮を捲ってゆっくりと扱き始めた。

(まあ、この人並み外れた大きな魔羅でも見て腰を抜かすがいい。悪行医師どもめ)

 と、立った儘、手淫に耽った。

 すぐ近くで壁を叩く音が聞こえていた。

 力づくで叩いているという感じだった。

 一分ほど、そんな音がして三十秒ほど、静かになった。そして、また一分間、そして又、

三十秒の沈黙、それが四回続いて静かになった。 

 叩いているという音ではなかった。ドアを蹴っているのだ。

 その別の保護室に入れられた誰かは、渾身の力でドアを蹴っていた。それと同時に大声

で喚いていた。

 こらぁ! 出さんかい! ウォー! と力の限り大声を出しながら、ドアを蹴っていた

が、何の変化もない頑丈な木のドアに対して蹴るという人間の運動の内で一番力を使う打

撃という行為を、5分もやれば、誰でも精魂尽き果てる。

 隣りの部屋に対してその部屋に付いているスピーカから「止めとけよ!」という声が大

きく響いたのが聞こえた。

「看・護・婦・さ~ん……」という力ない女の声もときどき、俺の耳に届いた。

「看護婦・さ~ん。お水ください。」

 こんな声を訊きながら、俺はズボンと下着を降ろし、弓なりになった十七センチ長の陰

茎を監視カメラに見せ付ける様にゆっくりと扱き続け、便器の前の窪みスペースになった

壁に精液を沫ばした。

 とりあえず煙草が吸いたかったが、それは無理だし、俺は、備え付けのベッドに潜って

横になった。

 

 小一時間ほど経っただろうか。俺は、浅い眠りから醒めた。

 長方形の窓から、誰かが覗いていた。直方体の切り出された窓の隅に這う様な、丁度そ

の長方形の切り出しの空間の端を這う蛇の様に覗く者達の黒い目は感じられた。窓の位置

が腰の辺りと低いので上目遣いの黒い目は、まるでからくり箱を覗いているかの様だ。

 一人につき一分間ほど蛇の黒い目はぬめぬめと俺を舐め回した。

 そして、又、次の奴が覗くという時間が十分ほど続いた。

 何人目かの男が、「大丈夫ですか」と言った。俺が何も言わないと、「何か持って来ま

しょうか」と言った。

 三日位で、この保護室からは出られる、とその男は言った。大便を流して欲しいときは、

外の僕達(閉鎖病棟の患者)に言ってくれ、と彼は言った。保護室のなかからは、水洗ポ

ンプを作動できないそうだ。

「水が欲しい」

 と、俺は、彼に言った。(他に何を持って来れるというのだ?)

「看護師に言って来ます。待ってて下さい」

 と言って、彼は去った。

 俺は、段々気がはけそうになった。

 昼間の行動範囲としては、この部屋は狭すぎるのである。

 壁の羽目板には、釘で彫った様な落書きが沢山有った。

 

 ーーー一九八四年、俺は、ここで終わる

 ーーーアケミ、許してくれ

 ーーー不幸な人間だ 私は

 不思議な事に、男子トイレで見掛ける様な猥褻な言葉はなかった。 その中の一つは、

羽目板の幅一杯の大きな文字で、ーーー日本共産党ーーーと、三列に亘って書いていた。

 精神病になる人の中には、思想的な事を煮詰めて考える人も居るんだろう、と俺は思っ

た。

 それにしても、何処かへ動きたかった。活動的な昼三時には、この部屋は狭く、そして

剰りにも物が少ないのだ。

 まあ、一服しよう、と俺は思った。

 しかし、……それは無いのだった。

 紙コップ三杯の水が看護師によって直方体の切り込み窓に置かれた。

 俺は二杯の水を飲んだ。

 賢治も、今、俺と同じ境遇なんだろうと、ベッドに横になって俺は考えた。

 風が吹いて紙コップの内の空になった二個が保護室の内側に落ちて、パカッという乾い

た音をたてた。

 腕時計だけは、持っていていいと言われた。

 四時半になって、「タバコですよ~」という大きな声の放送があった。保護室の俺には、

タバコタイムはなかった。

 今頃、山中製缶は、どうなってるだろう。芳美に逢いたかった。俺は、そんな様々なこ

とを考えた。

 何故、こんな所に居なくてはいけないのか。

 さあ帰ろう。と俺は思い立ってドアに爪を掛けた。内側に開くドアだったがノブは一切

付いていなかった。中間色の薄い緑の木のドアだった。ミントを思わせるその色は、お前

はノイローゼだと四方から提言する。

 右手の掌で叩いた。右足で下の方を軽く蹴ってみた。

 俺のような大男が本気になれば、或いは、このドアは壊れるかも知れない。そう思うと

ドアを蹴る力は段々強くなり、客観的傍観者が見れば、狂人の発作と受けとられる位、俺

は、渾身の力を込めて、その開かないドアを蹴り続けた。

 五分経つと、俺は精神的に極端に消耗した。

 夕方五時半に看護師が食事をトレーに載せ運んできた。

 例の切り込み窓から、老いた眼鏡を掛けた恵比寿顔の男の看護師は、『黒岩さん、食事

です』と告げ、その窓の下に付いた切り込み口にトレーを置いた。丼の高さでギリギリの

窓だ。床から5センチメートル位の高さだった。

 それから三十分経つと、同じ看護師が薬を持って来た。

 俺には、薬は必要ないのだが、それを態態言った所で、行き違う口論になるだけだった

ので、黙してそれを俺は飲んだ。

 それから三十分位で俺はもの凄く眠く、そして身体が重くなった。

 起きていたかった。

 考える力も弱くなって、仕方なくベッドに横たわる。無理に何度か覚醒する度に、腕時

計の針は40分位進んでいた。5時45分の後は、6時25分。6時25分の次は、7時5分。

7時5分の次は、7時45分という具合だ。それは、もう正常な時流の社会ではない。意

識は、時計を確認しているときでさえ朦朧としている。

 日常生活のような音はまったくなく、そんな中でふいつくと時が飛んでいるという始末

だった。

 夜の八時になって、二十代前半の意地の悪そうな頬の肥った男の看護師が、切り込み口

に薬と水の入った紙コップを置いて『黒岩さん、薬ですよ』と言った。

 俺は、「飲んどきます」と、ベッドの上で言った。

 看護師が行ってしまった後、俺は、袋を破って何錠かの薬を全部そのまま、紙コップに

入れて、その薬の沈んだコップの水を八分目まで飲んで、すぐに薬は残った水と共に水洗

便器に捨てた。

 便意を催したので大便をした。

 自分の糞の臭いが保護室に籠もった。

 患者の一人が部屋を覗いたので、彼に頼んで外のレバーで便を流してもらった。同時に

飲まなかった薬の証拠も流せた。

 俺は、ノーマルなんだ! 全く・・・。

 

