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『壁蝨(だに)』出版までの断章ーーーエッセイ [自作原稿抜粋]


   『壁蝨(だに)』出版までの断章

 平成十六年三月に仕事を辞め、その年の五月に、文芸社の出版相談会(神戸)に行き、粕屋さんと初めて出会う。
 以前からの脱稿した原稿『悪夢』(小説すばるへ応募して落選)と『壁蝨』(角川エンターテインメントネクスト賞へ応募して総合評価Cをもらった)と『奇妙』(角川エンターテインメントネクスト賞に応募して総合評価Eを受けたもの。感想を急かしたので悪評になったのかもしれない。しかし、当初三ヶ月という待ち時間を打ち出していたにもかかわらず、角川書店側は、結局5か月も待たせた。)を持参し、担当者の粕屋氏に渡して帰った。

 僕が小説を書き始めようと思ったのは、相当前だ。体が病気とまではいかないが不調続きで、それが原因で仕事を変わりまくっていた。勿論、我慢が足りない事が理由であった場合もある。
 二十九才の時、無職になった僕は、人生で、自分ほど不幸な人間は他に居ないのではないかと嘆いた。どうせ、体の調子が優れないなら、家にパラサイトしているのは屈辱だが仕方ない。何か他に突破口はないものか、と考え、作曲家にはなれなかったんだから、楽譜を起こすのは遅くても、日本語そのものを書くのなら、誰にも負けない筈だと思って、小説家を目指そうとした。しかし、架空の筋書きが何も浮かばなかった僕は、構成も書かず、いきなり書くという事を何度かして、その度に、自叙伝になってしまう作品を途中で放り出す羽目になった。
 三十五才までは、次の仕事が決まったので仕事だけの日々を送っていた。どうせ無理だ。小説を書く人などは、やっぱり特別な才能を持った人なのだ、と自身を納得させていた。
 三十六の時に再び無職になり、そして、内科病棟への入院を、丁度潮だと思ってした。

 その病室で出会ったのが、F氏だった。これを運命の邂逅と言うのだろう。F氏は、私の向かいのベッドで治療を受ける肝臓病の老紳士の息子さんであり、高等学校の教師だった。
 入院生活というのは、楽しみが制限された生活である。僕も本を読む、という事以外、殆ど楽しみがないので、藤岡弘氏の書かれた『仮面ライダー本郷猛の真実』という本を読んでいた。
 私のそれまでの読書量といえば、情けない事に、学校の教科書と、西村京太郎氏の十津川警部シリーズくらいしかなく、二、三十冊といった処だった。小説家になりたい癖に、読書はそんなに大切ではなく、読めば却って、文体を型に填められるなどと考えていた。
 入院生活は、人生に希有な瞬間で、この機会に沢山本を読んだらいい、とF氏は読書を勧めてくださった。「読みたい本があれば、リクエストしてくれれば持ってきてあげるよ」と言われ、それなら、世に多く売れている村上春樹氏の『ノルウェイの森』が読みたいと告げた。F氏は、ご自身も本を多く読まれ、また多くの本を所有してらっしゃるので。次の日にすぐ、僕は『ノルウェイの森』を手にした。恥ずかしながら、当時の僕は、『ノルウェイの森』でも、所々漢字にひっかかり、すらすらとは読めなかった。
 F氏の最大に愛しておられる作家が五木寛之氏で、僕は、その後、五木寛之氏の作品を多く、ベッドで読んだ。(F氏の読書量は、その当時、既に千冊を超える。そのお父さまの方は、二千冊くらい読まれている)
 僕は、十代後半から二十代後半までの時期は、何をしている時でも、善とは何か、厳密に正しく生きるとは、どういう基準で生き、行動すれば良いのか、道徳的、さらにキリスト教的に、実社会の具体的な場面を仮定し、考え続ける傾向にあった。しかし、それでは、仕事などが上手くいく筈がない。正確に仕事はするが、常時考え事が頭の隅で回転しているので、製造効率は悪く、人と話をしていても、話は半分ほどしか頭に入ってこない。ゆえに、読書などは、集中が続かず、量を読めてはいなかった。
 しかし、その入院していた頃には、そんな強迫傾向は、ふっきれ、本の内容はすらすらと頭に入ってきた。
 辞書を引くという事が極端に少なかった。当時(入院の頃)、自宅の書庫は壁蝨の温床だったので、本という本は全て痒くて、長時間手に取る事が出来なかったのだ。僕は、F氏に判らない漢字の読みや意味を訊いて読み進めた。
 後に電子辞書をプレゼントしてくだったのも、広辞苑の壁蝨に汚染されてないものを下さったのもF氏である。
 僕は、F氏に何と感謝していいか分からない。そんなに深い付き合いでもない僕に共同出版の初版代を貸して下さったのもF氏だ。僕は、彼に足を向けて眠れない。