 九時になると消灯らしく、病棟の灯りが一斉に消えた。保護室は、オレンジ色の薄明か

りだけになった。

 長期戦になることは必至だった。

 35才で独身で、仕事はしているが、外の世界に充実というものは殆ど感じない、それ

が今の俺の現状だった。

 大半の同い年の友人は、結婚をしていて子育ての真っ最中という処だ。独身で恋人も居

ないという友人にしかたまに会うことまで叶わないという現実だった。

 彼らには、子育てがあり、仕事は生活の糧を得る為のもの以外ではなかった。子育てが

生き甲斐でもあり、又それは、市井に対しての客観視されるときの一人前さを示す鎧でも

あった。

 折角、結婚式にまで出席しても、それから後は、彼らは飲み会さえ拒否するようになっ

た。確か昔の公家が詠んだ歌で、今、公務で出ている会議で建設的な意見を云うよりも、

なるべく何も発言せず、この会議を早く終わらせ、家に待つ妻や子供との時間を多く取り

たいといった内容のものが有ったような。仕事場に最近入ってきた後輩も、二言目には、

子供を放っておけないという理由で、一月に一度の割で俺が、持ち込みの自宅での宴会に

誘っても拒否するといった有様だった。五年前に結婚した友人浅川も、子供こそ居ないも

のの出不精になって、しかも、酒も煙草もやらんという奴なのだ。

 ともかく、独身で恋人も居なくて、スナックにも風俗にも行かない、しかも煙草も酒も

飲まない、なんて奴が居るんだから。それで趣味が登山とか? そういう奴は、たとえ与

えられた仕事でも懸命にやるという事があるだろうか? 快楽を一切否定して・・・。時

計の振り子は両方に振れる。禁欲的で一切快楽を持たない人が、反対の辛いことをどの程

度、辛抱できるだろうか? 何か俺の周りは最近、そんな連中ばかりになってしまって全

く面白くなかった。

 ときどき浅い眠りから醒めたときに、俺は、ペンさえ持っていないのだから、想像をし

て楽しむことにした。

 まず、この部屋に俺の前に入っていたのはどんな人だろう。

 酒好きな四十代のトラックドライバー。子供は、娘が二人居る。名前をサエキトモノリ

としよう。

 物流の世界も今やスピードを求められる時代。と共に安全が叫ばれているので、高速で

も90キロメートル/時以上は出せない。

 九州から東京までを主にサエキは往復する。

 往復の仕事を終わったサエキは、九州の自宅で丸二日間休む。一晩目に大量のビールを

呷って、ぐっすり眠り、二日目の昼から15才と18才の娘に粗大ゴミ扱いされながら、ゴ

ルフを見ながらビールとウィスキーを呷る。最終ホール二組目の宮内洋子がグリーン上で

芝目と風向きを読む。アドレスに入る。一瞬の静寂。パターがボールを打つ。グリーンを

転がるボール。絶妙のラインを描くボールがカップに入り、ココッと音を立てる。ギャラ

リーの紳士的な変拍子の拍手。10アンダーで今のところトップタイの洋子の満面の笑み。

サエキは、ビールを呷る。仕事中のストレスと緊張と疲労の時間と比べて、サエキにはこ

の時間が至福のときである。次の日の朝4時には、もう次の仕事だ。

 上司からギリギリのタイムスケジュールの表を渡され、絶対に到着遅れだけはしないで

くれと言われて、シートに座りハンドルを握って出発する。

 4時間程度運転すると渋滞に巻き込まれる。やっぱり別の高速に乗ったほうが良かった

かと考えながらも、その上に眠気が彼を襲う。5枚目のガムを噛む。やっと渋滞を抜けて

トラックはスムーズに走り出す。と、今度は、強い便意が彼を襲う。昨日のウィスキーが

悪かったのかも、と彼は思う。

 彼は、元々、便通は不規則だった。それを、今までスピードを上げることでその遅れを

挽回してきた。

 しかし、規制が厳しくなった今、トラックは90キロメートル/時を超えて走ってはな

らない。ダイヤグラムも絶えず彼を監視している。そして、その日の夕方、初めて彼は指

定時刻に遅れて先方に着く。先方は時間の遅れを理由に荷物を受け取ってくれない。取引

が反故になる。そんな遅着が二回続いた結果、サエキは運送会社を首になる。次の仕事が

決まらぬ儘、失業保険支給の打ち切りになる。上の娘には今年、大学受験が迫っている。

 或る日、自棄になって居酒屋で酩酊したサエキは、素姓話しを聞いていた隣りのボック

スの男たちに嘲笑され、酔いのせいもあり、激昂したサエキはサラリーマン2人を殴って

2週間の怪我をさせ、駆けつけた警察官に、この病院に行くか留置場に入るかをその場で

選択させられる。

 やむなく彼は、この栗山病院の閉鎖病棟の保護室に入って来た。

 有りそうな話しだ。

 

 俺は、又、別の人間の場合を想像してみた。

 アキ子、32才。

 地方都市の信用金庫で、一般職として内勤をしていたアキ子は、26の時、総務部会計

課の先輩の男に淡い恋心を抱く。

 その日は珍しく、先輩のBのほうからアキ子への食事の誘いが有った。しかし、そんな

日に限って窓口を閉めてからの会計計算の金額が合わない。十二万三千二百円、貸し出し

の実金が上回っている。窓口を含めて全員で5時間残業して計算し直すが合わない。

 支店長は仕方なく、会計課のBとアキ子だけに続けての検算と原因究明を指示する。

 思いがけず二人だけとなった行内。

 夜も十一時を過ぎた頃、Bは会計課上司に「計算合いました」と電話を入れる。Bは自

腹を斬って十二万三千二百円を穴埋めする。このことは誰にも内緒にというBを、アキ子

は自宅アパートへ誘う。その夜から二人の恋愛は始まる。

 アキ子は、めでたく27で結婚する。が、三年経っても子供ができない。病院で検査す

るとアキ子のほうに問題が有って子は望めないと医者は言う。一人息子の母である姑は、

小事ある毎に、うまづめのアキ子に辛く当たる。32才の時、アキ子は手首を切って自殺

を図るも失敗、栗山病院に家族に連れて来られ鬱病と診断される。そしてこの保護室に入

る。

 これも有りそうな話しだ。

 

 朝になって、五時に起床のマイク放送が有り、七時半になって保護室のドアが初めて開

いた。頬の肥った例の看護師が食事をトレーに載せて運んで来た。

 ヒーターも効いていない保護室は、十一月半ばでも、もう寒かった。

 水と薬も用意されており、食後用ではあるが、今、彼の目の前で飲んでくれと彼は言う。

こうなれば誤魔化しようがなかった。薬は散剤で大分大量だった。眠くなるのが予め想定

できる。薬を飲むのを見届けると看護師は出て行き、すぐに鍵を掛けた。

 食事を了えて一時間ほどすると、俺は意識を抑える薬の作用を厭が応でも感ぜずにはお

れなくなった。誰かに抑えつけられるような眠気とふいつきが来るのである。しかも、俺

自身の意志としては起きていたいと思っているときにだ。

 九時半になって吉川医師が回診に来た。

 何か理由が有って入院させたのか?

 ともかく薬の服用をやめにしてくれ。

 それから弁護士を呼んでくれ、と俺は、やっと聞き取れるような呂律の回らない声で言

った。反感の迫力が全然出せないのが惨めだった。

「我々は、非合法な行為はしてませんよ」と吉川医師は言った。「県の認定する精神科医

二人が診断を下せば、強制的に入院させる事ができるんですよ、誰でもです」と彼は言っ

た。

 何もできない。否、何もしなくていいからずっと同じ場所に居なさい、という状況は、

キツイものだった。

 せめて、趣味で毎夜書いている様な随想でも書ければ少しはこの倦怠を収めることも出

来ただろうに、と俺は思った。紙も鉛筆も持ち込んではいけないのだ。おそらく鉛筆一本

でも自身を傷付ける凶器になるという判断だろう。俺に自殺願望が有る訳ではない。医師

が勝手な診断をして、恐らく自傷他害の怖れのある症例として病名をでっち上げたのだろ

う。

 吉田松陰の幽閉も、こんな感覚だったのだろうか。宮本武蔵も沢庵僧坊に姫路城の開か

ずの間に閉じ込められたとき、今の俺と同じ感覚だったのだろうか。

 しかし、彼らには筆が有り、書物が与えられていた。

 

 長い二日目は、ゆっくり進行してゆく。

 俺は、午前中は薬に対抗せず、ずっと横になっていた。

 十一時半に食事が運ばれてきて、又、薬を飲まされた。

 俺の推測が正しければ、医療スタッフ側は、先に患者達に食事を与え、薬を飲ませてお

いてから、例えば昼は十二時丁度から自分達の食事を摂っているのだろう。

 夕方四時頃になって、ようやく薬の効力が切れてきて自由に身体が動くようになってき

た。

 確かロシアの作家が、牢屋に入ったとき、頭のなかだけで小説を創り、それを全部記憶

しておいて、後に娑婆へ戻って執筆したという話しを聞いたことがあった。そして、その

男も房の備品の形容やそこに囚われたであろう人物の人となりを想像することで文を紡ぎ

出していたのであった。

 俺は、保護室の羽目板を端からじっくり見て行き、想像して物語りを創って行った。

 一番目の羽目板は、カナダのブリティッシュ・コロンビア州の○○という地方で150

年前に切り出された。その○○という地方の羽目板用木材の杉が切り出された森のすぐ近

くには町が有り、その町に、その切り出しの仕事を請け負った会社に勤める木こりのジョ

ーという26才の独身の男が居て・・・・。

 そういうふうに、眠っているか横になっているか、物語りを想像しているかのいずれか

をして、俺の保護室での二日目は過ぎて行った。

 無事に外へ出られたら、仕事を変えるのも悪くないな。と、俺は思った。

 今の仕事は、孤独な単純作業だ。俺の住むT市は、金属加工の鋏や包丁などの刃物製造

産業で栄えた所だった。そして、二番目の産業が、鉄鋼そのものなのである。俺は、ここ

最近の五年間は、製缶工場で働いていた。

 俺の仕事は、一日中フォークリフトで鉄板を移動させる仕事だった。生産需要数が幾ら

で、現在、各種何枚の缶の原板(鉄板)が工場内に保管されているのかを把握する事も、

俺の仕事だった。

 そして、どうしてもリフトで移動できない場合もあるのだ。つまり、俺の仕事は、一日

中の運転と肉体労働だった。

 決して楽ではないし、やり甲斐のある仕事とは言えない。

 本当は、折衝とか営業の方が自分に向いているし、やり甲斐を感じる職種なのだが、何

らかの問題、例えばスランプとかで長続きはしなかった。ミシンも20台ほど売ったし、

新車ディーラーのルート営業及び新規開拓なんかもやった。

 売れない日続きの上、アポイントも取れず、たった二日喫茶店の梯子だけして、次の日

上司にどう報告していいやら分からず、潰れてしまったり、気走りして落ち着かなくなっ

たり、ともかく、自分でも営業は向いていると思うが、精神的な野太さの様なものが足り

ないのである。

 山中製缶は、昔、消防団で一緒だった現社長に、拾われて入ったのだった。

 そして、芳美との社会的に許されない関係もできてしまった。

 

 

   *   *

 

 

「貴方は、まだ若いけど、そりゃ世の中に永く生活してれば、色んな事がありますよ」

 永い信号を待ちながら、教官の高橋はそう言った。

「だけど、車の運転ほど厄介なものはない。それこそ色恋沙汰よりもね。」

 高橋は、そう言って、ロング・ピースを吹かし、誰も使ってはいけない灰皿に押しつけ

て火を切った。

 

 

 三日目の朝の食事の後の回診のとき、吉川医師は、明日から保護室からは出られます、

と言った。

 しかし、その日の午後、四時頃に薬の効き目が弱くなった俺は、この密室に居るのが耐

えられなくなった。

 毎日、二〇〇キログラム前後の荷物を百回から二百回位移動させ、夜は、ビールを浴び

るほど飲んで眠るのが日常だったのだ。

 週末には、砂川康智と神戸にドライブに行ったり、浅川晃と将棋を指しながらビールを

呷り、又、たまに日曜に三人で音楽スタジオでセッションしたりもする。

 そして最近は、土曜の午後に芳美と二つ遠い街のホテルで4時間で3回セックスをして

いた。

 カロリーの消費量の差だけを考えても、とんでもなく違う生活なのだ。

 試しに蹴るという行為の一発目の叩かれたドアの音が余計に俺の苛苛を大きくした。音

にーー自分の出した音にーー腹が立って一発目より強い二発目の蹴りを入れる。一発目よ

りは当然大きいその音に腹が立って、さらに強い三発目の蹴りを入れる。それを継ける内

に、もの凄い蹴りの連打になった。

 俺の様な大男が力一杯蹴ってもびくともしないこのドアは、どうなっているんだろう。

 

 鍵を回す音が、二回続いて聞こえて重い木戸を例の意地の悪そうなふっくらとした顔の

看護師の男が開けて、保護室に入って来た。

「黒岩さん。大人しくしとかなアカンで…。折角、明日出られる筈やったのに…」

 と、看護師は言う。

「もう一週間ほど保護室に居てもらいましょう」

 吉川医師が看護師の後ろに立っていた。

「オオハラ君。注射」と、吉川が言って、オオハラが俺の尻を露出させる。

「これで、気分が楽になりますからね」と、吉川医師は言って、俺の尻に筋肉注射を打っ

た。

 筋肉注射は痛い。

 

 五日目の午後に木戸の鍵が開いたとき、オオハラが言った。

「黒岩さん。面会です」

 母が来ていた。

 閉鎖病棟のガラスの鍵の掛かったナースステーション兼面会室のドアは、唯一の社会と

の繋がりの入り口だった。しかし、その鍵の掛かるドアが曲者で、例えば看護師でさえ、

一人病室側に残されれば、面会室側に居る職員に開けてもらうか自分が鍵を持っていなく

ては出られない。音さえも殆ど遮断してしまうそのドアの向こうが現実の世界なのだ。

 面会の時、まず、医師と一対一で診察が有り、直後家族との面会となる。

 師走に近い日に母が差し入れた暖かい缶コーヒーは、実に旨かった。

 面会室では、煙草を何本吸っても構わない。ニコチンが血に戻ると元の生活に戻ったよ

うなエネルギーが体に宿った。

「賢治は、どうしてる?」

「あの子は、もう大部屋に移ったらしい。」

「・・・・・・」

「アンタは、ホンマは何ともないのに……、辛いやろうけど、今、色々な手を打ってみよ

るから…」

 母は、段々声を落として吉川の顔を盗み見ながらそう言った。

 

 俺と賢治が入院してから二週間が経った。

 賢治の会社の上司と俺の会社の社長と、また別の日には芳美が会いに来たらしかったが、

精神病院というのは、親族以外、面会できないらしかった。

 俺は、吉川医師にも母にも弁護士を呼んで欲しい、添けて欲しいと言っておいたが、な

かなかそれは実現しなかった。

 こういう場合に、どういう風に法的な手続きを取ればいいのか、俺には判らなかったの

で、俺は、中学時代の同級生で今は保険外交員をしている今ではかなり細い付き合いにな

ってる浅川に連絡をとった。

 彼は、個人的に六法全書を精読している。

 家から渡された小遣いから引くという方法で、医局側は、小銭を貸して繰れる。閉鎖病

棟の大部屋の電話は、未だに赤い公衆電話だ。「病院って、アンタ何処が悪いのよ」

 電話口で、浅川はそう言った。

 俺は、事情を説明した。

「ええ!? 精神病院? アンタ、そんなとこに、たとえ間違いででも入れられたら、なか

なか出られへんで」

 だから困っているのだ、と俺は言った。

「俺の知り合いに弁護士なんかおれへんし…、まあ、当たってはみるけど……」少し沈黙

が有った。「俺、怖うてそんなとこよう行かんわ君には悪いけど」

 大体、予想通りの答えだった。

 わかった、と俺が言うと同時に電話は切れた。

 コインが無くなったのである。

 浅川は、絶対に自宅の電話番号を教えない。ケイタイへでは、三百円なんか、すぐなく

なるのも当たり前だ。

 三百円使いました、と社会のドアをノックして開けて繰れた面会ルームに居る看護師に、

俺はそう言った。

 俺は、未だに保護室だ。

 どうしても電話しなきゃならん用事がある、と言う俺に、恵比寿顔の年老いた看護師は、

ここまで連れて来て繰れた。他の看護師だったらその要求は聞き入れて繰れなかったに違

いない。

「ホナ、戻ろか?」と、彼は言って俺を元の保護室に連れて行った。

 例の頑丈な木の戸が閉まって、掛けにくそうな鍵を掛ける音が二回続いて、俺は、また

一人になった。

 俺は二日に一度の割で夕方四時頃になると木戸を内側から蹴り継けてしまう。その度に、

俺が保護室を出られる時期は延期されてゆくのだった。

 ベッドと壁と小さな窓しかない畳三畳ほどの部屋に閉じ込められ続ければ、精神に歪み

が生まれるのも当然だ。

 しかも、俺は、どこも悪くないのだ。

 

 俺は、薬の効きが弱い時間帯は、一日に計三時間くらい神に祈った。それも、神の意志

に合っていないことまで、願うという形で祈った。ふくれた顔の看護師を殺してください、

とか、吉川医師を事故に遭わせてくださいとかいう祈りもした。声を出さずに。

 そして、昼の三時半頃になると、芳美のことを想って、芳美の子宮に届けてくださいと

いう祈りも込めて手淫をし、下着を濡らした。そして、その後、俺はこんな所に居てはい

けない、さあ仕事に戻らなければ、という考えが、決まって俺の中に起こって、俺は外に

出ようとする。

 しかし、そこには重たい木戸が有るのだ。鋼板を内蔵していると思われる頑丈で二重に

鍵の掛けられた木戸が有るのだ。

 