 さて、その内科入院も約三ヶ月で終わり、僕は退院した。しかし半病人状態の僕は、なかかな仕事に就く一歩を踏み出せずにいた。そんな時、多分あれは、春頃か梅雨の時期だったと思うが、凄く鮮明な画のサスペンス風の夢を見た。朝、うなされて起きた僕は、その粗筋をぼやけた頭で手帳に書き付けた。
 それが、第一作の原稿になる『悪夢』である。僕は、入念にプロットを練り、ストーリーも始めから終わりまで考え、システム手帳に書き綴った。その骨子を元にして書き始めると、筆が止まるという事は殆どなく、約四ヶ月で『悪夢』を脱稿した。
 その時の嬉しさは、今でも忘れない。僕は、一作を最後まで書ききったのだ。
 入院当時に知り合ったT女史とF氏に原稿を読んでもらった。
 実に、退院から一年半は、執筆に明け暮れた。
 二作目は、自分の経験をなぞった『壁蝨』を。それは、絶対にプロになってやると思い、ストーリーがないので、自伝的でもいいから書くべきだと、自分をむち打ったのである。そして、三作目、『奇妙』。
 この『奇妙』を書いている時、僕は、妻のS子と知り合った。『悪夢(異方向エネルギーの錯綜)』は、大それた事に小説すばる新人賞に投稿した。入賞するとは端から思っていない。
 自分の史実を創る意味が強かった『壁蝨』は、当時、新聞、TVニュース等でざわめき始めた角川エンターテインメントネクスト賞に応募した。何より、三ヶ月で審査結果と感想が返ってくる処が魅力だった。 『壁蝨』は、総合評価、五段階の内C評価を受けた。しかし、B評価までしか、雑誌にも載らない。しかし、確実な手応えを僕は感じた。(発足時は、C評価までを雑誌掲載するとしていた角川書店だったが、僕が『壁蝨』の感想をもらったときに、B評価までを掲載と軌道修正した。運のない男は、こういうものである)
 さて、S子とは急速に愛し合う仲となり、お互いの親との話し合いも何度か持たれ、トントン拍子で結婚となった。
 結婚が決まると、丁度、その頃は、先輩のO氏の業務拡張に伴うピアノのリメイクの仕事に行っていたのだが、仕事量が少なく、一人前の男としての給与を弾き出す為にも、O氏にさえ転職を勧められ、派遣社員の登録をし、電子部品の製造やら、製薬会社での湿布薬の製造、ストーブや電化製品の製造など、製造ラインの工員としての日々を送った。これは、かなりきつかった。ずっと以前にもトヨタなどで製造ラインの仕事もしていたが、やはり派遣社員での製造ラインの仕事はきつい。人間のスピードの限界を要求される。しかし、不思議なもので、妻を得る事になっていると思うと、それが苦ではなかった。
 式を挙げた頃は、丁度、派遣先の仕事がなくなり、派遣登録はしているが、実質上無職の状態だった。
 親戚、友人に祝福を受ける、ささやかだが、この上ない最良の式だった。それから、何と言っても、貯金の少ない中に於いて行った滋賀県琵琶湖畔への新婚旅行は、この上ない幸福な瞬間だった。
 さて、旅行を終えて、地元自宅に戻り、新しく仕事を捜した。営業の仕事がなんなく決まり、その年の五月から新しい生活が始まった。
 しかし、実に七ヶ月という期間だけで、妻は、あっけなく他界した。その事については多くを語るのは避けたい。
 僕は、半分自棄になったまま仕事を続けたが、……何の為の仕事なのか、仕事自体も醍醐味はあるのだが、いかんせん体は不調で、神経過敏で、偏頭痛、テレパシーが出る、壁蝨や埃で一日中鼻や耳の具合が悪い、などの症状をひきずったままだった。新婚わずか七ヶ月で妻が死んでしまう、というのが、どういうダメージなのか想像してみて欲しい。三ヶ月後に風俗店へ行った。しかし、それは、自分の女になる女では勿論ない。仕事(営業)をしていて、どうして出会いなど有るだろうか? 取引先の受付や総務や事務員に私的にアプローチなど出来る筈もない。自社の女性は結婚している。その上、後輩で這入ってきた男性社員は、子供が可愛く、月に一度でもどちらかの自宅で飲もう、と誘った処で、そんなにはつき合えません、という答えである。この会社には、一年近く居たが、酒の席というのは、一度もなかった。給与がそれなりだったら張り合いもあろうが、田舎の店員なんかのアルバイトと同じ時間給を掛けた月給である。賞与も制度としてない。その上、台所(業務用)の下水の油分解システムの保守・管理に営業でありながら、月に四、五日は出なくてはならない。しかも、相手は客商売なので普通に仕事を一旦終えてから、深夜の十一時半とかに作業の為出勤である。しかも、その作業のマニュアルもない。研修も受けていない。何の為に働くのか? 別に、喰うためだったら、喰わなくてもいいし、事実、死にたいと思っていた。仕事が無為に感じられて、結局、身が入らなくなり、辞めてしまった。
 会社に対してきっちりと辞意を述べずに、会社を辞めた僕は、あまり外に出なくなり、その間に家に隠って小説を再び、書き始めた。
 新婚時代に最後まで完成させていた『奇妙』を含めて三作の作品を持って、文芸社の神戸出版相談会に予約を取って出向いた。

 まず、担当者粕屋さんと社交辞令的な世間話などをし、自作の三本を手渡してきた。
 相談会の折りは、粕屋氏は、誰でも世に通用するという訳ではないんです、と言っていた。最悪の場合、感想も付け加えずに、原稿を送り返す場合もあります、と仰有った。しかし、自分とて、プロ志望である訳だし、プロ指向であるからこそ、粕屋氏は、それだけの事を言われたのだろう。
 次の作品を書きながら、文芸社からの感想の送られてくるのを待った。
 たしか、きっちり二週間で、感想は送られてきた。平成十六年、五月25日付け郵便。
 それを読んで僕は文芸社に感謝した。二百枚前後の作品を三作も渡したのであるが、実に、細部まで読んでくれているのが分かった。それは、角川ネクスト賞の批評よりも、さらに詳しく読んでいるのが分かる。しかも、感想の文の長さだけでも、角川よりも長かった。しっかり読まずに批評だけしている場合は、批評点が矛盾していたり、折角或るエピソードを織り込んで、その後それを氷解しているのに、それが処理出来ていない、とか平気で書いてある場合もあったのだ。しかし、文芸社の批評は、完璧だった。全体を把握し、褒めるだけでなく、今後の改善すべき点も忌憚なく指摘していた。
 残念ながら、企画・協力・自費出版を含め、未だ世に出せるほどではないと評価された。しかし、もう少し改稿、或いは推敲を施せば世に通用するものになる、と書かれていた。
 僕は、仕事を辞めて、しかも失業保険も手続きを行っていなかったので、焦った。剰り、悠長に構える訳にはいかない。そこで、一番批評の少なかった『壁蝨』を改稿する事にした。職業作家になるつもりなのである。趣味なら、そんなに一生懸命にはならなかっただろう。
 次の作品を書きながらも、『壁蝨』を改訂し、九月下旬に、再び文芸社へ、今度は郵送した。
 その一週間後、僕は、新聞などでも広告を載せている新風舎へも同じ原稿を送った。それは、すなわち、自分の作品が客観的にどの程度の力量なのかを複数の出版社からの書評で判断したかったのである。
 文芸社が、丁度、二週間後、新風舎も三週間後には、評を送ってきた。どちらも、分厚い封筒で、協力・共同出版の特徴の説明が有った。企画では無理だが、共同・協力出版でなら、是非とも出したいと書いてあった。「**さまの作品が、世に出せるレベルであることは、審査委員会全員の意見が一致しております」と、文芸社の便箋には書かれていた。僕は、やっと、ここまで来たか……、と、自分をねぎらった。そして、言いようもなく嬉しくなった。
 だが、問題は、初版費用の負担分である。貯金もしてない僕には、そして、サラ金でも、カード(ローン会社の)でも、返済の延滞をしたことが有って、ローンは組めない。身内にローンを組んでもらうとしても、母は、細々としたパート勤めしかしていなく、返済の目途もたたない。弟には、そんな事まで頼む気にもなれない。金利が付いてまわる。自身はすぐに、何かの仕事に就けるほどの健康もなかった。親族や亡き妻の父にも、恥を棄てて頭を下げたが、そんな余力はないとの事だった。もっと安い自己負担で全国流通の出版をしてくれる処はないか、公募ガイドを何度もめくり読み、今回の鳥影社と、彩図社と東洋出版に同じ原稿を送った。
 文芸社の費用は、二百万強、新風舎の費用は、二百万弱、鳥影社は、百万弱、彩図社は六十万くらい、東洋出版は、文芸社と同じくらいの額。東洋出版へは、先に電話で、大体の費用を訊いた。初版代著者負担の場合、文芸社と同じくらいだと言われたので、企画で出せるかどうかご検討頂きたいと書いて、原稿を送った。
 そうこうする内、F氏に協力出版出来ると二社に認められたとの事を告げた。F氏は、それなら一回原稿を読んでみたいと仰有るので、一旦学校に原稿を言づけた。
 二週間ほど経つ内に、鳥影社から、百万弱で、是非とも共同出版したいとの封書が届いた。
 その少し前の段階で、F氏が僕の為にお祝いをしてくださって、一泊の宿を世話して下さり、僕は、その宴会の中で、どうしても出版したいので五十万貸して下さい、と頭を下げた。畳に額が付くほどである。期限を翌々年の五月とした。最悪の場合でも、母の年金を一年分一括で、その時になったら受ける事が出来るからである。【加筆】(実は、母は隠していたが、その年金とは、僕の障害年金だったのである)勿論、二千五年の末になって、小説家として、(他にも賞には、その後二作応募している)成功していなかったら一般の仕事に厭が応でも就いて返済金を稼ぐつもりではある。五十万というのは、彩図社の場合の共同出版の著者負担の初版分の費用である。F氏は、分かったと、その話を受けて下さった。F氏と僕とは、内科入院時の患者と患者の家族という関係でしかない。そんなに懇意とは言えないのだった。僕は礼を言った。
 その後、僕の母も同席して、正式にF氏にお金を借り入れる話を喫茶店でした。その時、F氏が鳥影社からの封書を見て、この出版社は知ってると言われ、僕も出来れば鳥影社から出したいのでもう一度頭を下げた。その時、F氏が、で結局、僕は幾ら出したらいいの? と訊かれた。僕は、思い切って百万の借り入れを具申した。F氏は快諾してくださった。
 借り入れに関して、どうしてもきっちりと書面を交わすのが社会人としての礼節だと思った僕は、図書館でその書式例を載せた本を借りてきて、自分でフォームを作り、生まれて初めて金銭消費貸借契約書を実用の為に書いて判を捺した。
 新札の百万円の束を掴むのは、実に二度目の経験だった。初回は、知人に身代わりでサラ金から借りた時だった。その晩、一晩現金を枕の下に置いて寝た。希有な機会なので敢えてそうした。大金を稼ぎたい、と本気で思った。

   *   *

 二〇〇四年、十一月二十七日(土)の随筆より。

 今日ほど嬉しい日はない!!
 T町の鹿鳴館(喫茶店)でFさんと会って、鳥影社での出版費用を全額出してあげると仰有った。
 勿論、借りるのだが、
「それで一体、僕は幾ら出したらええの?」って、単刀直入に言われて、鳥影社の額を貸してもらえる話になった。
 やっと、出版の世界へスタートできる。
 こんな嬉しい夜はない。

 その二、三日後に、彩図社からは、この原稿は出版に価するほどの完成度ではない、しかも、売れないだろうから共同では出せないとの返事が来た。担当者は長々と、タイトルが悪いとか筆名が悪いとか最初の数頁で読者を惹きつけない、とかボロカスにこき下ろしていた。僕は、その便箋をくしゃくしゃに丸めた。ともかく、百万の借金を打診していて良かったのである。F氏から五十万しか借りていなければ、出版の話は頓挫する処だった。

 そして、この話が決まる少し前、中学時代からの友人Nとの決裂が有った。
 Nは、僕の小説を読んで感想を言ってくれたりする。その部分では、他の友人よりも有り難い存在だったのだが、それとて、大した事ではない。Nは、僕が1990年にTV出演し、自身の作曲で或る曲が番組で取り上げられた時に、手の平を摺り合わせて僕の間近に寄って来た。**君、凄いわ。君が、作曲するんなら、僕は作詞をしてみる、と言って、何ヶ月か後、ノートに詩を書いたのを僕に見せた。新機軸を感じるという程の事はない、ありふれた歌謡曲の詩だった。
 Nとは、以前から、小説家に憧れる話をしていた。
 何度も常識外れの行為を僕に対してした事が積み重なって、僕は、数年前、一度Nと絶交した。しかし、友人の少ない僕は、こんな奴でも居た方が話相手にはなると思って一度、自分は悪くないのにNに対して謝った。それで、Nとは復縁していたのだが……。
 その当時、仕事を辞めていたNは、丁度、同時期に仕事を辞めていた僕に電話を寄越した。これが、そもそも可笑しい。妻の死んだ後すぐの連絡である。
 僕は、小説家を目指す今の状態をNに話し、Nは、僕の投稿前の作品を読んでくれるようになり、仲はほのぼのと続いた。
 Nには、嫁が居る。どういう経緯で結婚になったのかも言わないし、式も挙げていない。それどころか、僕が、自分の式に誘ってもはっきりと理由を言わずに列席を拒否した。
 派遣社員を続けていたNだが、その頃、半年以上付き合ったが、次の仕事を決めない。実父が死んで遺産が入ったらしいが、大して金は入らなかった、とはっきり僕に言っている。それでも、Nも、その妻も半年以上仕事をしない。借りている一軒家に行っても、料理が作られて置いてあった事は一度もない。
 Nとは、一度決裂した時に、彼が、**君は作曲家に成り、僕は、小説家に成る、お互いに夢を成功させるまでは会わないでおこう、と言った。ちゃんちゃら可笑しい。僕の作曲は、記譜能力が弱く、自分でも作曲家は無理と思って、遠い昔に、Nに対して、僕は、小説家を目指す、と公言していたのだ。それから、僕は、書きはするが、完成はしない期間が四年ほど続き、その頃になってやっと作品を脱稿するほどになったのだった。一方Nは、彼自身が、小説家になると言ってから、その時で十年は経っていた。Nは、書こうともしていない。それどころか、僕の作品を読んで、その私小説的な部分の事実の追求を僕に対して行ってくる。
 僕は、流石に、腹が立って、君の方が小説家に成ると自分で言ったのに、一作も書いてない、しかも書こうとする姿も見えないとはどういうことだ、と詰め寄った。まして、無職状態で暇にしているのに、と。
 Nは、その段になり慌てて、それらしい五、六枚の原稿を作って、僕の処へ持ってきた。
 二回目の決裂の原因は、捨て猫を巡っての、その処分の事である。 「**さん、ちょっと話が有るんで、家に来て下さい」という彼の妻の声の電話(留守電)が有った。
 これが、杞憂の元である。
 Nは、独立生活を始める時、僕の家に来て、借家の賃貸契約の保証人に成ってくれと頼んだ。そして、その上、その手続き書類を作成する為、実印登録書まで、僕に替わって市役所に取りに行くとまで言うのである。誰が、他人に実印登録を取ってって下さい等と言うだろうか。しかも、その時、N夫婦は無職である。二人とも健康なのにである。
 その電話を受けた時、やばい話ではなかろうかと思った。仕方なく相手の家に出向くと、涼しい顔で、捨て猫が自分の借家の敷地に置いてあって、保健所に持っていくのは忍びない、誰か引き取り手を見つけてくれないだろうか、と言う。彼ら自身が経済的に困窮する生活をしているのに、捨てられた猫に同情しているとは、何か常識人としてはピントが外れている。
 その数日後、今度も同じ文言の留守番電話の録音。又、家に行くと、猫の内、一匹が死んでしまった、と言う。「僕は、スコップを持ってないので、もし、**君が持っていたら貸してくれないだろうか、それで、あわよくば、一緒に何処か公園の土にでも棄てに行って繰れないだろうか」と、ぬけぬけと言う。
 僕は、自宅からスコップを持ちだし、僕の車にNとその妻を乗せて田舎の森林地帯まで行き、スコップで山の斜面の土を掘った。自分の車も有るのにそれも出さない。
 自分がどうにかする問題である。本来なら……。
 僕がスコップで土を掘っている間も、これは僕の問題だから、そこまではしてもらわなくても、自分で掘るから替わってくれ、と、普通言いそうなものである。
 僕が猫の死体を埋めて、土を再び被せてから、Nは信心深そうに手だけを合わせた。
 そして、また、例の留守電録音である。
 今度も、捨て猫の内の二匹目が死んだ、という内容に決まっている。
 そこで、僕は遂に怒り心頭に発し、Nに絶縁の意志を伝えに彼の借家に行った。
 お互いの小説の原稿を、お互いのコンピューターから相手の目の前で削除し合った。
 それでも、Nは謝るという事をしない。
 いつまで絶交や、と真面目に訊いてくる。僕は、「一生だ」と言った。 Nにすれば、高校の時、勉強を頑張って、D大学に現役で合格した自分は、他のどんな人間よりも優秀だと思っているのだろう。それが、親の意向で夜間部にしか通えず、中退してしまったので、その後の人生は、青写真よりも相当不本意である。顔は、人目を引く訳でもなく。人当たりも堅い。他人と上手に喋る事もできない男だ。背も低く、客観的に観て取り柄など一つもない。大学をきっちり卒業していても、世の中では使い物にならない男である。司法試験に合格していても、世で優位には立てない。器が小さいのだ。
 一緒に飲んでも、親の所為でこうなった、とか、世の他の人に対する妬みばかり口にする。あげくに、**人は下劣だ、とか、近所に在日の人が住んでいる僕の自室で大声で喚く。自分の現状を変えようと、何らかの努力をしていない。何の努力もしていない。
 Nとは、小説の話で合ったが、それは、羽振りのいい人に対する胡麻擂りでしかない。自分もそれに対して一緒に横に並んで努力しているのではない。僕に実質の作品創作の軌跡を示せと催促されると、とりあえず一寸だけ書いてくる。僕は、コイツは、本当にこのままのんびりやって、経済的にきりきりなのに夫婦とものんびりやるんだから****。お互いに折半で、という個人宅への持ち寄りの宴会で、その酒と充ての買い物をした時も、いつも、今、僕持ち合わせがないから、今度出会った時に精算すると言う。それで、その今度になっても自分からは借り越している金の話は出さない。こんな事で何百回の宴会の酒と充てのNの分の金が、僕が貸したままになって、今では三十万くらいになる。それも、本当に金がないんだったら、スマンけど、今、俺ジリ貧だから、奢ってくれ、と素直に言えば、それで済んだ話である。