 保護室に入って二十日が過ぎようという頃、その男がやって来た。

 ーーー「金融会社のTVコマーシャルで、お自動さんってやってるでしょ。まあ、アレ

に似てるわね…。事務系の働き者でメガネを掛けた人ってイメージ湧くでしょ、四角いメ

ガネ」

 と、以前芳美が言ったことがあった。

 白衣を着ている。看護師用の白衣だ。

 気まずい。俺にどうしろと言うのだ。

 俺たちの関係は、付き合って三年目の、つまり二年前に相手の亭主に分かってしまった。

俺の精神が持ちこたえられなくなったので芳美から話してもらい、彼の前で俺は、地面に

頭を擦り付けて謝ったのだ。

 たとえ、合意の上でも婚姻関係が有る人と交わってはいけない。俺は、自分が赦せなく

なっていた。だが同時に、彼女は失いたくなかった。

 俺は、何度も駆け落ちしようと彼女を誘った。

 それが出来ないなら今すぐ別れると言うと、彼女は、真剣に悩み、五年待ってくれ、と

言った。

 俺には、五年など長すぎる。法にも神にも背徳の行為を継けながら、五年もその関係を

継けられるほど俺の神経は太くはなかった。

 そして、彼女は、結論を変え、一年待ってくれ、と言った。

 その一年は、すぐに来た。

 彼女は、もう一年待ってくれと言った。

 せめて、上の子が大学を卒業するまで…と。

 その一年も過ぎた。

 今では、俺は、芳美の愛が本物でないことを知っている。知ってはいても、次の女が出

来るまでは、今、目の前に有る快楽を放したくないのだった。

 何度も恋はしたが、恋の入り口は辛さや内的葛藤を伴い、又、勇気と否定の答えの予見

とが押し合い、色々なお膳立て等の気苦労や先行投資も必要になる。

 俺の持っている餌は、顔(第一印象)と、歌と、ドラムの演奏しかない。顔がルアーだ

とすると、歌が小エビでドラムが車エビだろう。でもそれぞれ、きちんと食いついてくれ

ないと成就しない。顔だけを舐めて、エビだけ喰われることもある。なんせ俺の釣り針の

かえしは弱い。しつこさがない。完全に陸まで釣り上げてまな板の上に乗せれば勝ちだ。

床の上では、器用そのものである。

 鱗を落とし、服を脱がせ、舌をからませ、頭を落として、性感帯を素早く探り当て、腹

を裂き内蔵を出し骨と肉の隙に包丁を入り込ませ、クレバスの茂みを開いてペニスを滑り

込ませ、三枚に下ろす。

ここまで来たらその女は俺を離さない。もう俺なしでは生きられない。自分から求めてく

る。その魚は俺の肉体になる。

 その瞬間に至るまでの長い渇いた時間に、今の俺は耐えられない。

 芳美とは続けておいて、次の女へのアプローチも同時にするつもりなのだ。

 まず仕事を辞めるではない。こんな仕事辞めようと思う。上司にはそれを切り出さずに

笑う仮面を被って仕事は続けるのだ。同時に平日に有給を取って他社の面接に行く。明ら

かに厚待遇、高収入の会社に内定した翌日、上司に切り出すのだ。

 ーーー誠に勝手なんですが、一身上の都合で…

 ーーーお前とはもう終わりだ。

 同じ事である。

 ずるいかも知れない。

 生活があるから。

 性欲の捌け口がなくなって精神にアンバランスの時期を持ちたくないから。

 こういう事は、否、こういう事がいつもの情緒を乱すのだ。

 奴の名は定男という。

 吉川医師の背後に立ち、じっとこちらを睨んでいる。

「江田さんですよね? こんな所まで糾弾に来られたんですか。」

 と、俺は言った。

 彼は、名札を胸ポケットの内側へひっくり返し、

「違いますよ。私はヤマダです。唯の看護師です」

 と、言った。

 吉川医師は、診察を始めた。

「大分、調子はいいようですね、黒岩さん。そろそろ大部屋へ出ましょうか」と、血圧測

定のポンプを押しながら言う。

「どっちでもいいですよ。私は、無理矢理にここに連れて来られたんだから…、ともかく

弁護士を呼んで下さい」

「あ、そうでしたね。今、私のほうでも何人かに当たっています」

 と、吉川は言って、「じゃあ、ひとまず大部屋に移りましょう。今から」と、言って俺

を外へ促した。

 保護室の木戸を出ると、ーー今まで無理矢理に出ようと闘った重い頑丈なドアを簡単に

抜けるーー少しは、真ともな世界に戻ったような安堵が俺を包んだ。

 俺の保護室の左隣が鉄の防火扉で、今は完全に鍵が掛かって、それは、このコミュニテ

ィの端を意味していた。俺は、それが例の『世界の終り』という世界の、壁を意味してい

るんじゃないかと思った。否、作家はゲットーの意味で使っているのだとしても、俺には

同じだった。

 俺の保護室の右隣は、それも保護室で、緑の木戸が閉まっていた。

 廊下を歩くと左側に六台のベッドのある小部屋と三台のベッドのある小部屋があって、

右側には、二つの保護室の次に三台のベッドのある小部屋が三室あった。

 左側が急に明るくなって大きな部屋が見えてきた。

 或る者らは、将棋やオセロゲームをしている。他の殆どの者たちは、ジャージの上下を

着て無秩序に寝転んでいた。

 右側に六人用の小部屋の後、もう一つ保護室があって、そこも閉まっていた。

 通路がL字型に交差する部分は、拓けていた。右手前に、トイレと、洗顔用の鏡が六枚

並んだ洗面コーナーが有り、右奥に透明なシャッターに閉ざされた配膳室があった。

 L字を左に折れて右側が面会室、左側が大部屋だ。

 さらに進むと、普通の病院の病室に似た横向きに引くドアの近代的な小部屋が二室ある。

その先の端は、防火扉で、やはり『世界の終り』の壁だった。

「これが、この閉鎖病棟のこのフロアの行動範囲や」

 と、例の顔の憎らしくふっくらとした男の看護師のオオハラが言った。隣には江田が居

る。

 面会ブロックから、こんな奴同級生におったなと思える、くだけた三枚目の井戸端話し

好きの若妻といった感じの女の看護師が出てきて、ミントグリーンの四角い洗面器を俺に

渡した。

「これに名前を書いてください。クロイワさん……あっマジック持って来な、一寸待って

ネ」

 と、言って彼女はもう一度、面会室に戻った。

(またしても、ミントグリーンか…)

 その色は、お前はノイローゼだと、俺に提言する。

 洗面器のなかには、白いタオルと石鹸入れに入った石鹸と、ビニールケースに入った歯

磨きセットが入っていた。

 若妻看護師が持って来たマジックで、俺はそれらに名前を書いた。

「カタカナで書いてくださいね、その方が分かり易いから」

 俺は、"クロイワタテオ"を六回安売りした。

「そうか、タテオさんていうんやねえ…。どんな字なん?」

 俺は、ムジュンのジュンだと言った。

「そう…、剣のほうが要るのにねぇ、こっから出よう思たら…。まあ、そんな事ヨッたら

アカンわ、…病気を治したら出られるんやからクロイワさん。」

 若妻は、自分で問題を提起し、自分でオチをつけて自分で納得している。

 若妻看護師に連れられて大部屋に入り、俺は、もう一回マジックで名字のほうだけを安

売りした。

 どこがいい? と彼女が訊くので、俺は、一番上の棚を示した。桟に名前の紙がセロテ

ープで貼られて、俺の洗面器は、やっと定住先を見つけた。

 年代は異なるが、皆、男ばっかりだった。

 そりゃそうだろう。こういう所に男女が混ざっているのはよろしくない。殆どの人が斜

めに差し込む日光の当たる畳の上で寝そべっていた。しかし、その範囲は、そんなに広く

なく限られていた。保護室は、底冷えするほど寒かったが、ここも少し益しな程度だ。多

分経費削減というやつで暖房を最小限度にしか効かせていないのだろう。

 真ともに見える奴は、全体の三分の一くらいだった。他の者達は、皆いちように顔が黒

く、そして体が細い。

 明らかに悪魔に憑依されてる奴が二人居た。言動は、呂律が回らず、早口で、しかも途

切れ途切れだ。目は、白目の部分が黄色く、真っ直ぐには相手を見ない。斜め下からすく

い上げるような目で相手を見る。動作する時、どうもスローモーションでスプラッターム

ービーを見ているような感じを受ける。体の輪郭の少し外側まで彼ら自身の唾液のなかで

泳いでいるような、卵の白身に絡みつかれながら動いているような感じだ。

 その内の一人は、耳朶の上が尖っていて、多分、悪魔でも身分の低いレギオンが憑いて

いるんだろうと俺は思った。

 真ともに見える者達も、何人かは、俺が話し掛けても無視した。精神異常なのか、性格

異常なのだろう。

 又、何人かは、『あぁ…』とか、『うぅ…』とかを言うだけだった。

 俺は、ジャージの上下にも名前を書き、それに着替えた。白いズボンのほうのジャージ

は、俺が家で寝るときに使っていたものだ。上のジャージは、灰色の新品で見たことがな

かった。

 どうやら、母が買って繰れたようだ。

 ーーータバコですよ~ーーー

 というマイク放送が流れた。

 患者の多くが面会室の社会へ通じるドアに列を作って待った。

 眼鏡を掛けてちょび髭を生やした男の看護師が、煙草の差し込まれた木の箱を社会への

透明のドアから出すと、先頭の者が使い捨てライターを看護師から預かり、一人一人に火

を点けていく。

 木の箱が棚の上に置かれると同時に、ぐおーっという音を立てて換気扇が一斉に回り出

した。

 俺の番が来たが、その箱のなかには差し込まれた煙草のすぐ側に名前が書いてあって、

俺の名前はなかった。

 髭の看護師が、ドアの向こうから俺に目を合わせてから少しドアを開け、

「アンタもタバコ吸うの?」

 と、訊いた。

 俺は、頷いた。

「ここでは、セブンスターかハイライトに決められとるけど…、どっち吸う?」

「セブンスター」

 俺がそう言うと、看護師は社会へのドアを半開きにしたまま、俺に一本呉れた。

「後で、アンタの名前も書いとくわ」

 と、言った。

 ダイニングルームのような面会室の前の拓けた空間で、三十数人が一斉に煙草を吸った。

おそるべき強力な換気扇で、煙が籠もるということはなかった。椅子に座って、テーブル

の上には薬品の入っていた空き缶が2人に一つの間隔で並べられている。缶には底に2セ

ンチメートルほど水が張ってあった。

 隣に居た野口という男が、ここは一日に6本しか吸われへんから大事に吸いよ、と言っ

た。

(一日に、6本…)

 久し振りに吸う煙草は、頭をくらくらさせたが、それで本来の状態に戻っていくのが分

かった。赤血球が、ニコチンを運ぶ負荷を思いだした。

 やがて、先に火を点けた者から水のなかへ煙草を落としていった。

 そのーージッという音は、死刑判決の言い渡しのようだった。

 俺は、葉の巻いてあるぎりぎりの端まで煙草を銜え続けた。

(あー、もう5ミリしかない)

 最後のひと吸いには、フィルター部にまで火が回ったらしく化学薬品ぽい変な味がした。

 