 まあ、そんな事が有った直後、僕は、自作の長編『壁蝨』を改稿し、文芸社と新風舎に送った。職業作家としての道がつき始めると思っていた僕は、Nとは関係を切っておきたかった。なぜならば、Nに対する不満は溜まりに溜まっていたので、Nの行動を小説やエッセイに書きたいと思うようになっていたからである。心内で不満を抱きながら、それを顔に出さずの、なあなあの付き合いは、しんどいし、もう続けたくなかった。
 僕は、今度の改訂稿で、文芸社や新風舎からは出版の話が来るだろうと予期していた。自分の作品を常に客観的に査定していたのである。

 案の定、協力や共同出版の話が次々に届き、後は、資金の面をどうするかになってきた。Nが、聞けば驚いて、又、この人は破格な事をやらかした。自分は、先を越された、と落胆するだろう。

 さて、資金の面での話は、実質前述しているので省くが、資金の目途がつくまでは、連日自室で自棄酒を飲んだ。
 僕は、元から貯金をしない性格ではないのだ。
 転々と職を変えてきたので、しかも、どこも小企業なので給与は高くなかった。それでも、一時、将来を見越して貯金を始めた。しかし、その財形貯金は、実母に勝手に遣われてしまった。この母の所為で、僕は、色んな場面で自分で出した結論をねじ曲げられ、失敗している。実際面で様々な自己で出した決断を、この母は、自分の裁量の方が堅いと思い込んで、悉くねじ曲げてきた。貯金を失った事だけにとどまらない。就職の紹介も、妻の死に関しての最終段階での予防法の選択でも、ことごとく、この母は、良くない決断を下し、それを強要し、実にまずい結果を導き出した。亡き父が、生前酒乱だったのも、この母の性格による処は大きい、と、今の歳になって分かる。酒が飲めない母は、酔っている人間の機嫌を損ねる事しか言わないのだ。

 そんな訳で、貯金はなかった。
 母が、昔から観てもらっている易者の処へ相談に行くと、易者は、それは、チャンスだから、何としても出版すべきだと言った。それで、最悪の金銭状態での返済の形を決めて、期限を切って、F氏にお金を借りる事になったのである。

 話が脱線するが、僕らの世代でも、家から仕事に行っている同世代は、所謂パラサイトが多い。
 ウチの家は、全員が家に仕送り、もしくは仕送り的な金を入れてきた。すぐ下の弟は、実に、延べ八年くらい大阪や姫路の分家から一月、十万を入れていた。一番下の弟は、家に同居するようになってから、一月、五万円を入れていた。五、六年くらい。僕は、僕で健康で働けていた時、一月、四~六万円を延べ十一年、入れていた。そんなん生活費だ、と言える額だろうか? 駐車場の料金も含めてもそれは、税金のような物だった。母と一番下の弟は、或る新興宗教に凝り、ーーーそれも、彼が交通事故の後遺症が益しになったというのだから、それでいい事だがーーー或る時期献金を一万~数万払っていた。僕や次男が入れた金も、回り回ってそこへ入った事になる。しかも、実弟の三男は、否、その団体は、僕に無理矢理入信させた。入信するまで部屋から出さないという酷いやり方だった。僕は、元々、別の新興宗教のキリスト教の信者であったし、どこの団体に通う通わないを別にしても、信念はキリスト教だったので猛烈の入信拒否をしたのだが、長い時間部屋に閉じ込められ、結局入信させられた。お陰で、キリスト教の根幹である信念や、忍耐力はがたがたになった。
 田舎と都会の給料の相場の違いがあって、田舎でばかり仕事をしてきた僕の給与は低い。
 地元で同じように仕事を続けていた友人が、今、僕、貯金が四百万あるねん、とかいって自己の功績を自慢していたが、その男は、実家に両親と同居で、家には、光熱費と称して八千円くらいしか毎月入れていない。そりゃあ溜まるだろう。