 野口という男は、俺より四年下だった。

 野口君は、賢治によく似ていた。最初、賢治が薬浸けで顔が膨れたのかと思ったくらい

だ。

 彼は、二屯トラックで材木を運ぶ仕事をしていたそうだ。彼は、今飲んでいる薬が相当

きついらしく、喫煙時に煙草の火の点いているほうを上向きに持っていられない。だから

彼のセブンスターは、俺のより早く短くなる。吸う時間より、持っている間に燃えていく

時間の火の侵食が速いのだ。

 勿体ない。

 俺は、何度か野口君の右手人差し指を俺の指で叩いて、「おい」と言って注意を喚起し

た。

 その日の内に、冬木と吉岡というもう二人の友達が出来て、その三人とはよく話すよう

になった。

 吉岡は、隣の家の男を殴ってここに入ることになったという。

 ーーーもう、二ヶ月になるんや。俺も悪かったけど殴ったのには、相手にも原因が有る

んや。警察にここへ入るように勧められて……。そやけど事件が今どういう進展をしとる

か、家族も言うて繰れへん。ーーー

 冬木は、正体の分からない男だった。

 理知的な四角い顔に、小さな丸い色つきの近眼鏡を掛けていた。

 彼は、鬱病らしい。

 しかし、薬は、昼食後の一日一錠しか投与されていない。俺にしても、野口君にしても

精神安定剤が強いので、どうしても速くきびきびと動くことが出来ないが、そして、薬の

作用対意志の力の格闘の、辛い時間が殆どなのだが、冬木は眠けに困ることもなく、とき

どき若い男の看護師とじゃれ合ったりしている。コミック本の漫画を人の三倍くらいのス

ピードで読むし、将棋やオセロでも俺より強い。俺にしてみたら、薬で思考能力が鈍って

いるのも大きな敗因として悔しいのだった。

 冬木は、食事当番と掃除当番もしていた。

 一日に六本という喫煙のペースは、俺に辛酸を与えた。

 麻薬中毒の奴隷に対する処遇のようだった。禁煙したほうが楽なくらいだった。

 食事当番の五人は、喫煙ペースに対して愚痴を零したことがなかった。いつも配膳室か

ら面会室を通って、社会へのドアを抜けて戻ってくると、彼らは爽快な顔をしていた。

 ひょっとして、食事当番をすると余分に煙草が当たるのか、と、或る日俺は、冬木に訊

いた。

 冬木は、秘密を敢えて話すCIAの諜報部員のような皮肉な笑みを浮かべて、

「黒岩さんは、鋭いですね……。そうですよ、食事当番は、昼と夜に二本ずつ余計に煙草

が貰えます。……掃除当番は、その上に二本貰えます。……でも、掃除当番には簡単には

成れません」

 と、言った。

 食事当番は、実際に料理を創るのか、と、俺は訊いた。

「いえ、食堂にコンテナを取りに行って、皿を皆が取るタイミングで棚に出すだけです。

……後は、あと片付けと…。簡単なモンですよ」

 と、冬木は言った。

 同志社大学、理学部を出て、頭はいい。もし、就職も失敗していなければ、超エリート

である。仕事は三日で辞めたそうだ。

 本人は、鬱だと話しているが、俺から見て病人には見えない。

 背も高く体格のいい冬木は、看護師との立場も対等を越えて尊敬さえ受けていた。何し

ろ、彼の行動に何一つ問題はないのだ。剣道二段という彼に対して、理不尽な暴力を奮う

者など、看護師にも患者にも居ない。

 二日に一度、全員が風呂場へ下着だけになって移動を強制されるときなど、薬で動きの

鈍い者は、叱責の対象になる。冬木は、昼間の抗鬱剤一錠だけだ。そして、安定剤のおお

よそ反対の抗鬱剤で眠気を催す訳もないのだろう。しかし、実際には抗鬱剤といっても色

々な種類があるらしいーーと、これは、後に分かるのだが。

 俺と同じT市から来て、昔は金物製造会社の社長をしていたという小柄な沢村という六

十代のおっちゃんは、高校生の様な童顔で体の細い看護師に、頻繁に顔を蹴られていた。

 喫煙タイムになると、列に並び、他人の穴に差し込まれた煙草を取って吸うのだった。

精神が病いなのかどうかは分からないが、心臓が悪いのだけは事実である。

 看護師は、何度も注意したが、本人が痴呆が始まっているのでまたしても勝手に他人の

煙草を吸う。その内に看護師は、平手で彼の顔を叩くようになり、最近では、脚で蹴るの

である。

 俺には、看護師の行為が、正当であるとは思えない。仕方がないからやっているという

彼の言い分も解らない。

 大義名分を借りて来た自分のストレス発散の為の暴力である。多分、遅かれ早かれ、沢

村さんは、彼の顔への蹴りが原因で死ぬだろう。

 ここでの生活で一番苦しいのは、圧倒的な眠けだった。

 朝食の後に安定剤。

 眠けに抗いながらの入浴。移動は寒風吹き荒ぶ廊下をパンツ一枚で二階下の風呂まで行

くのだった。カランが10基しか付いていない風呂場へ、芋を洗う様に、六十数人押し寄

せる。

 入れ墨を入れた男まで居る。

 そう、俺のフロアは四階である事が、やっと分かったのだが、病人のなかに五、六人は

ヤクザが居る。

 吉岡の例のように、警察から拘置所へ送られるのを免れる為に、精神病院を選ぶ犯罪者

も居るのだ。

 俺は、体つきは細いが、背が高いことが奴らに舐められない要因だったので、奴らから

凌辱されることはなかった。

 だが、このヤクザの中に、芳美の亭主が送り込んだ奴が、何人か居ることは確かな様だ

った。江田が看護師として入って来てから、明らかにヤクザの数が増えた。その上、どう

見てもヤクザという男の看護師まで現れた。勿論、資格なんて持ってないんだろう。アル

バイトでも準看護師か介護士の資格が要る筈である。院長も理事長も、どっかの組の親分

には逆らえないのだろう。

 世の中、力が大事である。力を伴わない正義など、水甕のなかに向かって小声でスロー

ガンを唱えている狭義の小宗教団体の教祖の姿のようなものである。

 可笑しな事は、まだ有った。

 偽名を語る者が多い事である。

 村瀬ならヤマセ。相田ならゴウダ。滝本ならタケモトである。医師二人の前に、面会室

で二組が面会していると、そういう事がよく分かる。医師は、患者を本名でしか呼ばない

からだ。

 ときどきは、外出を許された者達が、OTと呼ばれるゲームをしに行く為OTルームへ

出て行ったり、図書ルームや散歩にも外出を許された者達は、ときどき聯隊を作って出て

行った。昼から、用のない者は、大部屋で陽光の下に雑魚寝する。女の看護師たちの何人

かは、さあ起きて動いておきましょう、と俺たちを無理矢理起こしに掛かる。俺たちは、

別に寝ていたい訳ではないのだ。ただ、薬がきつ過ぎて、立っていることが出来ないのだ。

 三時には、おやつの時間というものがある。「おやつですよー」の看護師の女の一声に

よって、閉鎖室内の全員が席につくことを強制される。

 もう一つは、洗濯物畳みだ。外に散歩に出ていない者全員が、自分達の洗濯物を畳む。

そして、リネンだ。つまり、蒲団用のシーツの洗濯し終わった物を蒲団に装着するのであ

る。一人でもできるやり方は有るには有るが、一人だとかなり面倒である。特に薬のきつ

い俺や野口には、リネン交換は地獄だった。

 基本的に閉鎖室から脱走しようとさえしなければ、何をしても良いのだ。

 煙草が一日に六本と、食事は規則正しいが、とても旨いとは言えない代物だ。そして、

食事には普通食と特別食がある。特別食は、正に特別だ。ご飯が玄米ではないのに、少し

黒ずんでいる。魚は、毒のような味がする。死なないのだから、毒であったとしても強力

ではないのだろう。酢豚なんかの場合も、特別食のは、へんな味である。おそらく、薬で

も混ぜてあるのだろう。

 その他に糖尿用の物もある。

 特別食か、否かは、健康状態がその決定に際しての目安ではないのだ。

 暴力を奮う者や、看護師や医師に対して頑なな反抗的態度の者が特別食になるのだった。

 OTという一種のゲーム療法は、閉鎖室内で行われる時もある。ただし、気が乗らなけ

れば、いつでも辞められるし、逆に、他人のゲームを見ていて自分も参加がしたくなれば、

その時点から参加できるのだ。最後に成績発表が有って、上位の者は、金色の折り紙とダ

ンボールで作られたメダルを掛けられ、看護師の男や女や、他の患者から、賞賛の拍手を

受ける。

 何日か前から、インターン生の看護学生の女達が来ていて、うまく立ち回れる患者の男

は、適当に女の尻を触ったり、乳を揉んだりしている。それは、悪ふざけ程度のバランス

にしておかなければならない。

 本当は、社会に甘えていて、病状も軽い男が入院していて、それらの許される範囲の悪

ふざけをする。

 インターン生は、未だ社会の実情を知らないし、精神病の者に対する憐憫と、医療に対

する理想も高い。

 これを例の井戸端話し好き人妻看護師にやってはいけないし、彼も、それはわきまえて

いる。

 元、大会社の重役とか、一流大学卒の青年も居る。

 ーーー○○さん、本当によろしいねぇ。綺麗な女の人に囲まれて、煙草も日に6本は当

たるし、三食昼寝つきで、こんなええとこあれへんで……。

 ーーー◎◎さん、アンタもそう思いまっか……。ワシも一生、ここにおりたいわ……。

 彼らの言っているのは、皮肉である。

 いつ、社会へ戻してもらえるのか目途のたたなくなった諦めを通り越した上での嘆言で

ある。

 人間は、自分が社会に善なり悪なりの影響を及ぼしているという実感がないと、それ程

つまらない事はない。

 もう一つは、自分が望む快楽を思う分だけ得られるか、という事も大きい。

 看護師の女の内の一人と、夜中に性交の時を持てるか? それなら、一日に、限度なく

煙草を吸えるか? 或いは、酒に至っては、一滴も許されない。

 その上、自分で性欲の処理を、上からも下からも覗くことのできる大便用の個室でしな

ければならない。で、オルガズムまで行ける者は、まだ幸いだ。薬のきつい者は、射精に

までは至らない。

 そんなコミュニティのなかでも、達成感や充実感を味わえる者も居る。それは、読書や

日記等の、さらに言えば詩や小説等の創作をする者である。

 確かに、薬のせいで、彼本来の力量は出せないが、こういう者達は、この地獄が地獄で

はない。

 将棋や囲碁の勉強をする者も居る。

 要は、仕方がない部分は、素早く見切って、工夫をするのだ。

 そして、性交の問題でどうしても我慢ができないなら、男の患者に相手に自慰の手指を

口を替わってもらうのである。道徳的に受け入れるか、この生活のなかだけだと、戒厳令

下の臨時条例だと自分に言い聞かせるか、やっぱり、それは止めとくか、しかない。

 昨日、初めて、その光景を目にしたが、それは嘔吐を催すおぞましいものだった。

 人間は、執着せずたくましく生きるべきなのだ。

 