 文芸社からの協力出版オーケーの返事が来たのは、二千四年十月九日か十日だった。それは、分厚い封筒だった。

 母の行きつけの易者は、鳥影社へ出向いて、感触を探って、もし好感触だったらその場で即決してこい、という意味の事を僕に言った。それと同時に、何とかお金を工面し、文芸社でも出版すべきだと言った。少なくとも、鳥影社へ行った時に、文芸社で出そうか迷っている、とほのめかしてこい、という意味の事を行った。
 丁度、市井では、石原慎太郎氏の小説『弟』がTVで放映された直後であり、一般の人は、にわか文芸ファンになっていた時期だった。
 易者に、原稿を読んで下さいと置いて帰った数日後に、感想の電話があり、「あんな物は、一寸、人を惹きつけないだろう」と言ってきた。「ウチも息子が居て、貴方よりは数年若いが、ちゃんと所帯を持って生活していて、しかも文芸にも少々詳しい。その息子も、これは、作品としての焦点の絞り方が今ひとつだ、と言っていた」と言った。
 今になれば、分かる事だが、『壁蝨』は、私小説的であり、しかも、地の文で作者か主人公か重複して受け止められる独白が多い。『公募ガイド』の小説講義を書いてる作家さんもよく同じ問題を取り上げられている。しかし、それが、どうだと言うのだ。僕のこの作品に限っては、きちんとしたジャンル分けを、自分でも打ち出していない。はっきり言えば、私小説そのものはどうだ、と言うのだろう。この人達は、私小説を否定している。そんなにエンターテイメントだけがいいなら、小説なんか読まずに、映画でも見たらいいだろう。逆に、『公募ガイド』の講座を書いている作家は、サリンジャーを評価している。私小説文体だが、価値が有り、サリンジャー自身の作戦として、そういう独白を多く使っている、と。**か?僕は、自分の立場をはっきりさせておく。僕は、サリンジャーは、全く評価しない。その作家は私小説は、良くないと言っておきながら、ベストセラー作家だったらそれなりに評価するという及び腰な姿勢には首肯しかねる。『ライ麦畑でつかまえて』なんて、いつまで経っても弾けきらないアメリカンジョークの頻出である。本筋の文の狭間に厭というほど煮え切らないアメリカン・ジョークが頻出して、読み手に筋を理解させなくしてしまう。あれは酷い。その当時新しい文体という事で受け入れられたのだろう。
 何で、エンターテイメントばかり重視するのか。僕は、車谷長吉さんの私小説が大好きだし、あの人は、覚悟を決めて自分をさらけだしていると思う。身近な友人、知人の事も書く。その筆は、まるで日本刀だ。それに、現実の実体験に裏打ちされた事実を織り込んだフィクションは、充分読むに価する。凄まじい。私や僕が語るのが、そんなに気悪いなら、せいぜい誰が書いても同じ文体になる硬筆な恰好いい文体の推理物やサスペンスばっかり読んでいたらいい。そもそも、近代文学は、私小説から始まったのだ。

 二〇〇四年、十二月十六日。僕は、共同出版の契約書を持って長野の鳥影社本社まで行った。この契約を提案した企画書では、この度の出版の成約までの有効期限は、丁度この日、十二月十六日までになっていた。まさにぎりぎりのタイミングで行った訳だ。
 普段、余程の事がない限り、乗らないバスに乗って、確か千里ニュータウンのバス停で降りた。平日の朝の早い時間だった。
 地下鉄で新大阪に出て、新幹線に乗った。
 僕の病状は、世間で言われているパニック障害のようなものなので、ここ十五年くらいは、仕事でもレジャーでも移動はもっぱら自動車を自分で運転していた。
 しかし、一日で長野まで行くとなると、さすがに軽四自動車では体がしんどい。
 新神戸を七時三八分に出る上りのぞみ四十二号。それに、結局、新大阪から乗った。新大阪発が何時何分なのかは、手帳にも書いていない。名古屋発が、八時四十五分。ワイドビュー信濃5号に乗り換える。その発が九時丁度。十時五十分に塩尻駅で下車。塩尻で中央本線の上りに乗り換える。その発が十一時。十一時二十六分に上諏訪駅に着く。
 予めの電話では、余裕を測て、一時三十分に伺うと、鳥影社の窪田さんには言っておいた。
 しかし、長時間の電車移動の為もあって、例の偏頭痛がそろそろ始まりかけようとしていたので、駅前からは、すぐにタクシーを拾い、十一時五十分頃、鳥影社本社のインターホンを押した。多分、インターホンだったと思う。
 ビールを飲めば頭の痛みは緩和するが、これから大事な話で初対面の担当者に会うのに酒臭かったら申し訳ない。
 (大きなビルかも……)と予めどちらでも驚かない様にイメージしていたが、小さなビルだった。
「ようこそ、遠い所をわざわざ有り難うございます」
 と、窪田さんに迎えられ、「最近は、ずっと執筆ですか?」と、さん付けで既に成功している小説家に対する様な歓待を受けた。
 何か、タイミングを狙ったかの様に昼頃伺ったので、
「何か取りますよ、何がいいですか?」とまで言われ、結局、定食(スタミナ系のだったと思う)の出前をご馳走になった。
 本に関しての細部まで打ち合わせに応じて下さり、僕は契約書を交わした。
「会社概要のパンフレット等あれば、見たいのですが?」
 と、僕は、締まらない質問をしてしまった。
 考えてみれば、起業当初の資本金の額などどうでもいい話だった。資本金の大きな会社ほど、却って借入金が大きい事もある。
 それよりも、世に製品(本)が、どれほど出回っているかの方が大事だ。
 契約を交わした後、百瀬さん(鳥影社の社長(当時は、営業担当者だと誤解していた))に、ランドクルーザータイプの車で、観光にまで招待してもらって、美術館へ行った。入館料まで奢ってもらった。
 それから諏訪大社へお連れします、と言われたのだが、僕の方は、いつもの腹の不調になって、ガスが溜まるわ、急に何度も便意を催すわ、トイレでしゃがむと結局出ないという様な状態になっていたので、折角ですが、今日は列車の移動で草臥れたので早めに宿に入ります、と言った。
 予約を取ったホテルにまで車で送って下さった。
 その途上、銀行で、一回目の著者負担分、初版費用の内の約三分の一を鳥影社の口座に振り込んだ。
 早めだがホテルにチェックインした僕は、非常に浮かれていた。旅費が嵩むので、宿泊費の低いホテルだが、何といっても一泊はできる。
 ところで、諏訪地方は、そんなに寒くはなかった。往きのタクシーの女性運転手に、こんなもんですか、それとも今年は暖冬ですか、と訊くと、やっぱり異常だと言う。いつもの十二月中旬なら、諏訪湖に向かって周囲の山から吹き下ろしの寒風が吹き、湖岸一帯は冷気が溜まって底冷えがするというのだった。
 その日の諏訪地方は、僕の地元の兵庫県T市の辺りと、さして変わらない気温だった。