 保護室から閉鎖フロアに移った四日目から俺は、大部屋で野口君の横に眠った。

 

 翌日は、日曜日だった。日曜日は、全てに於いて違っていた。

 風呂へ芋になって急かされることもなく、洗濯物を畳むこともない。朝の髭剃りで、毎

日他人に自分の髭剃りを取られてしまうこともなく(俺は、肝炎だから使った奴は感染す

るというのに、いつも俺の髭剃りはどこかに行ってしまう。阿呆は、自業自得に陥る。)、

OTというゲームも散歩も、図書館への移動も、そして使役のようなリネン交換さえもな

い。

 昼食が済んで一時になると、ここでは唯一の未成年の19才の丸坊主で頭のでかい男が、

嬉しそうに、『世界の終り』の壁の外から、男の若い看護師と二人で大きな機械を持って

来た。

 それはカラオケ装置だった。しかも、昔の8トラックタイプのテープ式の物だ。こんな

物がいまどき有ったとは…。

 その男の子が任侠物の演歌を歌い出したのだが、それが酷い。インストのボリュームも

大きく、マイクのボリュームも大きい。その上、エコーが効き過ぎで、しかも彼は呂律が

回らない上に音痴だ。

 脳味噌が本物の味噌になる。

 俺も、どうせだから、この限られた愉しみを味わおうと、曲を探すが、安全地帯も甲斐

バンドもない。やしきたかじんさえない。やしきたかじんが有ったところで、それを歌う

気には成れなかった。

 今日も、江田が居る。

 自分の不倫相手の旦那の前で、不倫の歌を歌う訳にもいかない。

 テレサテンくらいが、俺の知る曲だったが……。それも不倫の歌である。

 仕方がないので、誰の曲だか知らないが、海峡という曲を歌った。これなら、不倫の歌

ではあるが、主人公は、自分を責めて死んでしまうのである。

 これなら、江田に対しても申し訳が立つ内容だ。

 病棟の至る所で何重にも、この中古の8トラのカラオケの熱唱が三時間、目一杯続き、

その日は過ぎていった。

 日曜日で良かった。旧館棟全体から音程を外した嗚咽の様な長声が轟いているのである。

この状況は、精神病院ではなく、オカルト・ホラーハウスである。外来診察がある日にこ

れでは、正に醜態である。

 

 翌日は、朝から冷え込み、起きて窓外には雪が降っていた。

 10時半の喫煙の後、面会室に呼ばれた。

「黒岩さん。こちら、僕の知り合いの弁護士の人。……相談するといいよ」

 と言う吉川医師の横に、背広姿の五十くらいの身なりはきちんとしているのだけれど、

何か不潔そうな小太りの男が立っていた。

「吉川君の友人の友人で藪本と申します。弁護士です」

 と、言って彼は、テーブルの上に名刺を俺の方に向けて置いた。「事情がよく分かりま

せんので、まず、二人だけでお話ししましょう」と、彼は言った。

 吉川医師が、俺と藪本を配膳室に案内して、吉川自身は、すぐに消えた。

「どういう困り事ですか。順を追って私に話してください」

 と、藪本が言った。

 貴方は、吉川医師から、何も聞いていないのか? と、俺が言うと、

「私と彼は、直接の知り合いではないし、彼は、人権問題を唱えて弁護士を呼べ、という

患者が居るので、会ってやってくれ、と私に言ったのです。私が、彼から聞いているのは

それだけですよ、黒岩さん」

 と、言った。

 俺は、これまでの経緯を藪本に話した。

「何ですって、無理矢理、隔離されたですって!!」

 藪本の声が少し裏返る。

 胸にはバッジが光っている。

 本物の弁護士だ。

 藪本は、暫く額の左側のコメカミに手の平を当てて俯いていた。そして、その姿勢で一

分ほど固まっていた。

 一分経ってから、彼は顔を上げ、口のあたりを両手で拭う動作をしてから言った。

「確かに、吉川君の言うように、県の認定する精神科医二人が隔離する必要の有る患者と

診断すれば、法律上は、医者側は、強制隔離を行う事はできるんです。……しかし、貴方

のお話しを聞いて、それに、貴方の今の状態から測て、とても、自傷他害の怖れのある患

者には見えない。………黒岩さん。法律上、医者にその権限があるというだけで、実際に

は、そういう医師二人の診断に依る強制入院なんて有りませんよ。そんな前例さえ。私の

知る限りでは」

 どうしたらいいのだ。と、俺は言った。

「吉川君に、私から貴方を退院させるように言いましょう」

「そうですね…。とりあえず、僕は、それ位では腹の虫が収まらないが、退院が早い方が

いい」

「後で、吉川君を訴えますか?」

「ええ、多分そうするでしょう……。藪本さん、ともかく退院までは上手くお願いします

よ。勿論、裁判にするにしても、止めるにしても、貴方の尽力には、後でそれなりの報酬

を支払いますから…」

「判りました黒岩さん。まず、全てを伏せて、吉川君を説得してみます」

 俺は、やっと希望の一条の光を見た気分になった。

「藪本さん、一寸、お願いがあるんですが、煙草が有ればもらえませんか」

 藪本は、少し着崩れた背広の左腹ポケットをまさぐって赤のラークを出した。

 俺が銜えるとダイヤの鏤められた重厚なガスライターで火を点けて繰れた。

「スミマセン、面会のときしか自由に吸えないんですよ」

 藪本は目尻を下げた柔らかい笑みを見せて、自分も一本に火を点けた。そして、丸い薬

入れを出してテーブルの上に置いた。

「灰皿ですよ。……三本くらい吸ってください。煙草を制限されるほどきつい事はないで

しょう」

 と、言いながらまた微笑した。

 

 あれから十日経った。

 俺の生活に変化はなかった。

 藪本氏が、吉川医師に忠告したという感触は、まるでなかった。

 寒さは益々、身に堪えた。雪は降り積もって、もう四日になる。

 

 昨日、俺は、自分の知り合いに片っ端しから電話を入れた。

「俺には、どうする事も出来ぇへんわ」

 皆の答は、皆が皆同じだった。

 最後に山中製缶に電話した。

「相も変わらず、病院かい」

 それが社長の第一声だった。

 理不尽に入院させられたというのに、それに病いではないのに。

 それよりも、社長は精神病院が大層、好待遇で楽な所と思っているらしい。

 規則正しい食事と運動。箱庭療法や音楽療法。優しい女の看護師たち。

 体験しないと解るものか。

 暖房の不十分な隙間風の入る閉鎖フロア。炬燵もなく、掛け敷き一枚ずつで寝て、朝の

五時の大声のマイク放送で無理矢理起床。混雑する異常者達を割いての洗顔、歯磨き。朝

から強い安定剤の服用。

飲んだかどうかは、阿呆になって背を低くして上を向いて口を開けて看護師に見せる。

 どうしてなのか、特別食でなくとも毒を塗った様な味の食事。

 二十や三十代の女の看護師の前で、恥を棄ててパンツ一枚になり、寒風吹きすさぶなか

を二階下へ入浴に行き、入るときは、女の前で全裸になってカランを取り合い不十分な洗

髪、そして体を洗う。六十数人が一遍に入るので、シャンプーやボディーソープは、一旦

置くと同じ場所にはない。

 入れ墨を入れた男も混ざって湯舟に浸かる。

 一寸した口応えをしたと言っては、柔道体型のオオハラに、喉への絞め技までかけられ

る。

 それはそうだろう。オオハラにしたら、俺が憎らしいのだろう。

 二十八くらいの人生経験も少ない若輩者が、今はまだ准看の資格も持ってないのにアル

バイト状態で看護師気取り。そんな奴が、採血までする。

 少しでも患者の態度に問題があれば、すぐ殴る。

 俺は、オオハラが他の患者に口頭で説教をしていたときに遂に口を挟んだ。

 チャゲ&飛鳥の『Yah Yah Yah』を大声で歌ってやった。

「実に、お仕事熱心ですね。責任感と使命感に燃えて、……医者でもないのに、そんなに

患者に対して威厳を振るいたいなら、医者になったらどうですか? 医者には成れんので

すか?」

 これにはオオハラも流石に堪えたらしく、その憂さを別の場面で、俺が一回返事をしな

かった事だけで、柔道技で首を絞めてきた。

 煙草は二時間半に一本の6本。

 マスタベーションにもプライバシーはない。

 朝の十時に大部屋に全員集めて検温。

 体温と便通の自己申告。

 俺は、ビールの飲めない生活のせいで完全な便秘になっていた。3日便が出ないと浣腸。

それも男の看護師に刺されるのである。そして、その後、便器に出た便を見せなければな

らない。

 俺の場合、不倫相手の芳美の夫の江田定男に、恨みを込めて乱暴に尻に浣腸を刺される

のだ。

 こんな生活を、社長は少しでも判って言っているのか。

 