 ホテルの部屋に入ると、まず幾階かのフロアーに設けられた自販機でビールを買う。そして、すぐにそれを喉へと流し込んだ。頭痛を緩和させるのには、これが一番手っ取り早い。
 その後、フロントに貴重品を預けて最上階の大浴場に浸かる。
 夕方、地下階のレストランで夕食を摂り、その後、同ホテルの居酒屋へ行き、ウィスキーの水割り数杯と焼き鳥などを食べた。
 酔いが回ってくると、出版社の対応に気を良くしていた事もあって、カウンターの隣の見知らぬ他人に自分の出版の話を仄めかす。相手も驚いてくれ、大いに酒宴は盛り上がった。
 その後、彼は帰宅し、居酒屋の客は僕一人になった。
 女給さんに横に来て一緒に飲まないか、等と誘う。どうせ、他に客が一人も居ないのだから、許される範囲の事だろうが、店主は良く思っていなかったらしく、再び飲み直しに来て、良くなかっただろうか?等とこちらからエクスキューズすると、「スナックではないですからね」という答えが返ってきた。
 それで、僕は、その一言だけで気分が悪くなり、注文した水割りに口をつけないで、その勘定を払って早々に引き揚げた。
 その後、深夜、気晴らしに再び大浴場へ行ったのだが、そこで問題が起きた。
 その大浴場にはロッカーがないのである。
 貴重品を部屋に置いて、鍵を掛けてきたのだが、ルームキーは、入浴中も肌身離さず持っているしかなかった。
 部屋に戻ろうと服を着る為一旦、棚に置いた鍵を掴んだ僕に、見知らぬ他人の客が、「あ、鍵間違えてるよ」と言ってルームキーを差し出した。
「あ、すいません」と、その鍵を受け取り、自室の前まで来ると、何と手に持っていたのは全然違うルームナンバーの鍵だった。
(やられた)と思った。
 その後、フロントに大急ぎで申告に行き、この鍵のルームナンバーに泊まっている客を呼び出せと詰め寄ったが、フロントマンは、実に歯切れが悪い。怒り心頭に発した僕は、「警察を呼んで下さい」とまで言い、自室も合い鍵で調べたが何も盗られてはいなかった。 しかし、そんな事で僕は納得しない。
 今や、短時間でキャッシュカードのスキミングができる時代だからだ。
 現在の残高は、出版代を振り込んだ後でもあり、微微たるものだが、今後、もし、本が売れて、印税を振り込んでもらうとしたら、もうこの口座は安心して使えない。


   *   *

 二〇〇四年、十二月十七日、車中(電車)で書いた随筆より。
 
 今回は、遠出の目的という意味ではその内容を果たした。
 鳥影社の本社に行ったし、二人の担当者に歓待を受けた。
 しかし、その気分は台無しになるような別の様々な事件が起こった。大浴場から出ると、挙動不審な男にカギをすり替えられた。その追求の為、警察まで立ち会って、長い時間の実況検分があった。その警察官も被害者の俺に対してまで、上からモノを言う。
 宿は只になったが浴場に服を忘れるし。B1Fで入った居酒屋で、女の子が横について話してくれたのだが、店長はやきもちを焼いたらしく、クラブではないんでね、と俺に言った。客が俺以外に一人も居ないのにその都度、焼き鳥が出来るのに時間が懸かり過ぎ。俺は、水割りを頼んだが、店長のその一言が気に入らなかったので、態と金だけ払って帰った。
 マッサージはよく効いたが、ベッドがスプリングが強すぎて体勢を変える時に右肩を脱臼する。
 帰りに取った信濃8号は、駅員に、煙草を吸いますと言って指定席を買ったのに、なぜか禁煙車両の券になっていた。
 車内販売でサンドイッチを買ったら中からパッケージのプラスティックが出てきた。
 頭痛が酷いので途中下車した。
 中津川の駅のうどん屋でトイレの場所を訊いたらぶっきらぼうな応対。
 ビジネスには泊まれたけれど目の前に見えるのは消費者金融の黄色と黒のヤクザのような看板。
 **さんから預かったお金の内、一万円、別目的で消費してしまった。明日も最低で五千円は旅費に懸かってしまう。
 一体、この旅は、意味が有ったのか?

 その前後に、近隣の画家先生の家を訪ねた。私が幼い頃から、絵画展覧会(子供の)や中学時代の作文などを贔屓に審査して下さった、それまでの経緯もある人である。勿論、コンクールに通用する自作ではあったが。
 その訪問直後の随筆より。

 ****は完全な変人だ。
 あんな者に今まで先生先生と言って慕っていたのか?
 アンテナが張れてないとか、統一した意志を感じないとか、テーマを決めずに書くようではいかんとか。自身は画家でありながら、エッセイ等をこれまでに二五〇〇頁書いたとか。
 読む前からどんなレベルか判る。どうせ低いだろう、読む気もしない、とまで言った。
 気分が悪い!
 手みやげでも持って良かったら読んで下さいーーーとか聞きたかったようだ。
 顔見ただけで、作品まで分かるか?
 テーマなんか初めから決めるか、いつも決めるべきか? (名士ぶりやがって)彼らはその為に生きている。
 あんな奴とは付き合わん。
 大作家になっても、こっちからは訪問せん!!
 同じ作家になっても、あんな人間にはならんとこ。

 次の日の随筆より。

 やっと、或る考えに思い当たった。
 彼(**)は、自分が今まで著名になるまでに嘗めてきた辛酸を味わわすべきだと考えたのだ。
 運動部の先輩が、今まで自分が受けてきたシゴキを後輩にするように。

 その頃に……日付は分からないが別の日の随想より。

 S(二〇〇三年に他界した妻)ちゃん! ごめんな……。
 貴女は、僕がコンビニの女の子に宛てたラブレターを見たんやろう。言うてくれたらええのに。
 気にする事なかったのに…。
 僕は、貴女と暮らした七ヶ月が本当に幸せでした。今でも、僕、死んでもええねんで。
 貴女と付き合ってる時も、結婚してる時もただの一度も浮気はしていません。神に誓って。間違ってたら、針を飲んでもいい。好きやった。今でも戻ってきて繰れるんやったら、作家の夢も諦めてもいい。いつも一緒に居てくれたら、それだけで僕は嬉しい。
 
 また別の日の随想より。

 作家とて、体が資本だ。
 今のような生活では多分肺ガンで死んでしまう。
 もっと多くの作品が書けるのに、寿命の方が先に来てしまう。
 或る程度、自分にルールを創ろう。
 三〇分は歩く。
 夜、2~4時の間に書く。
 12時には起きる。
 駄目だ。決めても無駄だ。
 一日に3ページは書く。
 3時より前には飲まない。
 12~2時の間に書く。
 2時に薬。
 本を読んで寝る。
 12時に起きる。
 新聞を読む。
 図書館に行く。
 散歩する。
 ビール一缶ーーー清書する。

   *   *

 また別の日の随想より。

 お寂しいでしょう、と言って繰れるのは、Nちゃん(亡き妻の友人)だけだ。そんな本当の同情の気持ちを言葉にして繰れたので、僕は、Nちゃんの心のやさしさが伝わって嬉しかった。泣きたいくらいだった。
 皆、平板な話しかしない。
 気を遣っていると言いながら、相手の気持ちになろうとしない。相手の立場になって心底からの励ましや同情を言ってくれる人はNちゃん以外に一人もなかった。

 二〇〇四年の十二月三十日の随想より。

 二〇〇四年の十二月三十日、みそかである。
 しかも深夜で日付も変わって大晦日だ。
 今日は、このところのワインばっかりという酒種が悪いせいで頭が痛かった。
 母は、ウィスキーを嫌っていて、そして僕は今、母と弟に経済を頼っているので酒種の指定にも従わなければならない。母は、今日、僕と買い物や大掃除を共にできた事を非常に喜んでいた。僕の『壁蝨』が出版される事になった事も喜びであるようだ。


 年が明けて、1月3日の随想より。

 1月3日。SS(すぐ下の弟)と大喧嘩。
 **さんに言われた位でガタガタ言うなよ、こいつはそういう奴なんだと言いながら胸倉を掴んできた。
 お客さんにはもっと言われる、と彼は言う。しかし、それは接客の上での話だろう。必死になって書いた作品を貶されるというのがどういうものなのか彼は知らない。
 その上、修理に頼んだコンピューターから俺の手記を盗み見て俺の性格を勝手に創り上げているんだろう。

 二〇〇五年、三月十四日の随想より。

 頭が相当痛い。
 こんなに毎日、痛い時間が継くと、これは、脳に悪いのではないか?
 毎日がきつい。
 今、『万延元年のフットボール』を読んではいるが、漢字が難しい。波には乗ってきたが、分量が多い。700頁くらいはある。400字換算で。
 パラサイトイヴとほぼ同じ量だ。
 しかし、大江さん自身は、何と狭量な人なのか? 過去を引きずるのは分かるが……。夫婦間の会話でさえ、ラフには出来ず、いちいち憤ったりしている。まあ、主人公の密を大江さんの分身と考えた場合だが……。
 これは、要するに、文学とは、曲がりくねった、回りくどい比喩や暗喩を鏤めて、文章を膨らませて、又、そこに味わいがあると、評論家連中が絶賛するのだろう。
 もう少し、淡々としていてもよしのではないか?
 僕の今の文章(作品中、自作の)中で、大江さんの話をプロットとして僕が書けば、200~300頁くらいに収まってしまうだろう。
 もう一つ思うのは、勉強する様な気で読まないかぎり、読者に伝わらないという事だ。
 そして数居る評論家達も果たして、本当に大江作品を咀嚼しきれているかといえば、はなはだ疑問だ。
 あいまいな話をお互い、一片のキーワードを出すだけで、それ以上、具体的には何も話せないのではないか?
 僕が目指すのなら、G・ガルシア・マルケスとかパウロ・コエーリョのような文体であるべきだ。
 イェリネクの様な作品も、物語りという意味ではマイナスだ。何が起こったか、だけに焦点を合わせると、殆ど何も起こっていない。筆力とも呼べない。比喩力、暗喩力、擬人法などのテクニックの宝庫であり、且つ直喩にしろ、遠回しで回りくどい。
 要するに、それを世間人が分からないがゆえに崇高な文学と思い込むのだろう。
 これも、最後まで読む人は少ない。

 井伏鱒二……
 これも曲者だ。
 黒い雨という作品は、小説という範疇には入らない。
 史実を伝えるものとしては重厚だが……。
 しかもNHKの10代の読書の奨めとかいう番組で読んだという女の子が出ていたが、本当に読んだのか?
 俺の様に、年間60冊読む人間からしても飽きる文章だ。しかも、ついで読みという形態にしているが、三年かかってもまだ読破できない。これじゃあ、当時の人も読めんだろう。


 また別の日の随想より。

 虚栄心の強い、知ったか嘘つきが沢山いる。
 ランボーなら分かるけどカラマーゾフ、本当に読んだのか?
 石原慎太郎の化石の森なんて超長編を本当に読んだのか?

 オマケに**だ!!
 大江健三郎が難解だ、と言っているのは可笑しい。
 大江作品の難しさは、漢字だけだからだ。
 だから、大江作品の中、1作でも漢字を調べて熟読すれば、他の作品も楽に読める筈だからだ。
 という事は、**は、大江作品を囓る程度にしか、未だ読んだ事がないというのを白状しているのも同然だ。
 大江作品は、言い回し的には難解ではない。
 彼の作品の言い回しを難解と感じるなら、自分は程度の低い人間ですと吐露しているのも同然だ。
 宮本輝の作品が崇高過ぎるだろうか?
 何を以て自分を高みに置いているのか?
 時代背景が経験の堆積が違うだけだ。
 五木寛之氏を格別の高みに…私が読んでいない様な事を言う。
 多分、五木の作品の読書量では**よりも俺の方が上だ。

 恩田陸の『Q&A』というのは、村上春樹の『海辺のカフカ』のパクリだと思われるが、大体、本で16ページも読んでも何がどうしたという話の方向性や輪郭が見えてこないのでは……。
 僕だったら返品する。


 他日の随想……。

 Fさんに出会ってなければ、一旦、作家を志したけれども、一作目を脱稿する事もなく、日雇い仕事に埋没していただろう。
 それに以前は、本当に本を読む根気もない男だった。
 有り難い事である。
 有り難い男である。
 家の者も、こんなに不健康でその日の食い扶持を稼ぐ事もままならない奴を、理解してくれ協力してくれるし、死んだ嫁も、結果的には僕が作家を目指す動きをする為に死んで……。
 様々な辛い事も、作品の重さを増す為の肥やしになっているし。