 もうすぐ正月になろうとしている。

 俺は、ここに来て10キログラム体重が落ちた。

 ビールを飲まないからだろう。183センチメートルの59・5キログラムだ。

 藪本は姿を見せず、外泊の許可さえ出ない始末だった。

 俺の愉しみは限られていた。

 まず、二日に一度、丸見えのトイレで手淫をして、出せた時の悦楽感だった。

 そして、ノートに随想を書き、家から持って来てもらった聖書をちぎり読みする。

 ノートは、破られたり、勝手に捨てられたりする。

 それは、悪霊に取り憑かれた二人の男がそうするのだ。この前は、聖書までゴミ箱に入

れられた。しかし、聖書は大きいので、善意の他の患者の通告によって、その度に探しだ

せた。

 後は、何とかスタッフ側に気に入られるしかないと考え始める様になった。

 ともかく、かなり年下の男の看護師が偉そうに指図しようとも、従順に従うのだ。

 そこで、精神的にはもっと有効な手も思いついた。

 女の看護師に惚れるのである。それも、どうしてもこのタイプだけは無理と思われる容

姿や年令の人を除いて、妥協できるレベルの女には、とにかくこちらから一方的に惚れて

しまうのである。

 眠けの辛さも有るが、一日は長い。

 自由な時間は、看護師の女を、今日はあれが居る、そして別の日も今日はあれが居る、

と、ターゲットを決めて、ともかく全身で性的に興奮して態度には出さずに目を見詰める

のである。

 どんな女でも、どこかに魅力が有る。

 胸のでかい女は胸を凝視し、スカートを穿いてなくてズボンだろうが頭の中に映像を写

して全裸にして、その女達の核心を再現する。

 そういうことを繰り返している内に、本意ではないが誰に対しても卒のない態度をとれ

るようになり、その上、見詰められた女達は、俺に対して明らかに優しくなってきた。

 俺の脳内では、女の動く裸体映像コレクションが溜まっていき、それを使って二日に一

度は射精を試みる。

 こんな感じで我慢というか、鬱屈をやり過ごすというかを続けて、そして、餓鬼に戻っ

て良い子を演じて点数を稼いでおいて、医師に要求を言うのだ。

 それも、始めから退院を要求してはいけない。

 吉川は、俺が居ることで金が儲かっているのだから。

 ともかく俺は、正月を過ぎてから、二月の九日に一泊の外泊を具申した。

 

 年末に母と面会し、賢治は順調に病院生活を送っていると聞いた。吉川医師が、彼の担

当でもあるので彼からもたまに、賢治の近況を聞く。実に、医師や看護師達に素直に従い、

俺と違って荒れる事もないという。唯、必要な言葉以外は口にせず心が内向している様だ

という。そして、一つ気掛かりなのは、ときどき急に昏倒するのだという。テンカンの発

作なら、ひきつけ等を起こしてから倒れるが、賢治の場合は何の前ぶれもなく倒れるらし

い。

「弟さんは、入院していて正解でしたよ。もし、社会生活の中で、あんなに急に倒れたり

したら……。ここは、スタッフが充分な数居るので安心ですよ」

 と、吉川は言った。

 

 精神病院で年を越すというのは、俺にとって初めての経験だった。

 温暖化がいくら進もうと、大晦日には、やっぱり雪が降るものである。

 NHK紅白歌合戦を中途まで見て消化不良の儘、午後9時の消灯になり、オレンジ色の

薄暗い照明の中、俺は野口君の横で大部屋で横になっていた。正月に外泊しなかった者は

少なく、人の数的にも淋しい年変わりとなった。

 薬を飲まされたのだが、眠りたくなかったので、なかなか寝つけなかった。

 栗山病院のすぐ裏が大きな寺で除夜の鐘が鳴り出しても俺は起きていた。監視の目が有

るから、無駄話しをする者はなかったが、多分、皆、除夜の鐘を聞いていただろう。

 あー、俺の大事な時期の大事な人生の時間が無為に流れてゆく。

 

 正月は、別に気分一新といった感はなかった。実社会に居ても30代にもなれば、古い

世界が一夜明けたら、煤煙で煤けたラッピングを剥がした様な新鮮な感覚ーーあの、一日

の朝まだ、起き切らぬ頭に、祖母の早朝から精をだして竹ぼうきで家の玄関先を掃いてい

る音を聞く様なーーは、薄れるものである。

 朝食に餅が入っていたり、二日に書き初めまがいの事をやったり、看護婦と、おめでと

うございますの挨拶を交わす位である。看護婦でいいではないか? 何故、看護師という

呼称に統一したのか…。

 ーーーおめでとうございます。本年も宜しくお願いします。ーーー

 本年もよろしくなどしたくないものだ。

 こういう入院生活自体、悪夢だったのだと、記憶の片隅に追いやってしまいたいのだ。

 

 一ヶ月が過ぎ、一泊の外泊へ家へ帰る。

 

 たった一泊の外泊でも、意味は有るのだ。

 それは、作戦なのだ。

 吉川医師は、俺が一泊外泊した事実をカルテに書かなくてはならない。そして、カルテ

は秘匿ではあるが公共性のある物であるし、その後、俺がスタッフ側に従順にしていると、

彼は、この患者は恢復に向かっていると書かなくてはならなくなる。そして、第二段階の

長い外泊と、その数日後には、退院許可を出さなくては、査問機関に対しても言い訳でき

なくなるのだ。外泊して、その儘、病院と縁を切る方法も有るが、賢治の面会やら通院の

ときに、俺がこの病院まで運転して来なくてはならない。それに、流石に俺は、薬中毒に

なっているようで多分、睡眠薬を急に止めれば眠れなくなるだろう。

 久し振りに帰った実家は、何も変わらないものだった。

 数ヶ月ぶりにアルコールを口にした。

 シーバスリーガルとセブンスターは、こんなにも旨い物だったのか。樽の味の蒸発の息

にチャコールの煙が微妙なブレンドの味を舌に加える。

 俺は、母の前で、その日の夕方と就寝用の薬を包装を破ってゴミ箱に捨てた。薬を飲ん

でない事が、あのオオハラにでもバレたら、又、首を絞められかねない。

 旧正月の夜が、俺にとっての正月になった。

 賢治は恢復に向かっているらしいが、一度も外泊は出来ていないそうだ。俺も賢治も、

生命保険に入っていたので、医療費で要る分を考えても家の経済にまでは迷惑は掛かって

いない。今、この家は、俺の幾らかの貯金はそのままで、母のパート収入だけで何とか息

が繋がっている。

 牡蠣鍋を食べ、後は、イカ黄金を充てにして、久し振りに長々とウィスキーを飲んだ。

 TVも点けずにクォーツ時計の針の音だけがやけに耳につく夜となった。

 四畳の書斎兼寝室の自室に戻り、埃を被った10冊の日記を読み返しながら、その日は、

普通の眠りについた。

 

「トッす。タテちゃん元気か?」

 十年前に行く先を告げずに消えた鷹谷圭吾だった。

「お前、離婚したって聞いたけど……、今、どこにおんねん」

「それは言われへんなあ。」

「お前のこっちゃから上手いことやっとんねやろなぁ」

 鷹谷は、しきりに俺の胸に、ヘッドアタックしてくる。それは、鷹谷が俺に甘えたくな

ったとき、いつもする友情表現だった。

「トッす。タテちゃん。お前は、今まで上手いこと行き過ぎてたんや。……少しは、世の

中に不条理もあるのが分かったやろ」

「あー、俺、今、しんどい」

 鷹谷は、兵隊の敬礼の様な手つきを頭のさらに上に右手で二、三度作った。

「逃げたらええねん。どうにもしょうないなったら、俺みたいに逃げたらええねん。……

ええか、逃げんねんで、死んだらアカンで。死ぬよりは逃げるや」

「あー、そう言えば、坂上は、死んでしもうたな。アイツ、自殺する様な奴やなかったの

にな」

 俺が、そう言い終わると、鷹谷の家の駐車場の景色も、鷹谷も暗闇に消えてしまった。

 