 他日に創った詩。

 誰にも言えずに 泣いているという
 冷たい雨の中で 泣いているという

 春が来て 人は桜の下に集い
 夏が来て なつかしい家に人は憩う

 それでもこわれた想い出を孤り握りしめ
 彼女のその時はその時に止まってしまったまま

 秋が来て 宮の元に人は集い
 冬が来て 暖かい家に人は語らう

 それでも フリーズした過去の中で
 寒くもない軒の下で
      彼女は、

 泣いているという

 雨が彼女にカタルシスを誘う

 冷たい雨の中で
 彼女は泣いているという


 二〇〇五年、五月の随想より。

 5月20日(金)
 今日、鳥影社に2回目の35万円を振り込んだ。
 二稿のゲラの直しは、18日に届いてすぐ、12時間くらいかけてやった。
 今日は、鼻くそがとれず、一日中頭が痛かった。
 ワインを一本飲んだ。
 一回、手淫をしてすっきりした。
 ****(或る宗教団体)は、伝道にやっきである。
 昨日は、悪魔の声が聞こえた。
 映画の効果音のように凄かった。
 5月11日は、否、12日の朝だった。S子が、**君、ホンマに私の事愛しとんのか? と訊く声が聞こえて確かに彼女の両手が、それぞれ俺の手を引っ張って、こっちきいな、と言った。手の感触まであった。冷たい手だった。


 さて、……書き付けていた断片は大体このくらいだ。
 一稿のゲラを、まず著者校正し、一稿のゲラの戻り(社内校正の直しが入っている)を確認しながら、二稿にも大幅な改稿を、自ら施し、それを送った。僕の二稿での直しや改稿が多かったので、念校(三稿)もやりとりする事になり、その手前でカバーデザインの要望を伝える。何とか売れて欲しいので片山恭一氏の本を意識した装丁をお願いした。自分の予想よりも良い出来で。今度は、筆名を変えるか変えないかで大分悩んだ。
 僕の筆名は、初めて『小説すばる新人賞』に応募した時に、考えてもよい名が浮かばないので、取り敢えずという感じで決めたのが、『山雨野兎』だった。それから、野の字を変えて、一旦山雨乃兎に落ちついていたのだが、自身の性格ももっと野太くなって欲しい意味も込めて、中途で一旦山雨白道に変更したのだが……。
 近々、結果が発表される『新潮新人賞』へは、別の作品をこの名で出している。
 筆名は、印刷のぎりぎり前まで変更が利くという事だったので、文字通りぎりぎりまで悩んだ。もっと普通の人名らしい名に出来ないかも、相当考えたが、しっくりくるものは浮かばなかった。
 行きつけの散髪屋をやっている友人と、この半年ほどで急速に親しくなったM氏と、**(宗教団体)の人達に相談すると、結局、元の山雨乃兎がいいと皆が一様に言うので、そう決めた。そして、その前に易者の人にも字画を診てもらっている。そこそこにいい画数なのらしい。
 二稿のやりとりまでは、そんなに遅れる事はなかったのだが、念校が届くまでは、実に60の遅れを待った。
 もう目の前に迫った感のある人生初の自分の小説の出版が、それだけ遅れると、日によっては苛々したりもした。そこそこに何かの仕事でも遣っていたら、そんなにそればかりを気に病む事もなかったかもしれない。いかんせん、体調は不調で、神経過敏だし、それに自分で決めた日程で、今年(二〇〇五年)の暮れまでは執筆だけに専念すると決めていた。しかし、友人・知人はそんな状況を甘えているとしか見なかった。自分でも甘えているとも言えるのかもしれない。流石にそこに焦点を当てて言論で攻撃されると、相手に喰ってかかって、何人かとは疎遠になった。
 校正の担当者は、二人ともかなり、こうした方がいいとか、言い回しにも意見をぶつけてきた。しかし、それは、本当に勉強になったと思う。特に、僕の文章は、副詞や助詞にも漢字を使っていたので、始めの初稿は漢文のようだった。
 今になって、自身の『壁蝨』を読んでみても、まだ漢字の比率を低くしても良かったかなぁ、と思う事すらある。書き手が、幾ら漢字を多く知っていても、敢えて漢字の量を減らしてひらがな混じりにする方が読みやすいのだ。

 出版・流通が遅れた事は、何か見えない力がそうしたのではないか、と思う。僕は、今年(二〇〇五年)の暮れまでは大殺界で(所謂、空亡で)、冬の時期にデビューするのは良くないらしい。剰り占いにはこだわらない方だが、合わせられる範囲は、占いにも合わせておく方が、失敗した時に、それを理由に悔やまなくて済むのは確かだ。

 いよいよ八月の三日に著者分の百冊を鳥影社からの郵送で受け取った。
 素晴らしい出来だった。
 本文を書いたのが僕。誤字脱字以外の改稿を施したのも僕。目次を考えたのも僕。あとがきを書いたのも僕。略歴を書いたのも僕。装丁の要望を具体的に出したのも僕。その完成品は、実に、僕の要望通りのものになっていた。
 その日は、友人・知人、それから図書館の寄贈に動き回り、夜は、一番の理解者で協力者のF氏に11冊を贈呈した。F氏の車で移動したので彼は飲まないで、僕だけが、彼の奢りでビールをよばれるという甚だ不遜な宴会をしてもらった。
 彼には、いつか恩返しができるように僕は研鑽を積まなければならない。

 今日が、八月七日である。
 先日、腹の立つ事が重なって自室のTV画面を足で思いっ切り蹴ったのだが、十日以上経った今でも、まだ、その足が痛い。TV画面の方は硬化ガラスだったので、びくともしなかった。
 八月五日に、取り次ぎへの見本出し、八月十一日に取り次ぎ会社への搬入である。おそらく、八月十二日の夕方には、全国の書店に並ぶだろう。
 三日が勝負だ。
 三日間で一冊も捌けなければ、大抵の書店は取り次ぎ会社へ返品するだろう。
 盆も挟むので、八月二十日までに、それぞれの書店から最低、一冊は売れてほしい。
 そして、ベストセラーになるかどうかは、大体二週間で決まると自分で考えている。
 つまり、今月、二十六日くらいに一刷の千部が全部捌けて増刷が決まらないと話にならない。


 八月十五日

 終戦記念日。
 一昨日、母と近隣の書店を巡ったが、拙著はまだ並んでいなかった。




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岩上 智一郎

 山雨さんのこだわり、自分はすごく好きです
 お互い頑張っていきましょう!
 印税入ったら、本、買わせていただきます^^
by 岩上 智一郎 (2007-10-29 00:55) 

山雨 乃兎

>岩上さん
有り難うございます。
このエッセイ『壁蝨』出版までの断章は、処女作が売れて軌道に乗ったときに、体験記みたいな感じで、紙媒体で出そうと密かに思って書きつづっていたのですが、なかなか次の本刊行とまでは行きませんでした。
こだわりが強い、と自分でも思います。周りは合わせるのが大変だろうな、とも思います。(笑)
そんな偏屈の文章が幸いして、なかなかに読めるエッセイでしょ。w
お互い、頑張りましょうね。(^。^)
by 山雨 乃兎 (2007-10-29 02:30) 

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