 真冬の或る日、俺は、買ったばかりの中型の単車を押していた。

 印刷所の辛い残業が終わって、会社から出るとき、何度スターターを蹴っても単車のエ

ンジンは掛からなかった。

 俺は、泣きたい位だった。

 一か八か、居てくれたらいいが…。会社から五十メートルの所に其奴の家がある。

 温厚で快活な顔で、坂上は出て来た。

 俺は説明した。

「掛かれへんねん。寒いときに掛けるやり方で、一、二回アクセル回しながら蹴って、今

度は、チョーク引いてスロットル戻して四回蹴って、それから……もう、蹴るスピード上

げるしかあれへん。……俺、力が弱い訳はないのに、…プラグが被っとるんやろか…」

「そうか。イグニッション、オフにしとるんとちゃうか? 焦って…。一寸、貸してみて」

 単車は、坂上がスターターを蹴る度、少し、仄めかす様な音を出したが、彼が10回蹴

ってもやっぱり掛からなかった。

「君の400みたいにスタートボタンが付いとったらなあ……」

「新車の内は、掛かりにくい事もようあるわ、特に、このKRの事は、俺はよう知らんけ

ど…」

 彼は、そう言ってさらに四回、スターターを蹴った。

 俺のキックスピードより、彼の方が明らかに速い。

 四発目で、KRは機嫌を直しかけた音を出した。「もう一寸や」彼がそう言ってさらに

スロットルを戻して思いっきり蹴ると、二回目にエンジンが掛かった。

 坂上が、スロットルを開けて9000回転位にエンジンを吹かし続ける。

 俺が、一旦、有り難うと言った声は消されて、彼は、まだまだ、と言いながら9000

回転で二分ほど吹かし続けた。2ストロークの白煙が、坂上家の休田に立ち込める。

「これで、大丈夫やわ」

 と、坂上は言ってスロットルを戻してサイドスタンドを立てた。

(頼もしい奴)と、俺は思った。

「有り難う。恩に着るわ」

 と言って、俺は、KRに跨った。

 クラッチを握ったまま、俺は、坂上の顔を見た。目立たないがバレーボールで鍛えた気

骨の有る男だった。

「それじゃあ」

(お前は、数年後に、自ら死んでしまうねや。何でや)

 彼の運命を変えるひと言を言いたかった。

 しかし、クラッチを繋いで俺は、スタートした。

 彼の家の休田から本道に出る手前で停まって一度、俺は、奴を振り返った。

 日に灼けて実直な彼の笑顔が俺を見送っていた。

 左方向指示器を点けてスロットルをゆっくりと上げる。

 クラッチを繋いで、冬の夕暮れをカワサキKRが走る。

 7000回転を超えると爆発的加速度が、俺の胃に堪えた。

 

 夢から醒めて、俺の正月も一晩で終わった。

 朝食のときに、又、食後用の薬を棄てた。

 自分の家に居るというのに、これは入院中の外泊でしかないのだ。俺は、今、栗山病院

に動きを拘束されている。

 そして俺は、病院に戻った。

 六十三才の母は、俺のシルビアを運転して家に帰っていった。

 

 二月十四日に吉岡が退院した。

 退院する者は、その日、嬉しさを隠すことができない。

 ーーー「黒岩さんには、ホンマに世話になって……帰ったら外で会いましょう」

 他の患者のときも、誰も退院時には同じ台詞を口にした。

 そして、退院する者の大学ノートに、残る患者は名前と住所と電話番号を書いた。

 彼が退院後どう生きるのかに俺も誰も興味はない。患者同士の連帯感などない。

 精神的に病んでいるか犯罪者だ。ひきこもりの男か万引きの常習犯か。感情の起伏が激

しくて一人で叫び続ける様な男かヤクザかだ。

 彼らがどこの馬の骨かなんて、入院生活で見極められはしないし、だから、誰も対患者

を信用したりしない。

 警察で正式に取り調べられるのかも知れないし、もう示談で処分が済んでいるのかも知

れない。でも、前科ではないにしろ、前歴という記録を記されてしまっただろう。

 

 どうやら、俺の作戦は、成功しそうだった。

 三月の中旬に一週間の外泊が決まった。

 今は、冬の終わりの雪が降っている。

 雪片は、激しく温暖化に対抗している。

 

 朝食が済んで、特殊法人の朝の連続テレビ小説を見終わると、俺は決まって梁という人

と将棋を指す。定年退職した男達が、必然もないのに毎朝、市民図書館で顔を合わせる様

なものだ。

 この梁という男、どこから観てもヤクザである。五分刈りに刈り上げた頭、マイルスデ

イビスの様な脂ぎった黒い肌、ブルドッグの様に頬の肉は下がり、太い唇はへの字に曲が

っている。

 最初、俺が何かを話し掛けたときの返事も、

「オウ!?」

 という、凄みを持った声だった。

 日本のヤクザ映画は、本物のヤクザの恐さを表現しきれていない。本物の声は、聞いた

者は胴震いを起こす。腹から出る気功の気を孕んだ低音なのだ。

 悪意のない者には、悪意を返さない。だから、俺が、世間話しから始めて、江田が送り

込んだ人ではないのかも訊いてゆき、何もかもを節度ーーー特に年上に対する敬語等ーー

ーを保って話しを単刀直入でする内に、彼(梁)とは、将棋をするまでの仲になった。

 連続テレビ小説では、小さな、頬っぺたの赤い女の子が、出て来て、その子が、成長す

るのと、雪国に蒸気機関車が出て来てーーーともかく、俺は内容を判ろうとしていなかっ

たので、ちんぷんかんぷんだったがーーー悲しい話しだった。それが済んで、今度は十八

位の女の子が主人公で、和菓子職人になるという話しだった。この枠でやるドラマで、主

人公が年頃の女の子だったら、決まって気持ちの悪い笑い方をする。俺なりに考えると、

カメラマンか監督かプロデューサーか演出家が、ずっとカメラの後ろから主人公を観てい

て、その男が気持ちの悪い笑い方をするのだろう。だから、主人公は皆、そういう笑い方

になる。

 梁さんとの将棋は、殆ど俺が負けた。

 どちらも行き方を知ってるだけ位のレベルなのだが、俺は薬のきつさで頭の働きを抑え

られていた。

「今度は、キャンディーズのCD、録音して来てん」と、外泊から帰った梁さんは、その

日上機嫌だった。

 誰もが青春時代からは老いようとしない。俺にとっては、甲斐バンドだし……、死んだ

親父は、田端義夫だった。いつまで経っても、キースリチャードだと言う鷹谷。社長室で

ベンチャーズばかり聴いている山中製缶の社長。

 

 三月の中旬になって、俺は外泊で家に帰った。

 俺は、辞表を書いた。

 久方振りに山中製缶へ出向き、俺は社長に辞意を述べた。

 君が、不本意に入院させられたと聞いているので、今の所、君の進退は保留にしていた

んだ、と社長は言った。

 俺は、色んな意味で思う所が有るので、退社する、と、社長に話した。

 今の景気では、再就職は難しいのではないか、と社長は俺を引き留めた。

(五月蠅い、自分の事は自分で決めるさ)

 本気で俺の立場になって心配している訳でもないくせに。

 山中製缶は、小企業で、俺の給与は、年間二〇〇万さえないのだ。商業簿記で習った経

営側の給与の目安を考えると、腹が立った。

 会社の事務所から出るとき、事務所に入ってこようとする芳美とすれ違った。

 お互いに一瞥しただけだった。挨拶すら交わさなかった。

 その日の夕方、5時半に、俺たちは連絡をとった。

 外泊の最終日に、俺と芳美は、S町のホテルで出会った。

 栗山病院に行動を拘束され制限されているなかラブホテルで女と会っているのだ、俺は。

 俺は、別れを切り出した。

 女は食い下がった。

 ーーー「今のままでエエやんか?」

 もう、俺は、この女など信用していない。

 当初の約束の5年は、俺が理不尽な入院生活をしているときに過ぎた。それなのに、こ

の女は駆け落ちも実行しない。離婚すらしない。行動を伴わない決意の言葉など、イコー

ル嘘である。

 それでも、別れを言いに来たにも係わらず、俺は、芳美に入りたかった。

 緩い膣の壁に何千回と俺は出入りした。

 ぱん! ぱん! という音が何回も部屋のなかに響いた。

 顔がいいという訳じゃない。身体が合ってるという訳でもない。乳房は俺と付き合う様

になってはち切れんばかりに大きくなった。背は低いし、キスをしたまま性器の結合はで

きない。膣は完全に緩い。なのに、何故この女に性欲が湧いて来るのか……。そうだ、こ

の匂いだ。今まで付き合った、どの女とも違うエロスを掻き立てるしかも高貴な肌の匂い

だ。

 S町の電車の駅まで送って行く俺の車のなかで、彼女は声を出さずに泣いていた。溢れ

る涙は枯れなかった。

 これが純粋な心とでも呼べるのか。

 芳美から観ても、俺は、充分に満足させてくれる性の対象だろう。勿論、恋愛感情も有

るだろう。子や現在の夫を捨てる気がないなら、肉体的に俺を許す様なことをしなければ

いいのである。家の結びつきとか、そういう諸々が有るのが結婚だろうが、それを維持し

たいのなら、たとえ他の人に惚れても、交わってはいけない。どうせ、俺と別れれば、も

う俺とは交われないんだという悟りを得れば何日か後にまた、厭だった夫に股を開くのだ

ろう。

 俺の知り合いにも酷い男が居る。

 結婚してて子供も居るのに、自分は独身だと嘘を言って若い女を漁って、何人もの独身

女とも自分の妻とも寝る男が。

 こういう奴らを自分勝手というのだろう。

 その男にしても、芳美にしても。

 配偶者との堅実な世間体と、息子や娘も可愛いが、独身の魅力的な異性とも関係を続け

たい。

 潮時が来て退けば、家庭という安らぎは有るが。俺は、別れたら全くの独りだ。その上、

婚期としての一番大事な時を失ってしまっている。

 端麗な顔の内奥には、欲の際限のない餓鬼仏が住んでいるのだろう。

 俺は、泣いている彼女を駅で降ろした。

 芳美は鼻をぐすぐすと云わせていた。

 俺は、最後の挨拶もせず、ドアを閉めてシルビアを発進させた。

 

   『癈人(はいじん)つくりて…』ーーー下へ(クリック)

 

 


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